第六話:無知という名の猛毒と冷徹なる証明
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聖アークライト暦九九三年、五月。
私の私室である公爵令嬢の部屋は、極めて静謐な空気に包まれていた。
黒曜石と白銀で統一された調度品は、どれも三百年の歴史を持つ一級品ばかり。
私はその中央にあるソファーに深く腰掛け、香り高いダージリンをゆっくりと口に運んだ。
「お嬢様。ご報告申し上げます」
部屋の隅の影から音もなく歩み出たのは、筆頭メイドであるマリーだった。
彼女の表情には一切の感情がなく、ただ完璧な機械のように情報を吐き出す。
「先ほど、バリントン男爵令嬢が旧校舎の裏庭にて、ジュリアン・ダラス伯爵令息と接触いたしました」
「……ダラス伯爵家、ね」
私はティーカップをソーサーに置き、冷たく嗤った。
ダラス伯爵家は、長年にわたり我がラ・マルク公爵家と対立してきた守旧派の筆頭であり、さらにはアルフレート殿下の王位継承を快く思っていない反王太子派の中核を担う家門だ。
「接触の内容は?」
「『君の純粋さこそが殿下の癒やしになる』と甘言を弄し、彼女の警戒を解いた模様です。バリントン男爵令嬢は、彼を完全に『自身の理解者』として信用し、涙を流して喜んでおりました」
「……呆れたものね。あれほどわかりやすい毒牙に、自ら首を差し出すなんて」
私は扇を広げ、口元を隠した。
あの男爵令嬢の無知は、すでに罪の領域に達している。
彼女は「自分の感情」こそが世界の中心であり、最も尊いものだと信じて疑わない。
だからこそ、その感情を肯定してくれる相手が、裏でどれほど黒い刃を研いでいるかに気づかないのだ。
「ダラス家の狙いは明白ですわね。あの無知な令嬢を殿下にさらに接近させ、彼女を操ることで、王太子派の内部から醜聞を捏造すること」
王太子が、反王太子派と通じている平民上がりの男爵令嬢にうつつを抜かしているとなれば、アルフレート殿下の王位継承権は致命的な打撃を受ける。
「マリー。殿下と男爵令嬢は今、どこに?」
「……図書室の奥の、特別閲覧室にいらっしゃいます。殿下がバリントン男爵令嬢に、歴史の課題を教えておられるようです」
「そう。……では、少し野暮用を片付けに参りましょうか。猛毒には、即座に中和剤を打たなければなりませんもの」
私は立ち上がり、完璧な弧を描くようにドレスの裾を翻した。
学園の図書室は、古き良き羊皮紙とインクの香りに満ちていた。
特別閲覧室の扉を開けると、そこには分厚い書物を前にして、困ったように笑うアルフレート殿下と、無防備に身を乗り出している少女の姿があった。
「……アルフレート殿下。お勉強の邪魔をして申し訳ございません」
私が静かに声をかけると、殿下ははっとして背筋を伸ばした。
「セ、セレフィナ……。いや、ちょうど休憩しようと思っていたところだ」
「それは重畳でございます。……バリントン男爵令嬢。貴女に、少しお尋ねしたいことがありましてよ」
私は殿下の隣に立つ彼女を、氷のようなアメジストの瞳で見据えた。
「え? 私にですか?」
彼女は無邪気に首を傾げる。
私は扇を胸元で静かに畳み、一言一句をはっきりと紡いだ。
「バリントン男爵令嬢。貴女、先ほど旧校舎の裏庭で、ジュリアン・ダラス伯爵令息と密会しておられましたね?」
その言葉に、アルフレート殿下の顔色が一瞬にして変わった。
「……ジュリアンと? クロエ、それは本当かい?」
「密会だなんて、そんな怪しいものじゃありません! ただ偶然お会いして、少しお話ししただけです!」
彼女は慌てて否定するが、その態度はむしろ「何かあった」ことを雄弁に物語っていた。
「バリントン男爵令嬢。貴女はご自身の立場と、殿下の置かれている状況を全く理解しておられない」
私は、敢えて殿下の目の前で、冷徹な事実を突きつけた。
「ダラス伯爵家は、王家の革新的な政策に反発する守旧派の筆頭。そして何より、アルフレート殿下の王位継承を快く思っていない『反王太子派』の急先鋒です。……その次男であるジュリアン令息が、殿下のお側にいる貴女に偶然を装って近づく。それが何を意味するか、お分かりになりませんの?」
「え……? 反王太子派……?」
彼女は目を丸くして、私と殿下を交互に見た。
「彼らは貴女の『純粋さ』を利用し、貴女を操ることで、殿下の名誉を失墜させるための醜聞を捏造しようとしているのです。貴女が彼と親しくすることは、そのまま殿下の背中に短剣を突き立てる行為と同義ですわ」
私は、逃げ場のない正論で彼女を壁際に追い詰めた。
貴族社会の恐ろしさを知らない彼女に、政治という名の冷酷な現実を叩きつける。
殿下を守るための、完璧な婚約者としての振る舞い。
普通であれば、ここで己の無知を恥じ、殿下に謝罪して身を引くのが「常識」だ。
だが、彼女は私の予想を遥かに超える「愚かさ」を持っていた。
「……違います! ジュリアン先輩は、そんな悪い人じゃありません!」
男爵令嬢は、静謐な図書室に響くような大きな声で叫んだ。
「先輩は、私の純粋さを褒めてくれました! 誰も私のことを認めてくれないこの学園で、唯一、私のありのままを肯定してくれたんです! 政治とか派閥とか、そんなややこしいこと、先輩は一言も言ってませんでした!」
「……バリントン男爵令嬢。貴女は、裏で毒を盛る人間が、表で『私は毒を持っています』と自己紹介すると思っているのですか?」
「セレフィナ様は、いつもそうやって人を疑ってばかりなんですね! 家柄とか立場とか、そういう色眼鏡でしか人を見られないから、そんな風に冷たいことばかり言えるんです!」
彼女は顔を真っ赤にして、私を激しく睨みつけた。
「ジュリアン先輩は優しい人です! セレフィナ様みたいに、冷たい理屈で人を縛りつけたりしません! 私は、私のことを分かってくれる人を信じます!」
彼女は「自分の感情」という、誰にも侵されない絶対的な正義を振りかざした。
私は、そのあまりに短絡的で、王太子の側近としては致命的なお花畑の発言に、内心で歓喜の声を上げていた。
(……完璧。ええ、もっと叫びなさい。貴女のその『政治を軽んじる態度』が、どれほど殿下を絶望させるか、自分で証明してみせなさい)
私は静かに息を吐き、悲しげに殿下を見つめた。
殿下は、信じられないものを見るような目で、彼女を見下ろしていた。
「……クロエ。君は、自分が何を言っているのか分かっているのか? ジュリアンが私を失脚させようとしているのは、紛れもない事実なんだぞ」
殿下の声は、微かに震えていた。
彼が彼女に見出していた「純粋さ」は、政治という現実の前では、ただの「無知という名の凶器」でしかないことに、ようやく気づいたのだ。
自分が好意を寄せ、安らぎを感じていた少女が、自分の命と王位を脅かす敵を「優しい人だ」と庇い、自らの婚約者を「冷たい」と罵っている。
その事実は、理想主義者である殿下の心に、冷ややかな楔を打ち込んだはずだ。
「アルフレート様……? だって、先輩は本当に……」
「もういい。……セレフィナ、君の言う通りだった。私は、少し疲れているようだ。……部屋に戻るよ」
殿下は彼女に冷たい一瞥をくれ、そのまま図書室を後にしてしまった。
「あ……アルフレート様!」
彼女が後を追おうとするが、私はその前にすっと立ち塞がった。
「バリントン男爵令嬢。殿下はご休息を必要とされています。……これ以上、殿下の御心を乱すのはおやめなさい」
「セレフィナ様が、アルフレート様に変なことを吹き込んだから……!」
「吹き込んだのではありません。わたくしは、事実を申し上げたまでです」
私は扇で口元を隠し、彼女にだけ聞こえるほどの低い声で囁いた。
「バリントン男爵令嬢。貴女のその『純粋な心』とやらが、殿下をどれほど傷つけ、孤立させているか。……少しは頭を使ってお考えなさいな」
私は冷たく言い放ち、呆然と立ち尽くす彼女を残して、優雅に背を向けた。
図書室を出て廊下を歩きながら、私は誰にも見えないように口角を深く吊り上げた。
自らの無知を正当化し、感情論で政治を否定する。
そんな愚かな女を、未来の王が隣に置くことなど絶対に許されない。
殿下の心に生じた「失望」という名のひび割れは、もう二度と修復することはないだろう。
「さあ、泥棒猫。貴女が頼りにする『優しい先輩』が、いつ牙を剥くか……精々、震えて待つことね」
私の唇から漏れた毒は、甘く、そしてどこまでも残酷だった。
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