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キボクマ  〜100体の熊と、普通のおじさんの静かな時間〜  作者: 一 十


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24/25

第二十四話:熊のコリをほぐす人

三浦半島を走る京急バスの窓から、キラキラと輝く夏の海が見える季節になりました。

潮の香りが一段と濃くなる季節、日の出バス停のすぐそばにあるフリースペース『キボクマ』には、今日も静かな時間が流れています。


ここは、店主の趣味である100体の木彫りの熊たちと、困り顔の柴犬「こまる」が、訪れる人を静かに待っている場所。


今、お疲れのあなたも、どうぞ冷たい麦茶でも飲みながら、この風変わりで少し不思議な雨上がりの物語に、耳を傾けてみてください。


……。


三崎の夏は、容赦のない日差しと、それを和らげる強烈な潮風で始まる。


アスファルトから立ち上る陽炎の向こうで、日の出バス停に京急バスが止まり、プシューと重たい音を立ててドアが開く。観光客の楽しげな声が遠くから響くが、築50年の古民家『キボクマ』の中に一歩足を踏み入れば、そこはひんやりとした静寂が支配する別世界だ。


私は土間の奥の6畳間で、Tシャツにチノパンといういつもの格格で、うちわをパタパタと動かしていた。足元では、少し高齢で小ぶりな柴犬の「こまる」が、お気に入りの冷感マットの上で気持ちよさそうに寝息を立てている。

顔は相変わらず、何かを心配しているような「困り顔」だが、これが彼女のデフォルトの表情だ。


11時前、ガラリと格子戸が開いた。


「こんにちは……」


入ってきたのは、30代後半とおぼしき女性だった。

髪を後ろでラフに束ね、麻の涼しげなシャツを着ているが、その肩は随分と内側に巻き込み、目はひどく疲弊している。

彼女は入り口の料金箱に、500円玉を1枚、コトンと落とした。


1時間500円。これがこの店の、大人の利用料だ。


彼女は土間のベンチに腰を下ろすと、深く長いため息をついた。

それから、壁際にずらりと並ぶ100体の木彫りの熊たちに目を留めた。

彼女の視線は、観光客が面白がるような「鮭を咥えた熊」ではなく、少し首を左に傾げ、右肩が上がったような不格好な熊で止まった。


彼女は立ち上がり、その熊をそっと両手で抱え、自分の席へと運んだ。

そして、信じられない行動に出た。


「……あー、やっぱり。右の肩甲骨のあたり、カチコチですね。これじゃあ、首も回らないはずです」


彼女はそう呟くと、親指を熊の木肌に当て、じわじわと体重をかけ始めたのだ。

グッ、グッ、と彼女の指先が、堅い木彫りの熊の背中を押し込んでいく。


私は6畳間から、思わず眼鏡をずらしてその光景を見つめた。

木彫りの熊をマッサージする人間など、オープン以来初めてだ。


「あの……」


たまらず私は土間へ降り、声をかけた。足元から、こまるがトコトコとついてくる。


「お客さん、それは木ですよ。揉んでも柔らかくなりますかね?」


彼女はハッと我に返ったように指を離し、顔を赤らめた。


「あ、すみません! 私、職業病で……。東京で個人サロンをやってる整体師なんですが、最近、人の体を触るのが怖くなってしまって。逃げるように三崎に来たんです。でも、この子を見たら、あまりに『肩が凝ってます』って顔をしていたものだから、つい……」


「熊が、肩凝りですか」

「はい。この右肩の上がりの強さ、間違いなく慢性的なデスクワーク、じゃなくて、同じ姿勢をずっと続けていたコリです。木なのに、なんだか筋肉の繊維みたいなものが、悲鳴を上げているように感じられて……」


不条理な話だった。

だが、この『キボクマ』に並ぶ熊たちは、時に意思を持つように動く。彼らが「凝る」というのも、あながち否定できないかもしれない。


「そうですか。少し硬めだとは思いますが、ほぐしてやってください。」


私がそう言うと、足元にいたこまるが、女性の足元にそっと寄り添った。こまるは彼女を見上げ、まるで「私も揉んで」と言うように、コロンと仰向けになった。


「あら、可愛い……。あなたも凝ってるの?」


女性の表情が、初めて和らいだ。彼女はしゃがみ込み、こまるの首元や前足の付け根を、優しい手つきで揉みほぐし始めた。

こまるは「うにゅぅ」と、犬とは思えない妙な声を漏らし、困り顔をさらにフニャフニャに崩してウットリとしている。


「すごいな。こまるは普段、あまり他人にベタベタしないんですが」

「動物や木は、素直ですから」


女性はこまるを撫でながら、ぽつりと言った。


「人間は、難しいです。私のサロンに来るお客様は、みんな『肩をほぐして』と言いながら、本当にほぐしてほしいのは、言葉にできないストレスや、人間関係のおりなんです。それを全部、私の手が吸い取って、私にのしかかってくるような気がして……。ある日突然、誰の体にも触れなくなってしまいました。指先が、冷たく凍りついたみたいに動かなくなって」


彼女は自分の両手を見つめた。

その指先は少し震えていた。誰かを癒やすという仕事に、彼女自身が消費され、燃え尽きてしまったのだろう。


「ゆっくりしていってください。お茶でも淹れましょう」

「ありがとうございます。……あの、表の看板に書いてあった『ヨルクマ』って、一体どんな……?」


彼女はひょいと外の格子戸の方へ目をやり、少し不思議そうに首を傾げた。


「ああ、17時からは『ヨルクマ』といって、少し店の仕組みが変わるんです」


私はいつもの調子で答えた。


「照明をほとんど落として、星明かりのような小さなライトを灯すだけの暗い空間になります。料金は閉店まで1000円で、飲み物や食べ物は持ち込み自由になります。もしそんな雰囲気でもよければ、どうぞごゆっくり」


「そうなんですか……。じゃあ、あとで近くのコンビニで何か買ってこようかな。静かなのは、今の私に一番ありがたいです」

「ええ、静かなのがヨルクマのルールですから」


私はそう言って、冷たい麦茶を彼女のテーブルに置いた。


夕方になり、店内を『ヨルクマ』の仕様に切り替える。

黒漆喰の壁に、星空のようなLEDのイルミネーションが点灯する。昼の古民家から、深い海の底のようなロマンチックな空間への変貌に、彼女はふっとため息をついた。


彼女は、昼間マッサージしていた「右肩の上がった熊」をローソファーの隣に座らせ、コンビニで買ってきビールを静かに飲みながら柿の種おをつまんでいた。


私はいつものように6畳間に引っ込んでいたが、土間から「トントン」と小気味よい音が聞こえてくるのに気づいた。

覗いてみると、彼女が再び、熊の背中を優しく叩いたり、さすったりしている。


「これ、施術用のオイルなんです。少しだけ、使ってもいいですか?」


彼女が小瓶を掲げて私に聞いた。


「どうぞ。艶出しになりますね」


私は冗談めかしていった。


「木肌に吸い込ませるように、薄く、丁寧に塗りますね」


彼女は本気で熊のコリをほぐそうと手のひらでオイルを温め、熊の背中に滑らせた。

不思議なことに、カサカサだった熊の木肌が、彼女の手が通るたびに、琥珀色の美しいツヤを帯びていく。

そのとき、不条理なことが起きた。


彼女が熊の右肩に親指をあて、ぐっと力を込めた瞬間。


「……コキッ」


という、小枝が折れるような、あるいは人間の関節が鳴るような、乾いた音が土間に響いた。


「あ……」


彼女が息を呑む。

見ると、あの右肩が不自然に上がっていた木彫りの熊の、傾いていた首が、真っ直ぐな位置へと滑らかに戻っていた。

ふぅ、と静かな吐息のような風が、土間にふわりと抜ける。


気のせいではない。

右肩の強張りがすっきりと消え、背筋を伸ばしてちょこんと座っているその佇まいは、昼間よりもずっと軽やかそうに見えた。


彼女は、自分の両手を見つめた。

凍りついていたはずの彼女の指先は、今、熊の摩擦熱とオイルの温もりで、ほんのりと赤く、じんわりと温かくなっていた。


「私の手……まだ、誰かを楽にできるのかな」


彼女の目から、大粒の涙がこぼれ、土間のコンクリートに小さなシミを作った。


「木を楽にできたんです。人間を楽にするなんて、お手の物でしょう」


私は6畳間から、あえて姿を見せずに声をかけた。


「熊を揉んだ整体師なんて、日本中であなただけですよ。自信を持ってください」


彼女は涙を拭い、照れたように笑った。


「そうですね。熊が揉めるなら、どんな頑固な人間のお客さんでも、怖くないかもしれません」


21時20分。

いつものように、三崎の夜を終わらせる終電代わりの終バスの音が、遠くから響いてきた。


彼女は立ち上がり、料金箱に2時間分の追加料金を入れ、すっきりとした笑顔で私に一礼した。


「ありがとうございました。手の温かさが戻ってきました」

「それは良かった。また凝った熊がいたら、呼びますよ」

「はい。いつでも出張します」


彼女が格子戸を開けて出ていく。

その背中は、来た時とは見違えるほど、しゃんと伸びていた。


22時。

私は土間のモップがけをしながら、彼女がマッサージした熊の棚を見上げた.

首が真っ直ぐになった熊は、隣の「鮭を咥えた熊」と肩を並べ、どこか誇らしげに胸を張っている。


「お前、良い整体師に見てもらえて良かったな」


私が声をかけると、熊は気づかないほどの速度で、コクリと嬉そうに首を縦に振った。ように見えた。


足元では、こまるが「私ももう一回揉んでほしい」と、再び困り顔で私を見上げていた。私の素人マッサージでは、あのプロの指先には到底敵わないというのに。


三崎の夜風が、潮の香りを連れて土間を通り抜ける。

明日もまた、この不条理で温かい場所で、静かな時間が始まる。


……。




頑固なコリを抱えた木彫りの熊と、心に深いコリを抱えた整体師の女性。

お互いの「手」と「体」が触れ合ったとき、不思議な音が響いて、優しい温もりが戻ってきました。


誰かを思いやる指先は、時として木にさえ命を吹き込むのかもしれません。

もし、あなたの肩や心が少し重たくなったら、ぜひ三崎の潮風を浴びにきてください。


こまると100体の熊たちが、あなたをそっと、ほぐしてくれるのを待っています。


それでは、次のお話もお楽しみに。

『ヨルクマ』のイルミネーションを、今夜も灯しておきますね。

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