第二十五話:氷の毒と獅子の檻
バルカ帝国南東部、アークライト王国との国境に位置する荒涼とした渓谷。
吹きすさぶ吹雪の中、俺、カイン・ド・バルカは、自らが率いる第三軍団の野営地で、苛立ちのままに剣を振るい、訓練用の丸太を粉砕していた。
「……クソがッ! どいつもこいつも、腑抜けばかりになりやがって!」
俺の怒声が、冷たい風に掻き消されていく。
俺はアークライト王国への威嚇として、この国境沿いで大規模な軍事機動訓練を行う予定だった。
関税を引き上げ、我が国の軍馬と鉄鉱石を止めたあの忌々しい女、セレフィナ・ド・ラ・マルク。
彼女のその見下したような態度を、国境を脅かす圧倒的な「武力」によって恐怖に染め変えてやるつもりだった。
だが、俺の軍団はここ数日、まともな訓練すら行えていない。
「……カイン殿下。第一軍団より、使者が到着いたしました」
厚い毛皮のコートに身を包んだ副官が、テントの中から現れて報告した。
「使者だと? 兄上のところからか」
俺は剣を雪に突き立て、苛立たしげに舌打ちをした。
俺の異母兄であり、帝国の第一皇子であるガレアス。
親父の玉座を狙う最大の政敵であり、武力よりも政治工作を好む陰湿な男だ。
「通せ。……どうせ、またつまらねぇ嫌味を言いに来たんだろうがな」
俺が副官に命じると、雪を払って一人の文官が野営地の中央へと進み出た。
彼は俺の凄まじい殺気を前にしても顔色一つ変えず、懐から皇帝の印章が押された巻物を取り出した。
「第三皇子、カイン・ド・バルカ殿下。……皇帝陛下、並びに第一皇子殿下からの勅命でございます」
使者は抑揚のない声で、俺にとって信じられない言葉を読み上げ始めた。
「『アークライト王国との国境付近における、第三軍団の無断な軍事行動を直ちに停止せよ。また、カイン皇子の持つ一切の軍事指揮権を一時凍結し、皇子本人は第一軍団の監視下で帝都へ帰還すること』……以上でございます」
「……なんだと?」
俺の頭の血が、一瞬で沸騰した。
「ふざけるなッ!! 親父がそんな弱腰の命令を出すわけがねぇ! なぜ俺が軍の指揮権を剥奪されなきゃならねぇんだ!」
俺が使者の胸ぐらを掴み上げて怒鳴りつけると、使者は冷ややかな目で俺を見下ろした。
「……カイン殿下。貴方の身勝手な振る舞いが、我が国の経済にどれほどの致命傷を与えているか、ご自覚がないのですか」
「経済だと……?」
「現在、アークライト王国による経済封鎖により、帝国の主要な軍需工場はすべてストップしております。さらに、彼らは南の商業連邦に資金援助を行い、我が国を背後から包囲する構えを見せているのです」
使者の言葉に、俺は図書室でセレフィナが放った言葉を鮮明に思い出した。
『剣を抜く前に、貴国の兵士たちは飢えで倒れ、帝国は内部から崩壊するでしょう』
「……まさか」
俺の手から力が抜け、使者が雪の上に足をついた。
「第一皇子殿下は、この事態を重く受け止められました。貴方が私怨でアークライト王国を挑発した結果、帝国は血を流す前に干上がろうとしている。……これ以上の暴走は、帝国の破滅を招くと判断されたのです」
俺は、全身の血が凍りつくような錯覚に陥った。
第一皇子の野郎が、なぜアークライト王国の経済封鎖と俺の行動を結びつけ、これほど迅速に俺を失脚させる手を打てたのか。
答えは一つしかない。
セレフィナだ。
あの女は、俺が軍を動かすことすら見越し、帝国の内部に情報を流して、俺の政敵である兄を「俺を潰すための駒」として操ったのだ。
「……ははっ、あははははっ!」
俺は吹雪の中で、狂ったように笑い声を上げた。
剣を抜くことすら許されず、戦場に立つ前に、遠く離れた異国の地にいる女の手によって、俺の首は完全に刎ね落とされたのだ。
俺が信じてきた「武力」という絶対の正義が、見えない「情報」と「政治」の暴力の前に、いとも容易く粉砕された。
「……最高だ。本当に、最高の女じゃねぇか」
俺は自分の顔を覆い、喉の奥から湧き上がる異様な歓喜と絶望に震えた。
俺は帝国で誰よりも強いと自負していた。
だが、彼女はそんな俺の力を、指先一つで、しかも一滴の血も流さずに無力化してみせた。
「……負けたよ、セレフィナ。俺の完全な敗北だ」
俺は雪の上に膝をつき、遠くアークライト王国の方角を見つめた。
彼女のあの冷ややかなアメジストの瞳が、俺の無様な姿を見下ろして嘲笑っているのが目に浮かぶようだ。
「だがな……これで終わりじゃねぇ。お前が俺から全てを奪ったように、俺も必ず、お前から全てを奪ってやる」
俺は雪を握りしめ、その冷たさで自分の中の狂気を鋭く研ぎ澄ませた。
武力が通用しないのなら、俺も彼女の土俵に上がってやる。
帝国の権力闘争を勝ち抜き、親父と兄を蹴落として、俺が本当の皇帝になった時。
その時こそ、あの氷の女神を俺の玉座の鎖に繋いでやる。
「待っていろよ、セレフィナ。……お前のその毒、俺が必ず飲み干してやるからな」
俺は獣のような咆哮を吹雪の中に響かせながら、かつてないほどの深く、重い執着の炎を、心臓の奥底で燃え上がらせていた。




