第四話:静かなる対立と綻びの予兆
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聖アークライト暦九九三年、四月八日。
入学式を終えた午後。
私は婚約者であるアルフレート殿下と共に、次期王妃としての義務を果たすべく、主要な貴族子弟たちへの挨拶回りを完璧にこなしていた。
「セレフィナ。少し、一人で歩いても良いだろうか。式の緊張がまだ解けなくてね」
殿下が珍しく、少し疲れたような、それでいてどこか落ち着かない様子で切り出した。
「……左様でございますか。では、わたくしはサロンで皆様とお茶の準備をしてお待ちしておりますわ。あまり遠くへは行かれませんよう」
私は優雅に一礼し、彼を送り出した。
もちろん、影には公爵家から回した護衛と、王家の近衛兵が控えている。
だが、運命という名の悪趣味な喜劇は、そのわずかな監視の隙間を縫って忍び寄った。
殿下が庭園の奥、静かな噴水のほとりで一人、羽を休めていたときのことだ。
「……あ、ごめんなさい! 誰かいるなんて思わなくて」
生い茂る木々の向こうから、一人の少女が慌てた様子で飛び出してきた。
男爵令嬢、クロエ・バリントン。
彼女は殿下の姿を認めると、その場に固まった。
だが、彼女が浮かべたのは、貴族であれば当然見せるべき畏怖や、訓練されたカーテシーではなかった。
彼女は自分の制服が汚れているのも構わず、噴水の縁にしゃがみ込み、何かを必死に探していたのだ。
「……そこで何をしている。ここは立ち入りが制限されているはずだが」
殿下が、王族としての威厳を保ちつつも、穏やかな声で問いかけた。
近衛兵が茂みから姿を現そうとするのを、殿下は手制して止めた。
「あの、私、お母さんの形見のブローチを落としちゃって……。さっき、この辺りで草むしりをしていた時に……」
「……草むしり?」
殿下は絶句した。
この学園の庭園は、専属の庭師が管理している。
貴族の令嬢が自ら土を弄るなど、前代未聞の奇行だった。
「私、男爵家に引き取られる前は、ずっと野原で遊んでいたから……。つい、癖で。あ、変ですよね、すみません。……でも、本当に大切なんです。一緒に探して……なんて、言ったら怒られますよね」
彼女は泣き出しそうな顔で、殿下を見上げた。
その瞳には、相手が誰であるかという計算も、媚びもなかった。
ただ、失いたくないものを必死に守ろうとする、剥き出しの感情。
「……いいよ。私が、一緒に探そう。……名前を聞いてもいいかな?」
「クロエです。クロエ・バリントン。……ありがとうございます、親切な方」
彼女は殿下の正体を知らぬまま、その慈悲に、花が綻ぶような微笑みを向けた。
それが、殿下にとって「完璧に調教された世界」の外側から差し込んだ、最初の一筋の光だった。
それから二週間。
学園生活が本格的に始まると、その綻びは私の計算を上回る速度で広がっていった。
クロエ・バリントンは、その無知ゆえの「純粋さ」で、殿下の日常に静かに浸透していった。
「アルフレート様、今日も図書館で勉強ですか? 根を詰めすぎると、お体に毒ですよ」
廊下ですれ違う際、彼女は周囲の目を憚ることなく、親しげに声をかける。
殿下はそれを咎めるどころか、むしろ待ち望んでいるかのように、彼女との短い会話に相好を崩すようになった。
だが、その「微笑ましい光景」の裏側で、学園内の秩序は音を立てて崩壊していた。
「お嬢様。バリントン男爵令嬢の振る舞いにより、他の令嬢たちの間で『王家の威信が失墜している』との声が上がっております。また、他派閥の者たちが、彼女を殿下への『弱み』として利用しようと画策しているとの情報が入りました」
マリーが影のように寄り添い、冷淡な報告を耳元で囁く。
「……ええ、わかっているわ。毒を美化する者には、相応の解毒剤が必要だということを、学園の皆様の前で証明してあげましょう」
私は手にしていた扇を、音もなく閉じた。
聖アークライト暦九九三年、四月二十二日。
学園のサロンは、凍りついたような沈黙が支配していた。
私がアルフレート殿下と窓辺で静かに談笑していたとき、その空気は唐突に破られた。
「……アルフレート様! またここでお会いしましたね!」
迷いなく私たちのテーブルへと歩み寄ってきたのは、クロエ・バリントンだった。
彼女は周囲の高位貴族たちが一斉に冷ややかな視線を送っていることにも気づかず、満面の笑みで殿下に話しかける。
「あ、お隣の方は……もしかして、噂のセレフィナ様ですか? 初めまして! 私、クロエ・バリントンです。殿下から、とっても素晴らしい方だと伺っています!」
彼女は丁寧な挨拶のつもりなのだろうが、公爵令嬢である私に対し、殿下の紹介も待たずに、友人でもあるかのように話しかける。
その「対等」を気取った振る舞いに、サロン内の空気は一瞬で氷点下まで下がった。
「……初めまして、バリントン男爵令嬢。アルフレート殿下から、貴女のお話は伺っておりますわ」
私は優雅に微笑み、完璧な動作で彼女を迎え入れた。
「……ですがバリントン男爵令嬢。殿下とこうしてお話しされる際は、少しだけ周囲へのご配慮を忘れないでくださいな。貴女のその親しみやすさが、時には殿下の権威を損ない、貴女自身への不当な批判に繋がってしまうことを、わたくしは案じているのです」
私はあくまで、年長者が後輩を諭すような、慈愛に満ちた「善意の忠告」として言葉を紡いだ。
「……え?」
クロエの笑顔が、微かに強張った。
「……あ、あの。私、ただご挨拶をしただけで。殿下もいいって言ってくださっていますし。……もしかして、私、何か悪いことしましたか?」
「悪いこと、ではなく……『立場』の問題なのですわ。貴女が殿下を『様』付けで気安く呼ぶたびに、周囲の者たちは貴女の家格や教育を疑います。それは貴女にとっても、殿下にとっても、決して良いことではありませんのよ」
私の「正論」は、ただ事実を鏡のように照らし出す。
「……セレフィナ様は、いつもそうやって理屈でお話しされるんですね。……でも、私は。殿下とのお喋りが楽しいから、こうしているんです。それを『立場』なんて言葉で否定されるのは、悲しいです」
クロエは少し俯き、潤んだ瞳で殿下を上目遣いに見た。
「……アルフレート様。私、やっぱりここにいるのは場違いだったみたいです。……すみません、お邪魔して」
「あ、いや。クロエ、待って……」
殿下は困惑し、しかしクロエの「傷ついた様子」を見て、反射的にフォローの言葉を口にしようとした。
だが、サロン内の令嬢たちの冷淡な視線に射抜かれ、言葉を飲み込んでいる間に、クロエは去って行った。
「……セレフィナ。彼女は、まだ社交界の機微に疎いだけなんだ。あまり厳しく言わないであげてくれないか」
「……殿下。厳しく聞こえたのでしたら、わたくしの言葉が足りませんでした。……申し訳ございません。ただ、バリントン男爵令嬢がこの学園で孤立してしまわないか、それだけが心配で……」
私は、悲しげに瞳を伏せ、自責の念を滲ませた。
その姿は、無自覚な無礼を働く少女を、身を削って守ろうとする健気な聖女そのものだった。
私は扇を広げ、冷たいアメジストの瞳で、逃げていく獲物の後ろ姿を静かに見つめていた。
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