第二十二話:見えない鎖と獅子の咆哮
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聖アークライト暦九九三年、十一月。
冷たい秋風が吹きすさぶ王立アカデミーの裏庭で、俺、カイン・ド・バルカは、手の中にある密書を怒りに任せて握り潰した。
「……どういうことだ。本国からの補給船が、また港で足止めを食らっているだと?」
俺の背後に控えていた帝国の従者が、顔を青ざめさせて震え声で報告を続ける。
「は、はい、皇子殿下。アークライト王国側の税関が、新たな検疫規定を理由に、我が国の軍馬の輸入を事実上ストップさせております。さらに、帝国が買い付けていた鉄鉱石の関税が、先月から三倍に跳ね上がり……本国の軍需工場は、すでに稼働を停止する寸前とのことです」
「ふざけるなッ!!」
俺の怒号が響き渡り、従者がビクッと肩を跳ねさせた。
「軍馬と鉄鉱石の供給が絶たれれば、親父が計画していた南の商業連邦への秋の侵攻作戦が完全に頓挫する。……アークライトの連中、俺たち帝国に真っ向から喧嘩を売るつもりか!」
俺は苛立ち紛れに近くの石柱を蹴り飛ばした。
鈍い音が響き、石の表面に亀裂が走る。
アークライト王国は、軍事力では我がバルカ帝国に劣る。
だが、ここ数ヶ月、見えない巨大な手が俺たちの首を真綿で絞め上げるように、帝国の経済と軍備の急所を的確に突いてきている。
そして、その背後で糸を引いている蜘蛛の正体に、俺は心当たりがあった。
「……セレフィナ・ド・ラ・マルク」
俺はギリッと奥歯を噛み鳴らした。
星祭りの夜、俺の脅しを「野犬の遠吠え」と一蹴したあの氷のような瞳。
彼女は俺が武力を振りかざす前に、経済と物流という「数字の暴力」で、俺たちの国ごと干上がらせようとしているのだ。
「殿下……いかがなさいましょう。このままでは、本国の軍部から殿下の責任を問う声が上がりかねません」
「黙れ。俺が直接、あの女の口を割らせてやる」
俺は密書の残骸を投げ捨て、迷うことなくセレフィナが頻繁に利用しているという、学園の図書室の最奥にある特別閲覧室へと向かった。
重厚なオーク材の扉を蹴り開けると、そこには予想通り、彼女の姿があった。
壁一面を覆う膨大な書棚に囲まれた静寂の空間で、セレフィナは一人、分厚い経済書に優雅に目を通していた。
俺の乱暴な侵入にも、彼女は微かに眉を動かしただけで、本から視線を上げようともしなかった。
「……図書館では、お静かになさるのが最低限の礼儀ですわよ、カイン殿下。帝国の皇族は、扉の開け方もご存知ないのかしら」
「安い挑発に乗る気はねぇぞ、セレフィナ。……貴様、裏で何を企んでいる」
俺は彼女の座る机に両手をつき、獣のように顔を近づけて凄んだ。
「俺の国に向かう鉄鉱石と軍馬を、意図的に止めているのはお前だな? 宰相である親父を動かして、我が帝国の軍事力を経済で削ぎ落とそうって腹か」
俺の殺気を孕んだ声にも、セレフィナは全く動じなかった。
彼女はゆっくりと本を閉じ、氷のようなアメジストの瞳で俺を真っ直ぐに見据えた。
「……おかしな言いがかりですわね。関税の引き上げは、我が国の国内産業を保護するための正当な経済政策に過ぎません。検疫の強化も、伝染病を防ぐための当然の処置ですわ。……それが貴国の軍備に支障をきたしているというのであれば、それは単に、貴国が他国の資源に依存しすぎているという脆弱さの証明ではありませんこと?」
「ふざけるな! 偶然で片付くわけがねぇだろうが!」
俺は怒りで視界が赤く染まり、反射的に彼女の細い首に手を伸ばそうとした。
その瞬間だった。
「――それ以上お嬢様に近づけば、貴方の首の血管を両断いたします」
本棚の暗がりから音もなく滑り出たのは、筆頭メイドのマリーだった。
彼女の手には、俺の頸動脈を正確に狙う冷たい銀色の短剣が握られていた。
さらに、俺の研ぎ澄まされた勘が、図書室の天井や死角に、数人の公爵家の「影」が潜み、俺の急所に殺気を向けていることを警告してきた。
「……ほう。手飼いの暗殺者まで用意してやがったか。だが、俺が本気になれば、こいつら全員を道連れにして、お前のその美しい首をへし折るくらいは造作もねぇぞ」
俺はマリーの刃を無視し、セレフィナから視線を外さずに凄み続けた。
だが、セレフィナは恐れるどころか、哀れむような笑みを浮かべた。
「ええ、できるでしょうね。貴方のその野蛮な腕力ならば」
セレフィナは優雅に立ち上がり、俺の目の前まで歩み寄った。
「ですが、貴方がわたくしに触れ、ここで暴力沙汰を起こしたその瞬間。……我が国は帝国との全ての貿易協定を破棄し、国境を完全に封鎖します。同時に、南の商業連邦に資金援助を行い、貴国を背後から挟撃させる手はずもすでに整っておりますわ」
俺は、彼女の言葉に息を呑んだ。
「剣を抜く前に、貴国の兵士たちは飢えで倒れ、帝国は内部から崩壊するでしょう。……カイン殿下。武力に頼るだけの単細胞な獣に、わたくしが構築した政治と経済の盤面は崩せませんわよ」
彼女の圧倒的な自信と、冷酷なまでに完璧な論理。
俺の力は、この女の用意した「見えない鎖」の前に、完全に封じ込められていたのだ。
もしここで俺が感情に任せて動けば、帝国が滅びる。
その事実が、俺の背筋に初めて「恐怖」に似た戦慄を走らせた。
「……お前という女は、本当に……」
俺はギリッと奥歯を噛み締め、ゆっくりと机から手を離した。
マリーが短剣を下ろすが、その殺気は消えていない。
「……どうやら、俺はお前の恐ろしさをまだ見誤っていたらしいな」
俺は負け犬のように背を向けるしかなかった。
だが、不思議なことに、俺の胸の奥底では、恐怖と同時にかつてないほどの激しい歓喜と執着が燃え上がっていた。
力で捻じ伏せられない女。
帝国すらも経済の糸で操る、美しくも残酷な怪物。
「いいだろう、セレフィナ。今日のところは俺の負けだ。だが……俺は絶対に諦めねぇ」
俺は扉の前で振り返り、彼女に向かって獣のように獰猛な笑みを浮かべた。
「お前のその絶対的な自信と余裕を、いつか必ず俺の腕の中で泣き叫ぶ声に変えてやる。……覚悟しておけよ、氷の女神」
俺は図書室を後にしながら、自分の中に生まれた巨大な飢餓感を持て余していた。
この国を手に入れることなど、もはやどうでもいい。
俺はただ、あの恐るべき女を、俺の力で完全に屈服させ、支配したい。
獅子の狂気は、見えない鎖で縛られることによって、より一層凶悪な熱を帯びて燃え上がり始めていたのだ。
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