第十一話:深紅の薔薇と異邦の風
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聖アークライト暦九九三年、六月。
ジュリアン・ダラスの失脚とバリントン男爵令嬢の事実上の追放劇から一週間。
学園の空気は、以前よりも一層張り詰めたものへと変貌していた。
表向きは平和な初夏の陽光が降り注いでいるが、水面下ではダラス伯爵家という巨大な柱を失った貴族たちの間で、次なる覇権を巡る醜い椅子取りゲームが始まっていたのだ。
私は、学園のテラスでマリーが淹れた最高級のキームンを楽しみながら、手元の報告書に目を落としていた。
「……やはり、動きましたわね。ロズワール侯爵家」
「はい。ダラス家の領地と利権の半分を、王家への忠誠を誓うという名目で接収しようと画策しております。また、その娘であるベアトリクス様が、本日学園に復帰されました」
マリーの言葉に、私は薄く笑みを浮かべた。
ベアトリクス・フォン・ロズワール。
マルク公爵家と並び称される名門、ロズワール侯爵家の長女。
彼女は幼少期から、我が家とは対照的に王家への徹底した従順を装いながら、その裏で貴族たちの不満を束ねてきた「沈黙の毒薔薇」だ。
セレフィナ・ド・ラ・マルクが「王道の聖女」を演じるならば、彼女は「慎ましき王妃の鑑」を演じて、アルフレート殿下の隣を虎視眈々と狙っている。
「……お嬢様。あちらの方も、動き出したようです」
マリーの視線の先、学園の中庭を堂々と歩いてくる一団があった。
王立アカデミーの制服ではなく、どこか異国情緒漂う豪奢な軍服を纏った青年。
燃えるような赤髪と、野性味溢れる黄金色の瞳。
近隣の軍事大国、バルカ帝国の第三皇子、カイン・ド・バルカ。
帝国は留学という名目で、この学園に「獅子」を送り込んできたのだ。
「……やあ、美しい公爵令嬢。君が噂の『アークライトの氷の女神』かい?」
不意に、テラスの柵を飛び越えて、カイン皇子が私の目の前に着地した。
護衛の騎士たちが慌ててこちらへ駆け寄ろうとするのを、彼は手で制した。
「……バルカ帝国の皇子殿下ともあろうお方が、淑女のティータイムを驚かせるなど、少し品性に欠けるのではなくて?」
私は眉一つ動かさず、優雅にカップを置いた。
アメジストの瞳で彼を冷たく射抜くと、カイン皇子は面白そうに口角を上げた。
「ははっ、手厳しいね。だが、その冷たさがたまらない。……どうだい、あんなひ弱な王太子の隣で退屈しているのなら、俺と一緒に帝国の荒野へ来ないか? 君のような女には、王冠よりも俺の腕の中の方が似合っている」
彼は私の手を取ろうと、強引に距離を詰めてきた。
「カイン殿下。殿下の国では、他国の婚約者に手を出すことが礼儀なのですか?」
背後から、低く抑えられた声が響いた。
現れたのは、顔を強張らせたアルフレート殿下だった。
殿下は私の肩を抱き寄せ、カイン皇子を鋭く睨みつける。
「おっと、王太子殿下のお出ましだ。……まあいい、今夜の歓迎パーティーを楽しみにしているよ。セレフィナ、君を躍らせるのはこの俺だ」
カインは不敵な笑みを残し、風のように去って行った。
「……セレフィナ、大丈夫だったかい? あの野蛮な男に、何か失礼なことはされなかったか?」
殿下の声は、以前よりも独占欲に満ち、縋るような響きを帯びている。
「……ええ、殿下。ご心配には及びませんわ。わたくしの心は、常に殿下と共にありますもの」
私は殿下の胸に顔を寄せながら、その視線の先に、別の「毒」を見つけた。
テラスの影から、一人の令嬢が静かに歩み寄ってきた。
波打つ黒髪に、どこか憂いを含んだ深い青色の瞳。
「……アルフレート殿下、ご機嫌麗しゅう。そしてセレフィナ様も」
ベアトリクス・フォン・ロズワールは、一点の曇りもない完璧なカーテシーを見せた。
「……先ほどの無作法な留学生には、私からも厳重に注意を促しておきます。殿下の名誉を傷つけるような輩は、学園の風紀を乱す悪でしかありませんわ」
彼女の声は、慈愛に満ち、控えめで、しかし確実にセレフィナの立ち位置を侵食しようとする意図が含まれていた。
「……あら、ロズワール侯爵令嬢。貴女が風紀を心配してくださるなんて、心強いですわね。ダラス家が倒れた今、貴女の肩にかかる重荷も相当なものでしょうけれど」
私は扇を広げ、彼女の目を真っ直ぐに見つめた。
「……ええ。私はただ、殿下の平穏と、この国の伝統を守りたいだけなのです。……過激な改革や、特定の一家による権力の独占は、時として国を滅ぼしますもの。そう思いません? セレフィナ様」
ベアトリクスの言葉に、アルフレート殿下の体が微かに強張った。
(……なるほど。私を「権力欲に溺れた悪女」に仕立て上げ、自分を「伝統を守る淑やかな理解者」として殿下に売り込むつもりですのね)
クロエのような無知な子供とは違う。
ベアトリクスは、私の土俵である「正論」と「徳」を武器に、殿下の中にある「支配される恐怖」をじわじわと刺激してくる。
そして、あのカイン皇子。
彼は単なる女好きではなく、私の能力を帝国の利益に利用しようとする野心家だ。
(……盤面は整いましたわ。新緑の夜会でゴミを掃除したと思ったら、次は毒蛇と獅子が現れるなんて、ゲームには無かった展開だわ。……ふふ、退屈しなくて済みそうですわね)
私はアルフレート殿下の腕をより強く、しかし優しく絡め取った。
「殿下。今夜のパーティー、わたくしたちで完璧な舞踏を見せましょう。……誰にも、付け入る隙を与えないほどに」
「ああ、セレフィナ。君がいれば、私は何も怖くない」
殿下は、私の瞳の奥で燃える冷酷な情熱に気づかないまま、優しく微笑んだ。
新たな敵、新たな誘惑。
しかし、それら全てを私の箱庭を彩るための「肥料」にして差し上げますわ。
私は、ベアトリクスの青い瞳を真っ向から見据え、最高に美しく、最高に残酷な「聖女」の微笑みを返した。
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