第五話:息苦しい鳥籠と優しい毒
明日も21時に更新します
聖アークライト暦九九三年、五月。
王立アカデミーに入学してからひと月が経ち、私、クロエ・バリントンの周りの景色はすっかり色を失っていた。
男爵家に引き取られる前、平民として暮らしていた頃の私は、この学園を「選ばれた素晴らしい人たちが集まる、きらきらした場所」だと思っていた。
でも、現実は違った。
ここは、目に見えない無数の糸が張り巡らされた、息苦しくて冷たい鳥籠だった。
「……ごきげんよう、バリントンさん」
廊下ですれ違う令嬢たちが、扇の陰から私を見てクスクスと笑う。
私が挨拶を返そうと立ち止まっても、彼女たちは私を空気のように無視して通り過ぎていく。
授業で隣の席になった令嬢に「この教科書、どこを開けばいいんですか?」と尋ねても、返ってくるのは汚いものを見るような視線だけ。
誰も私に話しかけてくれないし、私が何をしても「不作法だ」「平民上がりだ」と陰口を叩かれる。
あのサロンでの出来事以来、その空気は決定的なものになっていた。
公爵令嬢であるセレフィナ様。
銀色の髪と、氷のように冷たい紫色の瞳を持った、誰もが平伏す完璧なお姫様。
彼女は「心配している」と言いながら、いつも私を理屈で縛りつけようとする。
身分がどうとか、立場がどうとか、そんな言葉ばかりを並べて、私とアルフレート様を引き離そうとするのだ。
私はただ、アルフレート様とお話しするのが楽しいだけなのに。
彼はこの冷たい学園の中で、唯一私を「クロエ」として見てくれる、優しくて温かい人なのに。
どうして、純粋な気持ちのままじゃいけないんだろう。
貴族の「伝統」なんて、ただの意地悪のための道具にしか思えなかった。
「はあ……」
お昼休み、私は誰も来ない旧校舎の裏庭に逃げ込み、大きな木の下にしゃがみ込んだ。
ここなら、誰の冷たい視線も浴びずに済む。
私は胸元から、お母さんの形見である古いブローチを取り出し、ぎゅっと両手で握りしめた。
これを持っていると、少しだけ勇気が出る気がするから。
「……どうしたんだい? そんなに暗い顔をして」
突然、頭上から柔らかい声が降ってきた。
驚いて顔を上げると、そこには見知らぬ上級生の男子生徒が立っていた。
鳶色の髪に、優しげなヘーゼルナッツの瞳をした、とても背の高い人。
制服の胸元には、高位貴族を示す銀色のピンが光っている。
「あ……ご、ごめんなさい! すぐに退きますから!」
私は慌てて立ち上がり、頭を下げた。
また「不作法だ」と怒られるかもしれないと、体が勝手に震える。
「いやいや、謝らなくていいよ。ここは私の秘密の場所でもあったんだけど、君みたいな可愛らしいお嬢さんが先客なら、大歓迎さ」
彼は怒るどころか、とても親しげに微笑んでくれた。
「私はジュリアン・ダラス。ダラス伯爵家の次男だ。……君はもしかして、噂のクロエ・バリントン嬢かな?」
「噂……?」
「ああ。入学式でアルフレート殿下の心を射止めた、可憐で天真爛漫な妖精がいるって、上級生の間でも持ちきりなんだよ」
妖精、という言葉に、私は思わず顔を赤くした。
そんな風に言ってくれる人がいるなんて、思いもしなかったからだ。
「でも……私なんて、みんなから嫌われています。セレフィナ様みたいに完璧じゃないし、作法も全然わからないから……」
ぽつりと漏らした私の言葉に、ジュリアン先輩は悲しそうな顔をした。
「セレフィナ様か。……彼女は確かに優秀だけど、少し厳しすぎるところがあるよね。あのラ・マルク公爵家の血筋だから、仕方ないのかもしれないけれど」
彼は私の隣にしゃがみ込み、目線を合わせてくれた。
「私はね、クロエ嬢。君のその『純粋さ』こそが、この澱んだ学園には必要だと思っているんだ」
「私の、純粋さ……?」
「そうさ。誰もが家柄や派閥の顔色ばかりを窺って、本音で話そうとしない。アルフレート殿下も、きっとそんな息苦しい毎日に疲れていたんだと思う。だから、君のような裏表のない素敵な女性に惹かれたんだ」
ジュリアン先輩の言葉は、干からびた心に染み込む甘い水のように優しかった。
私のありのままでいいんだと、初めて肯定してくれた人が現れたのだ。
「でも……私が殿下とお話しすると、セレフィナ様が……」
「殿下の隣に立つべきは、冷たい正論で人を縛る女じゃない。君のように、殿下の心を癒やせる優しい女性であるべきだと、私は思うよ」
彼はそう言って、私の頭を優しく撫でてくれた。
「もし、何か困ったことがあったら、いつでも私を頼っておいで。私は君の味方だから」
「ジュリアン、先輩……」
私は、その温かい言葉に思わず涙ぐんでしまった。
この学園にも、私をわかってくれる人がいた。
私の気持ちを「正しい」と言ってくれる人がいたのだ。
「ありがとうございます……! 私、頑張ります。アルフレート様のためにも、私らしくいられるように……!」
私は形見のブローチを握りしめながら、力強く頷いた。
ジュリアン先輩が、まるで獲物を見つけた狩人のような、暗く冷たい笑みを浮かべていたことなど、ちっとも気づかないまま。
私の純粋な想いが、殿下を底なしの泥沼に引きずり込む罠の始まりだなんて、この時の私には知る由もなかったのだ。
高評価とブックマークをよろしくお願いします。
コメントへの返信はしないと思います。




