第二十三話:静かなる王都の心音
聖アークライト暦九九三年、十二月。
王都アークライトを凍てつく冬の足音が包み込んでいた。
石畳に薄氷が張り、人々が吐く息が白く染まる季節。
私は、学園の長期休暇を利用し、ラ・マルク公爵家の別邸に拠点を移していた。
「……お嬢様。王都、および主要都市における小麦と石炭の備蓄状況、全て把握いたしました」
マリーが、暖炉の火が爆ぜる音だけが響く静かな書斎で、分厚い帳簿を私の机に置いた。
彼女が差し出したのは、単なる報告書ではない。
この国の民がこの冬を越せるか、あるいは飢えと寒さに凍えるか――その生殺与奪の権を握る「命の目録」であった。
「ご苦労様、マリー。……それで、王都最大手の『ヴァイス商会』の動きはどうなっていますか?」
「はい。あちらは未だに、自分たちが王都の物流の主導権を握っていると盲信しております。……ロズワール侯爵家からの密命を受け、我が家に関連する小規模な商会を買い叩き、市場の独占を画策しているようですわ」
「ふふ……。伝統ある家門の考えることは、いつの時代も安易ですこと」
私は窓の外、灰色の雲に覆われた王都の街並みを見つめた。
ベアトリクス・フォン・ロズワール。
彼女は学園で受けた屈辱を晴らすため、実家である侯爵家の残存勢力を総動員し、経済の表舞台で私に戦いを挑んできたのだ。
だが、彼女が「力」だと信じている巨大なヴァイス商会こそが、わたくしが数年前から張り巡らせてきた蜘蛛の巣の、中心にある獲物だとは夢にも思っていないだろう。
「マリー。準備は整っていますね?」
「はっ。ヴァイス商会がここ数ヶ月で行った強引な買収。……その資金源が、実は他国バルカ帝国のダミー商会からの不透明な融資であるという証拠。そして、彼らが備蓄している小麦に多額の横領の疑いがあるという告発書。全て、王立検察庁の信頼できる筋に、明朝、匿名で届けられる手はずとなっております」
「よろしいわ。……彼らが最も高く舞い上がった瞬間に、その翼を根元から捥ぎ取る。それこそが、最も美しく、最も効率的な排除の仕形です」
私は、卓上のチェスボードに置かれた白いポーンを、指先で軽く倒した。
この数年間、私が「平民の慈善事業」として育ててきた小さな商会連合。
それらは、ヴァイス商会のような巨大な「既得権益」を崩壊させるための、毒を含んだ寄生木だ。
表向きはロズワール侯爵家を立てつつ、裏では彼らの不祥事を収集し、逃げ場を塞いでいく。
「……お嬢様。これを行えば、ヴァイス商会は一晩で解体されます。その影響で、王都の物価は一時的に混乱するでしょう。民たちの不満は……」
「そのための『ラ・マルク基金』でしょう?」
私はマリーの懸念を遮り、冷たく微笑んだ。
「ヴァイス商会が失脚し、市場が混乱したその瞬間に、わたくしの商会連合が備蓄していた小麦を適正価格で一気に放出します。……民たちは飢えから救われた喜びで、旧来の腐敗した商会を糾弾し、わたくしたちを『真の救世主』として崇めるでしょう」
(……そう。人々は、自分たちが誰の手のひらで踊らされているのかなど、知る必要はないわ)
私は、前世の歴史で何度も見てきた。
英雄として讃えられる者の影には、必ずそれ以上の死体と絶望が積み重なっていることを。
私が「悪役令嬢」として構築するこの平穏は、誰にも邪魔させない。
「……お嬢様。バルカ帝国のカイン皇子に、動きが」
マリーの声が、微かに緊張を帯びた。
「彼、学園の長期休暇を利用して帰国したはずですが……。国境沿いの帝国軍が、小規模ながらも不穏な機動訓練を開始したとのことです。どうやら、例の鉄鉱石の関税に対する『武力によるデモンストレーション』のつもりのようですわ」
「図書室でわたくしに凄んだだけでは飽き足らず、今度は軍を動かして脅しをかけるつもりかしら。……本当に、野蛮な方は嫌いですわね」
私は立ち上がり、壁に掛けられた大きな地図へと歩み寄った。
バルカ帝国。
カインという獅子は、経済の鎖で縛られたことに逆上し、その牙で鎖を噛み切ろうとしている。
だが、彼が動けば動くほど、帝国の喉元にはさらに深く、鋭い刃が食い込むことになる。
「マリー。帝国の内部に潜入させている『影』たちに伝えて。……カイン皇子の異母兄である、第一皇子の派閥に情報を流しなさい」
「第一皇子……。カイン皇子とは犬猿の仲の、あの野心家の方ですね?」
「ええ。カインが独断で軍を動かし、王国の挑発を招いたという『事実』。……そして、それが帝国の経済に致命的なダメージを与えようとしているという『危惧』。……それらを巧みに煽れば、帝国の内部からカインを抑え込む力が働くはずよ」
外側から叩くのではない。
内部から、彼らの野心を食い合わせ、自滅を促す。
これこそが、剣を持たぬ私が到達した「最強の暴力」である。
「……セレフィナお嬢様。貴女様は、この国をどこへ導こうとしておられるのですか?」
マリーが、畏怖と熱狂の混じった瞳で私を見つめていた。
「導く? そんな大層なことではありませんわ、マリー」
私は窓ガラスに映る、冷徹で美しい自分の姿を見つめ直した。
「わたくしは、ただ、わたくしの愛するアルフレート殿下が、何の憂いもなくこの国を治められるように、邪魔な石ころを排除しているだけ。……そのためなら、この王都の全てをわたくしの血の通わぬ人形劇に変えても構わないわ」
「……御意に。その人形劇の最前列で、最後までお供させていただきます」
マリーは深く頭を下げた。
その忠誠は、もはや信仰に近い熱を帯びていた。
暖炉の火が消えかかる頃、私は一通の手紙を書き上げた。
アルフレート殿下へ。
冬の寒さを案じる恋文の体裁をとりながら、その中には、明日起こるであろう王都の動乱を、殿下がどのように「鎮圧」し、自らの功績とするべきかという完璧なシナリオが暗号で記されていた。
殿下は、ただわたくしの用意した舞台の上で、英雄として振る舞えばいい。
その舞台の袖で、返り血を一滴も浴びずに微笑んでいるのは、わたくし一人で十分なのだから。
「……さあ、幕を上げましょう。冬の王都に、金貨と悲鳴の旋律を響かせるのですわ」
私は冷たい手紙を閉じ、封蝋を押した。
そこには、ラ・マルク公爵家を象徴する、蛇が絡みつく薔薇の紋章が刻まれていた。
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