第二十六話:黒曜石の執務室と怪物の証明
聖アークライト暦九九四年、二月。
厳冬の王都は、先月の動乱が嘘であったかのような、静謐で穏やかな空気に包まれていた。
ヴァイス商会の解体とロズワール侯爵家の没落を経て、王都の経済と物流は、完全にわたくしが構築した『ラ・マルク基金』の支配下へと移行した。
民衆は、飢えと寒さから自分たちを救ってくれたアルフレート殿下とわたくしを「真の救世主」として熱狂的に支持し、もはや王家に逆らう声はどこからも上がらない。
「……お嬢様。全ての事後処理が完了いたしました。市場の物価は安定し、ロズワール家の旧領地も、我が商会連合が実質的な管理権を掌握しております」
ラ・マルク公爵家の別邸にて、マリーが静かに報告を終える。
「ご苦労様、マリー。……これで、国内の主要な毒虫は全て駆除できましたわね。残るは、この国を外側から囲む者たちと、内側で無駄な権威にしがみつく老害たちだけ」
わたくしは香り高い紅茶を一口啜り、窓の外の雪景色へと視線を向けた。
ダラス家を崩壊させ、ロズワール家を経済で干上がらせ、バルカ帝国のカインを内部抗争の泥沼へと突き落とした。
わたくしの箱庭は、理想的な美しさを保ちつつある。
だが、まだ一つだけ、わたくしが完全に「玉座」を支配するために越えなければならない壁があった。
「……お嬢様。旦那様が、執務室でお待ちです」
控えめなノックと共に現れた老執事の言葉に、わたくしは静かに立ち上がった。
わたくしの実父であり、この国の宰相を務める「鉄の男」、マルクス・ド・ラ・マルク公爵。
彼こそが、わたくしを幼い頃から政治の道具として鍛え上げ、わたくしにこの冷酷な世界を生き抜く「牙」を与えた人物だ。
重厚なマホガニーの扉を開けると、そこは冷たい黒曜石の装飾で統一された、感情を一切排したような執務室だった。
広大な机の奥で、白髪交じりの銀髪をオールバックにした父が、鋭い鷹のような目でわたくしを見据えていた。
「……入るがいい、セレフィナ。お前の王都での見事な手腕、しかと見せてもらった」
父の声は低く、しかし隠しきれない賞賛の色が混じっていた。
「恐れ入ります、お父様。わたくしはただ、ラ・マルク公爵家の名に恥じぬよう、邪魔な小石を道から退けたまでにございます」
わたくしは完璧なカーテシーを見せ、父の対面に用意された革張りの椅子に腰を下ろした。
「小石、か。……ロズワール侯爵家という建国以来の名門を、暗殺も武力も使わず、わずか数ヶ月の経済操作で破滅させた。しかも、その全ての罪を彼ら自身の『不正』として大衆に暴き立て、王太子には恩を売らせた。……お前はもはや、私の想像を遥かに超える怪物に育ったようだな」
父は葉巻の煙をゆっくりと吐き出しながら、探るような視線をわたくしに向けた。
「お父様こそ、議会でわたくしの商会連合への優遇措置を迅速に通してくださいましたこと、深く感謝いたしますわ。お父様の『鉄の宰相』としての根回しがなければ、これほど鮮やかな幕引きはできませんでした」
「……フン。お前が事前に用意していた証拠とシナリオが、あまりにも完璧だったからだ。あそこで私が動かなければ、ラ・マルク家の権威すらも不自然に疑われる状況だったからな」
父は口元を微かに歪め、机の上で両手を組んだ。
「だがな、セレフィナ。お前は少し、盤面を急ぎすぎている。……アルフレート殿下を完全に心酔させ、王家の実権を握ろうとするお前の野心に、国王陛下も、そして王妃殿下も、確かな恐怖と警戒を抱き始めているぞ」
「警戒、ですか。それは重畳ですわ」
わたくしは扇を広げ、氷のように冷たく微笑んだ。
「権力とは、愛されることではなく、恐れられることによってのみ絶対的なものとなります。陛下や王妃殿下がわたくしを恐れるのであれば、それはわたくしが王家を凌駕する力を持ったという証明に他なりません」
わたくしの傲慢とも取れる発言に、父の目が剣呑に細められた。
「……思い上がるなよ、セレフィナ。王の首輪を握る者は、時に王以上に恨みを買う。お前がどれほどの知略を持とうと、孤立すればいずれ足をすくわれる」
「孤立などいたしませんわ、お父様。わたくしには、このラ・マルク公爵家という最強の後ろ盾がございますもの」
わたくしは扇を閉じ、父の目を真っ直ぐに射抜いた。
「お父様。わたくしは、この国を永遠に豊かで強固なものにするために、アルフレート殿下の隣で完全なる支配体制を構築いたします。……そのために、この公爵家の財力、権力、そして『影』の全てを、わたくしの手足として自由に使わせていただきますわ」
「……なんだと?」
父の顔に、明確な驚愕の色が浮かんだ。
娘が父親に助力を請うのではない。
娘が、当主である父親に向かって「公爵家という組織をわたくしの駒として差し出せ」と要求しているのだ。
「お前は、この私すらも、己の盤上のチェス駒の一つとして扱うつもりか?」
父の声が、地を這うような低い怒気を帯びる。
だが、わたくしは全く動じることなく、冷徹な微笑みを絶やさなかった。
「駒ではありません。わたくしが王妃として君臨するための、最も強固で有益な『土台』ですわ。……お父様はかつて、わたくしに帝王学を授け、『公爵家の利益となる最強の武器になれ』と仰いました。わたくしは今、その期待に完璧に応え、公爵家の権威を王家すらも凌ぐ絶対的なものに引き上げようとしているのです」
わたくしはゆっくりと立ち上がり、黒曜石の机に両手をついて、父の顔に近づいた。
「お父様。わたくしを怪物に育て上げたのは、他でもない貴方です。……ならば、貴方が創り出したこの怪物が、世界の頂点に立つその日まで、その鉄の意志でわたくしを支え続けるのが、創造主としての義務ではありませんこと?」
沈黙が、冷たい執務室を支配した。
父はわたくしの目をジッと見つめ返し、わたくしもまた、一片の感情も交えずに父の眼底を覗き込んだ。
そこにあるのは、親子の情愛などという生温かいものではない。
互いの力量を測り合い、国家の運命を天秤にかける、冷酷な政治家同士の闘争。
やがて。
「……ふっ、くくくっ……はははははっ!!」
父は突然、肩を揺らして低く笑い始め、やがてそれは執務室に響き渡る大笑いへと変わった。
「……見事だ。見事だよ、セレフィナ。まさか、私が育てた娘が、この私の喉元にまで短剣を突きつけてくるとはな」
父は笑い涙を指で拭いながら、どこか歓喜に満ちた瞳でわたくしを見上げた。
「いいだろう。お前がそこまで言うのなら、私とお前、どちらの毒がこの国をより強固に染め上げるか、最後まで見届けさせてもらおう。……ラ・マルク家の全てを、お前の好きに使うがいい。だが、一度でも盤面を読み違えれば、私は容赦なくお前を切り捨てるぞ」
「ええ。そのお約束、しかと承りましたわ」
わたくしは優雅にドレスの裾をつまみ、この世で最も美しいカーテシーを父に捧げた。
これで、国内においてわたくしの足かせとなるものは全て消え去った。
国王の警戒も、王妃の恐怖も、もはやわたくしの前では意味を成さない。
なぜなら、この国の心臓である王太子と、この国の頭脳である宰相の公爵家を、わたくしは完全に掌握したのだから。
「さあ、春になれば再び学園ですわね。……わたくしの箱庭の総仕上げを、始めましょうか」
黒曜石の執務室の扉を開け、わたくしは次なる狩り場へと、静かな足音を響かせて歩き出した。




