第二十四話:傀儡の英雄と枯れ果てた白薔薇
聖アークライト暦九九三年、十二月。
底冷えのする王都の朝は、民衆の怒号と混乱によって幕を開けた。
私、アルフレート・フォン・アークライトは、王宮の執務室で、窓の外から微かに聞こえる喧騒を静かに聞き流していた。
私の手元には、昨夜、ラ・マルク公爵家の別邸から届けられた一通の封書がある。
そこには、愛する婚約者セレフィナからの、私を気遣う甘い言葉に隠される形で、今日この日に王都で何が起こるかという完璧なシナリオが暗号で記されていた。
「……本当に、君という女性は恐ろしく、そしてどこまでも美しい」
私は封書に顔を押し当て、彼女の残り香を深く吸い込んだ。
セレフィナの予言通り、王都最大の物流を担っていた『ヴァイス商会』が、他国のダミー商会からの不正融資と、大規模な食糧横領の罪で、王立検察庁によって電撃的に摘発された。
彼らが不当に隠匿していた小麦の倉庫は封鎖され、市場は一気に機能不全に陥った。
冬を越すための食糧を絶たれた民衆の不安は、瞬く間に怒りへと変わり、王都の広場には暴動寸前の群衆が押し寄せている。
本来であれば、国家を揺るがす未曾有の危機だ。
だが、私には一切の焦りも不安もなかった。
なぜなら、セレフィナの手紙には、この混乱をどのように収束させ、私がどのように「英雄」として振る舞うべきかが、一言一句違わずに書き記されていたからだ。
「……殿下! 広場の民衆が暴徒化する寸前です! 衛兵隊だけでは抑えきれません!」
血相を変えた側近が執務室に駆け込んできた。
私はゆっくりと立ち上がり、王太子としての完璧な威厳を纏って彼を振り返った。
「慌てるな。……私が自ら赴き、民を鎮めよう」
「殿下自ら!? 危険でございます!」
「王が民の痛みを恐れて、何が国家の安寧だ。……ついてこい」
私は側近の制止を振り切り、真冬の冷たい風が吹き荒れる王都の広場へと向かった。
広場は、飢えと寒さに怯える数千の民衆で埋め尽くされていた。
私が王家のバルコニーに姿を現すと、民衆からは怒りとすがりつくような悲鳴が入り混じった声が上がった。
私は手を高く掲げ、魔導拡声器など使わず、腹の底から響く声で群衆を制した。
「我が愛するアークライトの民よ! 貴方たちの怒りと悲しみは、このアルフレートがしかと受け止めた!」
私の声に、広場が水を打ったように静まり返る。
「一部の腐敗した商人たちが、貴方たちの命の糧を貪り、私腹を肥やしていたこと……次期国王として、深く謝罪する! だが、案ずるな! 私と、私の愛する婚約者であるセレフィナ・ド・ラ・マルクは、この事態を予見し、民を救うための備えを既に行っていた!」
私は、セレフィナの台本通りに、彼女の商会連合である『ラ・マルク基金』の名を高らかに宣言した。
「今この瞬間より、ラ・マルク基金が備蓄していた小麦五万トンを、適正価格の半額で市場に放出する! 誰一人として、この冬を飢えで死なせるような真似はさせない!」
その宣言が終わるや否や、広場周辺の通りから、ラ・マルク家の紋章を掲げた無数の荷馬車が、山のような小麦を積んで現れた。
それはまるで、絶望の暗闇に差し込んだ神の奇跡のような光景だった。
「おおおぉぉ……! 王太子殿下万歳!」
「ラ・マルク公爵令嬢に神の祝福を! 真の救世主だ!」
広場は、一瞬にして私とセレフィナを讃える熱狂の渦に包まれた。
私は民衆に向けて慈悲深く手を振りながら、内心で身震いするほどの快感を覚えていた。
民の心は、いとも容易く操ることができる。
そして私は、セレフィナの書いた脚本通りに動くだけで、この国で最も神聖で絶対的な権力を手にすることができるのだ。
(……セレフィナ。私は君の美しい傀儡で構わない。君が糸を引いてくれるのなら、私はどこまでも完璧な王を演じ切ってみせよう)
私は熱狂する広場を見下ろし、狂気にも似た愛情を胸の奥底で燃やしていた。
暴動を完璧に鎮圧し、執務室へと戻った私の前に、一人の哀れな罪人が引き出された。
純白のドレスは汚れ、髪は乱れ、目元を赤く腫らしたベアトリクス・フォン・ロズワールだった。
彼女の実家であるロズワール侯爵家は、ヴァイス商会の不正に深く関与していたとして、先ほど当主である彼女の父親が王室近衛騎士団によって捕縛されたのだ。
「……アルフレート殿下ぁッ! どうか、どうかお慈悲を!」
ベアトリクスは床に這いつくばり、私の足元にすがりついて泣き叫んだ。
「お父様は騙されていたのです! あの商会が他国と通じていたなど、何も知らなかったのです! どうかロズワール家の取り潰しだけは……!」
「……触れるな」
私は冷酷な声で彼女を拒絶し、その手を靴の先で払いのけた。
「お前たちは『伝統』と『慈悲』を謳いながら、その裏で他国の資本に頼り、自国の民の食糧を搾取していた。……その罪の重さが、まだ理解できないのか?」
「ち、違います! 私は本当に、領民のことを想って……!」
「黙れ!!」
私の怒号に、ベアトリクスは弾かれたように悲鳴を上げて身を縮こまらせた。
「お前がセレフィナを非難し、自分の偽善をひけらかしていた間に、セレフィナは自身の私財を投げ打って、民を救うための備えを何年も前から行っていたのだ。……口先だけの慈悲で国を傾けたお前たちと、行動で国を救った彼女。どちらが王の隣に相応しいか、まだ分からないほど愚かなのか」
「あ……あぁ……」
ベアトリクスの目から、最後の希望の光が消え失せた。
彼女は、自分が絶対の正義だと信じていた「伝統」が、セレフィナの冷徹な知略の前に完全に敗北したことを、ようやく悟ったのだ。
「ロズワール侯爵家には、法に則り厳正なる処罰を下す。お前も、二度と私の前にその顔を見せるな」
私は冷たく言い捨て、執務室の奥へと歩み去った。
背後から聞こえるベアトリクスの絶望の嗚咽は、私にとって何の痛痒も感じさせない、ただの不快な雑音でしかなかった。
私には、セレフィナという絶対的な光がある。
彼女の冷たい正論と完璧な知略さえあれば、私はこの国をどこまでも力強く導いていける。
「……早く、彼女に会いたい」
私は窓の外に広がる冬の空を見つめ、王としての孤独と、彼女への狂おしいほどの依存を、己の胸に深く刻み込んでいた。




