第二十七話:沈黙の学園と銀縁の屈服
聖アークライト暦九九四年、四月。
王立アカデミーに、再び春が訪れた。
新入生を迎え入れる喜びに満ちているはずの学園は、しかし、どこか息苦しいほどの異常な静寂と秩序に支配されていた。
私、ルードヴィヒ・ド・ラ・マルクは、生徒会長としての最後の春を迎え、生徒会室の窓から中庭の様子を冷ややかに見下ろしていた。
「……恐ろしい光景だな」
私の視線の先には、新学期の挨拶を交わす生徒たちの姿がある。
だが、彼らの中心を歩く一人の令嬢が近づくたびに、まるで海が割れるかのように、数百人の生徒たちが一斉に道を譲り、深く頭を垂れるのだ。
銀色の髪を春の風に揺らし、完璧な淑女の微笑みを浮かべて歩く彼女。
次期王妃、セレフィナ・ド・ラ・マルク。
昨年、彼女に逆らった者たちの末路は、学園中の誰もが知っている。
無知な純粋さで彼女の婚約者に近づいた男爵令嬢は永久追放され、裏で糸を引いていたダラス伯爵家は反逆罪で粛清された。
さらには、「慈悲」を説いて彼女を非難したロズワール侯爵家すら、当主が不正の罪で捕縛され、長女であるベアトリクスは実質的な幽閉状態に置かれているという。
「もはやこの学園は、実力主義の学び舎ではない。……彼女の冷徹な正論と権力によって統制された、完璧な階級社会だ」
私は銀縁眼鏡を押し上げ、深く嘆息した。
かつて「伝統に泥を塗る者は容赦しない」と豪語していた学園長のバルテル・フォン・ローゼンハイム侯爵ですら、セレフィナの圧倒的な経済支援(ラ・マルク基金からの莫大な寄付)と、隙のない正論の前に、完全に沈黙を余儀なくされていた。
「……失礼いたしますわ、生徒会長」
不意に生徒会室の扉が開き、噂の主であるセレフィナが、アルフレート殿下を伴って優雅に入室してきた。
私は即座に姿勢を正し、王族に対する礼を取った。
「やあ、ルードヴィヒ。新学期の準備で忙しいところ、すまないね」
アルフレート殿下は、私に気さくに声をかけてくださった。
だが、そのサファイアの瞳には、かつて彼が熱に浮かされたように語っていた「自らの理想で新しい時代を創る」というような、危うい熱狂の光はない。
今の彼は、ただ静かに、隣に立つセレフィナの存在を自らの絶対的な基盤として受け入れているように見えた。
「殿下。お気になさらず。……本日は、どのようなご用件でしょうか」
私が警戒を隠しきれずに問うと、セレフィナが扇を閉じ、静かな声で切り出した。
「ルードヴィヒ。貴方は今年でこの学園をご卒業されますわね。……卒業後の進路について、お話がありましてよ」
「進路、ですか」
「ええ。貴方はラ・マルク公爵家の傍系であり、生徒会長を務めるほどの優秀な頭脳の持ち主。……卒業後は、王宮の『王太子直属の内務補佐官』のポストを用意いたしましたわ。そこで、わたくしたちの政策の立案と実行を支えていただきます」
彼女の言葉は、提案や勧誘ではない。
王家の名の下に行われる、有無を言わさぬ「配置」だった。
内務補佐官。それは、ゆくゆくは国家の中枢を担う重要な役職だが、同時にセレフィナの目の届く範囲で、常に彼女の監視と指揮下に置かれることを意味している。
「……セレフィナ。私は、己の力で王宮の試験を受け、実力でポストを勝ち取るつもりだ。公爵家の縁故や、君の威光にすがるつもりはない」
私は実力主義者としての最後の矜持を振り絞り、彼女の提案を拒絶しようとした。
だが、彼女は痛いところを突かれたように怒るでもなく、ただ哀れむような眼差しを私に向けた。
「ルードヴィヒ。貴方はまだ、そんな青臭い理想を信じているの?」
「……なに?」
「実力で勝ち取る? 貴方のその『実力』を評価し、ポストを与えるのは誰ですか? 結局のところ、それは現在の権力を持つ者たちの『主観』でしかありませんわ。……古い派閥に媚びを売り、無駄な遠回りをして才能を腐らせるより、わたくしたちが用意した盤上で、最も効率的に国家のためにその頭脳を使うべきではありませんこと?」
彼女の冷徹な正論は、私の反論の余地を悉く削り取っていく。
「……ルードヴィヒ。セレフィナの言う通りだ」
不意に、アルフレート殿下が静かな、しかし確固たる声で私に告げた。
「君の優秀さは私もよく知っている。だが、今の王宮には、古き伝統にしがみつく無能な老害たちが多すぎる。……君のような若く合理的な頭脳が、次期王妃となるセレフィナの政策を補佐し、この私を支えてくれることが、今後のアークライト王国にとって最も有益なのだ。……どうか、私のために力を貸してほしい」
「殿、下……」
私は、絶望に似た衝撃を受けた。
アルフレート殿下は、自らが主君であるという体裁を保ちながらも、その実、セレフィナの掲げる政策と知略を「国家の絶対的な正解」として完全に同調しているのだ。
王家は、すでに思想の根底から彼女に掌握されている。
彼女の描く完璧な設計図の中に、アルフレート殿下は「最も輝かしい大義名分」として組み込まれ、そして私もまた、「有能な歯車」として組み込まれようとしている。
(……私は、彼女には勝てない)
ダラス家の暴力も、ロズワール家の伝統も、バルカ帝国の脅威すらも退けたこの怪物に、私のちっぽけな実力主義など通用するはずがなかった。
同時に、私は自分の中にある恐ろしい感情に気づいてしまった。
無能な者が感情や血筋だけで上に立つ腐敗した政治よりも。
この氷のように冷たく、完璧な合理性で構築された彼女の支配体制の下で働く方が、私の能力を最大限に活かせるのではないか。
彼女の用意した盤面は、実力主義者である私の目から見ても、あまりにも美しく、抗いがたい魅力を放っていたのだ。
「……わかりました、殿下。そして、セレフィナ様」
私はゆっくりと、その場に片膝をつき、深く頭を垂れた。
「私のこの頭脳。……次期王妃であられる貴女様と、アルフレート殿下が思い描く国家のために、存分にお役立てください」
「ええ、賢明な判断ですわ、ルードヴィヒ。貴方のその優秀な才能が、この国の未来のために最も効率的に機能する場所をご用意いたしますわ」
頭上から降ってくる彼女の声は、どこまでも澄み切って、そして完璧な為政者としての冷ややかさを帯びていた。
学園の絶対君主は、ついに王宮の未来の官僚機構をも己の手中に収めた。
私は床の絨毯を見つめながら、この国の歴史が、一人の令嬢の完璧な計算によって全く新しい形へと作り変えられる瞬間に立ち会っていることを、静かな戦慄と共に悟っていた。




