第二十三話:熊の吐息と温かい音
三崎の夜は、昼間の賑やかさが嘘のように、早く、そして深く訪れます。
街灯がぽつりぽつりと灯り、潮風がひんやりと肌をなでる頃、古民家「キボクマ」は、星空のような光を灯す「ヨルクマ」へと姿を変えます。
今夜、重たい機材ケースを抱えてやってきたのは、首に大きなヘッドホンをかけた30代の女性。
彼女が探していたのは、騒がしい都会ではかき消されてしまう、ある「静かな音」でした。
柴犬の「こまる」と、耳の大きな不思議な熊が紡ぐ、夜の物語をお届けします。
……。
三崎の夜が深まると、日ノ出バス停付近を走る車の数も極端に減る。
黒漆喰の壁と天井に埋め込まれた小さなLEDが、ゆっくりと明滅を繰り返す「ヨルクマ」の時間。
1階の土間は、まるで深い海の底から満天の星空を見上げているかのような静寂に包まれていた。
私はいつものように、土間の奥にある6畳間の座布団に座り、凝る肩をさすりながら手元にある文庫本を眺めていた。
私にとって、この静かな時間が何よりの薬だ。
足元では、居候している柴犬の「こまる」が、丸くなってすやすやと息を立てている。少し高齢で小ぶりなこまるは、夜になるとさらに大人しくなり、この空間の静寂に完全に溶け込んでいた。
20時を回った頃、引き戸がカラカラと開いた。
「こんばんは……」
入ってきたのは、30代半ばとおぼしき女性だった。
彼女の両肩には、ずっしりと重そうなリュックが食い込み、右手には頑丈そうなプラスチック製のハードケースを提げている。そして首には、プロ仕様とおぼしき大きなヘッドホンがぶら下がっていた。
彼女は入り口のトレイに、夜の利用料である1000円札を1枚、静かに置いた。ヨルクマは20歳以上限定、持ち込み自由の静寂を楽しむ空間だ。
「いらっしゃい。お好きな席へどうぞ」
私が6畳間から声をかけると、彼女は「あ、お邪魔します」と小さく会釈をして、土間に並ぶ100体の木彫りの熊たちの方へと歩み寄った。
彼女が選んだのは、体長20センチほどの、少し変わった造形の熊だった。
その熊は、鮭を咥えておらず、四つん這いにもなっていない。ただちょこんと座り、自分の頭のサイズに見合わないほど大きな、平たい耳を左右に突き出していた。まるで、世界のすべての音を聞き逃すまい…というのは大袈裟だが、「耳をすます熊」だ。
彼女はその大きな耳の熊を両手で優しく抱え上げると、1人掛けのローソファーへと運んだ。
テーブルの上に熊を置くと、手提げケースを開けて「仕事」を始めた。
ケースから取り出されたのは、数本のケーブル、液晶画面の付いた四角いレコーダー、指示性の高い「ガンマイク」だった。
彼女は手際よくマイクを小さな三脚に固定し、それをテーブルの上の木彫りの熊に向けて真っ直ぐに設置した。
私は6畳間から、その光景をぼんやりと眺めていた。
まるでもこもこの芋虫のようなマイクを突きつけられ、尋問されているかのような熊の姿は、どこかコミカルでシュールだった。
彼女は大きなヘッドホンを耳に当てると、レコーダーの録音ボタンを押し、目を閉じた。
そのまま、ピクリとも動かなくなった。
土間に響くのは、壁の古い柱時計のコチコチという音と、遠くで聞こえるかすかな波の音だけだ。
15分ほど経っただろうか。
こまるがゆっくりと目を開け、大きなあくびを一つした。
それと同時に、トコトコと爪の音を立てて彼女の足元へと歩いていき、ローソファーのすぐ横でふたたび丸くなった。
彼女は目を開け、足元のこまるを見て、ヘッドホンを少しずらして微笑んだ。
「こんばんは、こまるちゃん」
驚いた。彼女はこまるの名前を知っていた。
「以前、SNSでこのお店のことを見かけたんです。困り顔の可愛い子がプロ店員として働いているって」
彼女が静かに私の方を振り返って言った。
「店主さん、メニューにあった『店長との会話 0円』って、今、お願いしてもいいですか?」
「ええ、構いませんよ。大した話はできませんが」
私はサンダルを突っ掛け、土間へと降りた。
彼女の隣のローソファーに腰を下ろすと、彼女はレコーダーの録音を一時停止した。
「あまり見かけない機材ですね。何か録音しているんですか?」
私の問いに、彼女は少し照れくさそうに笑った。
「私、アニメや映画の『効果音』を作る仕事をしているんです。フォーリーアーティスト、って言うんですけど」
「ほう、効果音」
「はい。足音とか、衣擦れの音とか、風の音とかをスタジオで再現して録る仕事です。でも、最近はパソコンの音源ライブラリが優秀で、現場の予算も削られて、私の仕事はどんどん減っていて……。今回、大好きな監督の劇場作品から外されてしまったんです。『君の音は、リアルだけど温かみがない』って言われて」
彼女は首のヘッドホンを愛おしそうになぞった。
「それで、頭がゴチャゴチャしてしまって。ネットで『とにかく静かな場所』を探していたら、このキボクマを見つけたんです。三崎の古い民家の『静寂』を録音させてもらえたら、何かが変わるかもしれないと思って。業界では、部屋の中の静けさのことを『ルームトーン』って呼ぶんですけど、ただの静寂じゃなくて、誰かが生きてきた『温かい静寂』を録りたくて」
彼女は、マイクの先にある大きな耳の熊を見つめた。
「でも、さっきからヘッドホンで聴いているのは、エアコンの遠いノイズや、私の服が擦れる音ばかり。機械的で、やっぱり『温かみ』なんてなくて……。この熊さんにも、私の焦りが伝わっちゃったかな」
私は彼女の足元で眠るこまるを見た。
こまるは、彼女の靴に頭を預けるようにして、静かに寝息を立てている。
「温かい音、ですか」
私は少し考えてから、言った。
「私は、ただフツーに生きてきただけなので難しいことは分かりませんが。この店にある熊たちは、みんな元々はただの木の塊です。それを誰かがノミで削り、何十年も誰かに眺められ、触られてきた。この耳の大きな熊も、何人もの愚痴や、ため息や、誰にも言えない秘密を、その大きな耳で黙って受け止めてきたはずです。木の体の中に、そういう人間の気配みたいなものが染み込んでいるのかもしれません」
「人間の、気配……」
「ええ。だから、機械のノイズばかり気にしないで、この熊にあなたの『焦り』を全部、聴いてもらったらどうですか。こいつは聞き上手ですから」
彼女はハッとしたように目を見張り、それから小さく頷いた。
「……そうですね。せっかくここに来たんだから、一度、頭を空っぽにしてみます」
彼女は再びヘッドホンを耳に当て、録音ボタンを押した。
今度はずっと目を閉じるのではなく、大きな耳の熊をじっと見つめながら、深く、長い呼吸をした。
土間に、ふたたび完全な静寂が訪れる。
そして、その時だった。
不条理なことというのは、いつも唐突に、しかし極めて自然に起こる。
「パキッ……」
とても小さな、けれどどこか澄んだ、乾いた音が土間に響いた。
それは、テーブルの上の木彫りの熊の関節――いや、木肌が、ほんのわずかに動いたような音だった。
それと同時に、ガンマイクの防風毛皮が、風もないのに不自然にふわりと揺れた。
「え……?」
彼女が目を見開いた。
ヘッドホンを片耳だけ外し、信じられないという表情で私を見る。
「今、何か……すごく、深い音がしました。木の奥から、誰かが深く息を吐き出したような、驚くほど温かくて、丸い音が……」
私はとぼけた顔で、肩をすくめて見せた。
「築50年の古民家ですからね。夜になると、柱や梁が呼吸をするように鳴るんですよ。三崎の潮風が通り抜けただけかもしれません」
「でも、今のは、確かにこの熊の耳のあたりから……」
彼女は再びヘッドホンを両耳に当て、レコーダーの波形モニターを凝視した。
画面には、小さな、けれど確かな美しい波形が刻まれていた。
彼女の足元では、こまるが「ふぅ」と満足げに鼻を鳴らし、さらに体を丸めて眠りの深淵へと沈んでいった。
彼女の顔から、先ほどまでの張り詰めた焦燥感が消えていくのが分かった。
その瞳には、まるで宝物を見つけた子供のような、純粋な輝きが戻っていた。
「……ありがとうございました。私、この音を映画の『静寂』のベースに忍ばせてみます。きっと、観た人の心を包み込むような、優しいシーンになる気がします」
「それは楽しみですね。完成したら、その音を聴きに、私も映画館へ行ってみましょう」
21時20分。
夜の終わりを告げる、最後から2番目の京急バスの音が、濡れたアスファルトを滑るようにして遠ざかっていった。
彼女は機材を丁寧にケースに仕舞うと、「これはお礼です」と言って1000円札を一枚置いて立ち上がった。
「また、音に迷ったら、この子の耳を借りに来ますね」
「ええ、いつでもどうぞ。こまるも一緒に、静かにお待ちしています」
引き戸が静かに閉まり、彼女の足音が夜の闇へと溶けていく。
私はテーブルの上に取り残された「耳をすます熊」を片付けに向かった。
熊を両手で持ち上げたとき、心なしか、いつもよりその木肌がほんのりと温かく、手のひらに馴染むような気がした。
「お前、いい音を出すな」
声をかけると、6畳間の座布団の上で、こまるが一度だけ「ワン」と、静寂を壊さない程度の小さな声で返事をした。
星空のようなイルミネーションのスイッチを切ると、三崎の深い夜が、キボクマを優しく包み込んだ。
……。
忙しい日々のノイズに追われていると、私たちは自分自身の「心の音」さえ聴き逃してしまいそうになります。
ヨルクマの静寂の中で、彼女が録音した「温かい音」。
それは、築50年の古い木々が奏でた呼吸の音だったのか、それとも、彼女の真剣な眼差しに応えた熊のささやきだったのか。
今度あなたが映画館で、なぜだか心がじんわりと温かくなるような「静寂」に出会ったら……。
それはもしかしたら、三崎の古民家で録られた、特別な1秒間なのかもしれません。
もし、耳元が少し騒がしくなってしまったら、いつでもこの場所に、あなたの静寂を探しにいらしてくださいね。
それでは、次回のお話もお楽しみに。




