第二話:狂気の庭園と完璧なる偽善
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聖アークライト暦九八五年、六月。
私が父に「牙」を要求してからひと月も経たぬうちに、ラ・マルク公爵家の奥深くで、私という怪物を形作るための「地獄」のカリキュラムが本格的に始動した。
朝は太陽が地平線を赤く染める前から起床し、夜は冷たい星が中天に輝くまで、ひたすらに分厚い書物と向き合う日々。
七歳の子供であれば三日で泣き出し、五日で逃げ出すような狂気の時間割であった。
だが、私にとってその多忙さは、むしろ心地よいものであった。
前世で社会の荒波に揉まれ、血を吐くような受験戦争と企業間競争を勝ち抜いてきた日本人の記憶が、私を強力に後押ししていたからだ。
「素晴らしい……! セレフィナお嬢様、この複雑な領地の税収予測モデルを、たった一時間で計算し終えるとは!」
白髪の経済学の老教師が、私の提出した羊皮紙を震える手で掲げ、驚愕の声を上げた。
「恐れ入ります、先生。ですが、この地方の麦の収穫量と隣国との関税率の変動をグラフ化し、過去五年の天候データと照らし合わせれば、自ずと答えは導き出せるものですわ」
私は優雅に紅茶を啜りながら、事も無げに答えた。
経済学や算術、そして歴史の因果関係を論理的に読み解く政治学において、私の前世の記憶は圧倒的なアドバンテージを誇った。
複式簿記の概念を用いて公爵家の帳簿に潜む無駄を指摘し、統計学の初歩を応用して領地の疫病流行の規則性を割り出したときには、報告を受けた父であるマルクス公爵すら絶句していたものだ。
高熱で倒れる前は、ただ着飾るだけの美しい人形だった娘が、ひと月の間に化け物のような知性を発揮し始めたのだから無理もない。
これらは、前世の論理的思考がそのまま「最強の武器」になる実学の分野であった。
しかし、私が学ぶべき全ての科目が順風満帆だったわけではない。
「お嬢様、違います! 扇を閉じる音をさせてはいけません! それは明確な『拒絶』の意思表示になります。今は三ミリ、右側に余韻を残して滑らせるのです!」
古儀礼の専門家である厳しい老婦人が、手にした黒檀の鞭で机を叩き、鋭い声で私の手元を指した。
この世界特有の、三百年以上続く「古儀礼」。
それは合理的思考を一切拒絶する、無駄と虚飾の集大成だった。
「……先生。その三ミリの差に、どのような実務上の利点がございますの? 相手に明確に伝わらなければ、作法としての機能は果たしていないのでは?」
「利点などございません! それが『伝統』であり『格式』なのです! 理屈を並べるのは、汗水垂らして働く下品な平民のすることですわ!」
老婦人の言葉は、現代人の感覚からすれば完全に狂っていた。
だが、この世界において、貴族が貴族であるための証明は、こうした「無意味な伝統」をどれほど完璧に体現できるかにかかっていた。
私には、これが苦行以外の何物でもなかったが、歯を食いしばり、プライドを捨てて泥臭く反復訓練に没頭した。
分からないものは、体が覚えるまで千回でも繰り返す。
理屈で納得できなくとも、相手を跪かせるための「武器」になるのであれば、完璧に演じてみせる。
その執念めいた努力は、やがて教師たちに畏怖の念を抱かせ、誰もが私を「伝統を体現する至高の宝石」として扱い始めた。
聖アークライト暦九九一年。
十一歳の春を迎えた私は、父に許可を得て、公爵領における慈善活動の全権を握った。
学問の修得と並行して、私が心血を注いだのは「完璧なパブリック・イメージ」の構築だった。
「さあ、皆様。列を乱さずに前へ進んでくださいな。温かいスープとパンは、全員に行き渡るだけ用意してありますわ。お怪我をしている方はこちらへ。公爵家の救護班がすぐに手当をいたします」
王都の片隅にある、日が当たらない貧民街。
私は最高級の絹のドレスを着たまま、泥にまみれた子供たちに直接スープを配って歩いた。
ドレスの裾が汚れ、腐臭のような泥が跳ねても、私は嫌な顔一つせず、むしろ優しく薄汚れた子供の頭を撫でた。
「お、お嬢様……! 神の御使いのようなお方だ……!」
「ラ・マルク公爵家に栄光あれ! セレフィナ様こそ、我らを救う真の聖女だ!」
その日暮らしの平民たちは、私に神にも等しい救いを見出して涙を流した。
私は彼らに向けて、慈愛に満ちた聖母のような微笑みを振りまく。
だが、私の内心は冷ややかな計算で満たされていた。
(……ええ、存分に感謝しなさい。貴方たちのその崇拝の声が、いずれわたくしの強力な盾になるのだから)
この慈善活動は、新聞や吟遊詩人という「メディア」を通して、意図的に大々的に宣伝させている。
公爵家の莫大な財力からすれば、スープとパンの配給など、道端の小石を拾う程度の微々たる出費に過ぎない。
しかし、この安上がりな施しによって、平民たちは公爵家への不満を忘れ、暴動の芽は事前に摘み取られる。
同時に、「セレフィナ様は厳格だが、底なしに慈悲深い」という世論が形成され、将来私がどのような冷酷な決断を下そうとも、「あのセレフィナ様がなさることなのだから、深いお考えがあるに違いない」と周囲に錯覚させるための、強固な防波堤となるのだ。
同年、九月の夜。
私がもう一つ手を入れたのは、公爵家の内部基盤の掌握だった。
どんなに外側を固めても、足元が崩れれば全てが終わる。
私は筆頭メイドであるマリーを自室に呼び出し、冷たい一瞥をくれた。
「マリー。貴女の弟君が、賭博で多額の借金を作ったそうね。それも、王都で最もたちの悪い高利貸しから。」
「なっ……! お、お嬢様、なぜそれを……!」
マリーは一瞬にして血の気を失い、糸が切れた操り人形のようにその場に崩れ落ちた。
使用人のスキャンダルは、そのまま主人である公爵家の恥となる。
通常であれば、即刻解雇され、弟共々路頭に迷い、裏社会に沈む事態だ。
「安心なさい。その借金は、すでにわたくしの個人資産で肩代わりしておいたわ。」
「……え……?」
「貴女は優秀なメイドよ、マリー。わたくしは貴女を手放したくないの。……これからも、わたくしに『全て』を捧げてくれるわね? 貴女の目、貴女の耳、そして貴女の忠誠。その全てを」
私が優しく微笑みかけながら、震える彼女の頬を撫でると、マリーは床に額を擦りつけ、嗚咽と共に絶対の忠誠を誓った。
圧倒的な恩と、逃げ場のない恐怖。
その両方を同時に与えることで、人間は最も強固な駒となる。
私は同じ手法を用いて、公爵家の執事、護衛騎士、果ては父が管轄している「影」と呼ばれる情報機関の一部すらも、密かに自身の派閥へと引き込んでいった。
父の命令よりも、私の囁きを優先する手駒の完成である。
もちろん、婚約者であるアルフレート殿下との関係も完璧に調整した。
彼への手紙には常に彼の理想とする「癒やし」の言葉を忍ばせ、定期的なお茶会を通じて、彼にとって私が「唯一の、そして最高の理解者」となるよう、真綿で首を絞めるように精神的な依存を深めさせていった。
聖アークライト暦九九三年、四月七日。
時は流れ、私は十五歳となった。
学園入学の前夜、私はバルコニーに出て、王都の煌びやかな夜景を見下ろしていた。
銀色の月光が、完璧に手入れされた私の銀髪を照らしている。
学問という名の剣、世論という名の盾、情報網という名の目、そして王太子の心という名の鎖。
考えうる全ての武器は手に入れた。
(さあ、明日からいよいよ本番ね)
ヒロインが待つ、王立アカデミー。
泥棒猫がもたらす破滅の運命など、この手で微塵に砕き割ってあげる。
私は扇を広げ、月に向かってただ一人、優雅に、そして残酷に微笑んだ。
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