第二十八話:砂上の帝国と冷徹なる傍観者
聖アークライト暦九九四年、六月。
王立アカデミーの最終学年は、わたくしにとって、もはや学びの場ではなく、優雅な休息の場となっていた。
学園内の秩序は完全に保たれ、わたくしに異を唱える愚か者は一人も存在しない。
緑深き中庭の特等席で、わたくしはアルフレート殿下と共に、最高級のダージリンを味わっていた。
「……セレフィナ。隣国バルカ帝国からの急報だ。第一皇子ガレアスと、第三皇子カインの派閥がついに武力衝突を起こしたらしい」
アルフレート殿下が、沈痛な面持ちで一枚の報告書をわたくしに手渡した。
「まあ。それは、とても痛ましいことですわね」
わたくしは報告書に軽く目を通し、扇で口元を隠して静かに息を吐いた。
バルカ帝国の内乱。
それは、わたくしが数ヶ月前から緻密に計算し、誘導してきた結果に他ならない。
カイン皇子が国境で軍を動かした際、わたくしは帝国の第一皇子派に情報を流し、彼を失脚させた。
軍の指揮権を剥奪され、帝都で軟禁状態に置かれたカインだったが、あの野蛮な獅子が大人しくしているはずがない。
彼は自らの直属の配下を扇動し、ついに異母兄である第一皇子へのクーデターを引き起こしたのだ。
「……報告によれば、帝都の市街地で激しい市街戦が繰り広げられ、多数の死傷者が出ているという。カイン皇子の武勇は凄まじいが、第一皇子側の正規軍も一歩も引いていないそうだ」
殿下は報告書から目を離し、憂いを帯びたサファイアの瞳で遠く東の空を見つめた。
「我が国と国境を接する大国が内乱状態に陥るのは、非常に危険な事態だ。……難民の流入や、戦火の飛び火も警戒しなければならない。セレフィナ、君はこの事態をどう見る?」
「殿下。ご心配には及びませんわ」
わたくしはティーカップを優雅に置き、殿下に安心させるような微笑みを向けた。
「彼らが内乱を起こしている間、我が国の国境はかつてないほど安全に保たれます。……バルカ帝国は今、他国に侵略する余裕など一切ありませんもの。難民の受け入れに関しても、すでに国境沿いの領主たちに厳重な検疫と身元調査を徹底させておりますわ」
「……そうか。君がそこまで手配してくれているのなら、心強い」
殿下は深く安堵の息を吐き、わたくしの手を優しく握った。
「だが、やはり同じ人間同士が血を流し合うのは悲しいことだ。……可能であれば、我が国から調停の使者を送り、停戦を呼びかけるべきだろうか?」
殿下のその言葉は、彼が本来持っている「善良さ」と「理想主義」から来るものだ。
だが、為政者にとって、その無防備な善良さは時に国家を滅ぼす毒となる。
「殿下のお優しいお心は、本当に素晴らしいと思いますわ」
わたくしは殿下の手を握り返し、諭すように、そしてどこまでも完璧な正論を紡いだ。
「わたくしたちも、隣国との平和的な共栄を心から望んでおります。……ですが、彼らが自らの手で血を流し、内部の覇権を争っている現状において、第三者が不用意に介入すれば、その刃は必ず仲裁者へと向かいますわ」
「それは……確かに、火に油を注ぐ結果になりかねないな」
「真の共栄とは、彼らが自らの手で秩序を取り戻し、理知的な対話ができるようになって初めて成り立つものです。……今、私たちが無理に手を差し伸べても、それは彼らの誇りを傷つけ、我が国からの内政干渉という戦争の口実を与えるだけですわ」
わたくしの言葉に、殿下は微かに目を見開いた。
「それでは、私たちはただ隣国が燃えるのを見ているしかないのか?」
「いいえ、殿下。彼らが自浄作用を働かせている間、我が国は経済を回し、富を蓄え、国力を盤石なものにしておくのです。……いずれ彼らの内乱が終わり、傷ついた国を復興させようとした時、我が国が強大な経済力をもって支援の手を差し伸べる。それこそが、長期的な共栄と平和に繋がる最善の道ですわ」
未来の復興支援という美しい建前。
だが、その本質は「内乱が泥沼化するのを放置し、疲弊しきった戦後に莫大な資金を貸し付けて経済的属国にする」という冷徹な計算である。
「……君の言う通りだ、セレフィナ。私はまた、一時の感情に流されて国を危うくするところだった」
殿下は深く頷き、自らを戒めるように目を閉じた。
「未来の共栄のために、今はあえて静観し、我が国の地盤を固める。君のその大局的な視点が、この国を守っているのだな。……私は、君の言葉だけを信じていればいい」
「ええ、殿下。わたくしが、この国の全てを正しき道へと導いて差し上げますわ」
わたくしは殿下に、完璧な聖女の微笑みを向けた。
その日の午後、わたくしは自室に戻り、マリーから詳細な裏の報告を受けていた。
「……お嬢様。バルカ帝国の内乱ですが、第一皇子側には西の軍事国家から、カイン皇子側には南の商業連邦から、それぞれ極秘裏に最新の武器と資金が援助されているようです」
「ふふ、見事ですわね」
わたくしは報告書を読みながら、満足げに笑みを深めた。
西の軍事国家と南の商業連邦。
どちらも、わたくしが構築した『ラ・マルク基金』の経済ネットワークに深く依存している国々だ。
わたくしは彼らの首脳陣に密かに手を回し、バルカ帝国の両陣営に「均等に」武器と資金を貸し付けるよう誘導したのである。
どちらか一方が圧倒的に勝ってしまっては意味がない。
彼らには、互いの力が拮抗したまま、何年も泥沼の殺し合いを続けてもらわなければならないのだ。
「カイン殿下は武勇に優れていますが、長期戦を支えるだけの経済力を持っていません。……武器と食糧を絶たれないために、彼はいずれ、支援国に対して莫大な借金を背負うことになりますわね」
「はい。内乱が終結する頃には、バルカ帝国は完全に我が国の経済圏の下請け国家へと成り下がるでしょう」
マリーの冷静な分析に、わたくしは扇を優雅に揺らした。
カイン・ド・バルカ。
わたくしを力で屈服させようとした、あの野蛮な獅子。
彼は今頃、帝都の血まみれの瓦礫の中で、自分が誰の掌の上で踊らされているのかも気づかずに剣を振るっていることだろう。
彼が兄を殺し、ようやく血塗られた玉座を手に入れた時。
そこにあるのは、再起不能なほどの莫大な借金と、わたくしが握りしめる見えない経済の鎖だけだ。
「……盤上の駒は、自らの意思で動いていると錯覚している時が、一番よく働くものですわ」
わたくしは窓の外、夏の眩しい日差しに照らされた王都の街並みを見下ろした。
国内の政敵は排除し、王家の実権は掌握し、脅威となる隣国は内部崩壊へと導いた。
完璧な悪役令嬢としての箱庭は、いよいよその完成の時を迎えようとしていた。
「さあ、アルフレート殿下。わたくしたちの輝かしい未来の総仕上げを、始めましょうか」
わたくしの冷たいアメジストの瞳には、この世界の全てを支配する者の、絶対的な歓喜が宿っていた。




