第二十二話:贅沢な時間
三崎の潮風が、いつもより優しく、少しだけ気怠げに吹き抜ける朝。
ここ、フリースペース『キボクマ』には、今日も静かに佇む一匹の姿があります。
少し高齢で、小ぶりな柴犬の「こまる」。その名の通り、いつもどこか「困ったような顔」をしていますが、キボクマの静かなルールを誰よりもよく理解している、賢い相棒です。
今日は、朝から晩までしっとりとした小雨が降ったり止んだりする、静かな三崎の1日をお届けします。
……。
三崎の朝は早い。しかし、今日の日の出バス停から聞こえてくる京急バスの音は、どこか遠く、眠たげに響いていた。
午前8時30分。
私はいつも通り、自宅から少し歩いて、築50年の古民家の前に立った。
私の足元には、リードに繋がれたこまるが静かに寄り添っている。
毎朝、私と一緒に自宅からここ『キボクマ』まで歩いて出勤するのが、こまるの日課だ。
格子戸をカラカラと開け、こまるのリードを引きながら、私は声をかけた。
「こまる、今日も店番頼むぞ」
土間に一歩足を踏入ると、ひんやりとした朝の空気が肌を刺す。
格子戸を閉め、リードを外してやると、こまるはトトトと、いつものように自分の持ち場を確認するように歩き回った。
私の声に応えるように振り返り、眉根をハの字に寄せた「困り顔」で小さく尻尾を振る。
我が家にやってきてから、こまるはすっかりこの古民家の空気に馴染んでいる。
私はといえば、短髪にメガネ。
チノパンに履き古したスニーカーを合わせ、上にはヨレたジャンパーを羽織る。
鏡を見るまでもない、どこにでもいる「フツーのおじさん」だ。
「ちょっと冷えるな」
こまるは、キボクマのルールをよくわかっている。
客が来ても、過剰に愛嬌を振りまいたりはしない。ただ、そっと客の足元やローソファーの脇に佇み、なんとなく寄りつく。
その、つかず離れずの距離感が、客の心をそっと癒やしているのを、私は奥の6畳間から見るともなく見ている。
私は土間の掃き掃除を始め、こまるは私を邪魔しないように、1階のローソファーの1つの下に潜り込んで丸くなった。
料金箱を確認する。当然、中は空っぽだ。
キボクマの利用料は、大人1時間500円。受付はなく、客が自主的に小銭を入れる仕組みになっている。
9時。柱時計が低く鳴り響く。
いつもなら、近所のトヨさんが「首を傾げた熊」に挨拶をしに来る時間だが、今日は格子戸が開く気配がない。
しっとりとした小雨が瓦を濡らす音が、しんしんと店内に響いている。
「まあ、そんな日もあるか」
私は土間の奥にある6畳間の定位置に引っ込み、文庫本を開いた。
10時。誰も来ない。
11時。やはり、誰も来ない。
日の出バス停にバスが停まる音は聞こえるが、キボクマの前を通り過ぎていく足音ばかりだ。
土間には、私が集めた100体の木彫りの熊たちが、行儀よく並んでいる。
鮭を咥えたもの、スキー板を履いたもの、抽象的な黒い塊のようなもの。
誰もいない土間で、熊たちはいつも以上に静まり返っている――ように見えて、実は少し違いがあった。
ふと本から目を上げると、ソファーの下から顔を出したこまるが、じっと棚の上の熊たちを見つめていた。
こまるの視線の先には、昨夜、客が選んだまま少し位置がずれていた「お辞儀をしているような熊」がいた。
すると、カタ、と小さな音がした。
本当に、気づかない程度のわずかな動き。
お辞儀をしていた熊が、ほんの数ミリ、こまるの方へ首を傾げたのだ。
こまるは驚きもせず、ただ「ふぅ」と息を吐き、また目を閉じた。
「お前たちも、今日は暇そうだな」
私は熊たちに向かって呟いた。
返事はない。けれど、100体の熊たちが、どことなく「そうなんですよ、店主さん」と、お互い肩の力を抜いてサボっているような、そんな不条理で温かい気配が土間に満ちていた。
12時。
私はこまるの皿にドッグフードを盛り、自分は近所のスーパーで買ってきた総菜パンをかじった。
こまるはポリポリと小気味よい音を立てて餌を平らげると、私の足元にやってきて、あごを私の膝の上に乗せてきた。
少し困ったような顔で、じっと私のメガネの奥を見つめてくる。
「なんだ、散歩か?」
そう言うと、こまるは「くぅ」と小さく鳴いた。
私は土間に降りスニーカーを履き、こまるにリードをつけて外へ出た。
しっとりとした小雨が降ったり止んだりする、静かな午後。
幸い、こまるの散歩を邪魔しない程度の、肌をそっとなでるような優しい霧雨だ。
雨に濡れたアスファルトが、鈍い灰色に光っている。三崎の街全体が、いつも以上にしんと静まり返っていた。
港の方まで、ゆっくりと歩く。
小雨に濡れた潮の香りが、いつもより濃く鼻腔をくすぐる。
平日の昼時、港は静かだった。
青い海の上を、カモメが数羽、優雅に円を描いて飛んでいる。
すれ違う近所の漁師のおじさんが、「お、こまる、今日も困ってんなぁ」と頭を撫でてくれた。
こまるは、尾を少しだけ左右に揺らし、うれしそうに目を細めていた。
1時間ほどのんびり歩いて、店に戻る。
やはり、料金箱には1円も入っていなかった。
午後も、時間が静かに、しかし贅沢に流れていった。
私は6畳間で、普段はなかなか進まない、少し難しい哲学の本を読んだ。
こまるは、1階のカウンターテーブルの椅子の下や、2階へ続く古い階段の1段目など、お気に入りの場所を点々としながら、うとうとと昼寝をしていた。
18時。
外が夕焼けに染まり始める。キボクマの昼の営業時間は終わりだ。
そして、20歳以上限定、持ち込み自由の「ヨルクマ」の時間になる。
私は立ち上がり、黒い漆喰の壁と天井に、星空のようなイルミネーションを灯した。
スローテンポで明滅する小さなLEDの光が、土間を深い海底のような、あるいは宇宙のような不思議な空間へと変えていく。
夜の利用料は1000円。
しかし、19時を過ぎても誰も来ない。
引き戸のガラス越しに見える三崎の街は、すっかり暗くなり、通り過ぎる車のヘッドライトだけが、時折土間を白く照らした。外はまだ、霧のような雨が静かに街を濡らし続けている。
「今夜は、貸し切りだな」
私は立ち上がり、冷蔵庫を開けた。
自分用に冷やしておいた缶ビール。それから、昨日、もらったキャベツ。
「よし、ビールのあてでも作るか」
奥の小さな勝手口に立ち、まな板の上でキャベツをトントンと千切りにする。誰もいない静かな空間に、心地よい包丁の音が響く。
ボウルに少しの小麦粉と水、卵を溶き、キャベツを混ぜ合わせる。
冷蔵庫の奥に眠っていた賞味期限ギリギリの豚バラ肉と、焼きそば用の蒸し麺。フライパンを熱して豚肉をカリッと焼き、焼きそばをほぐして、その上にキャベツたっぷりの生地を流し込む。
ジュウウウゥ、と湿った良い音が古民家に広がり、焼き上がる時間経過とともに焦げるソースの甘辛い香りが土間を包み込んでいく。
「お好み焼き、いや、モダン焼きだな」
出来上がった熱々のお好み焼きを皿に移し、マヨネーズで格子模様を描く。
青のりは……ないか。代わりに棚の奥から引っ張り出してきた、焼き海苔。
それをちぎり、手の中でギュッと一握りし、パラパラと振りかける。
不揃いな海苔の隙間に鰹節を躍らせると、それだけで見栄えは十分になった。
カウンター席に運び、缶ビールをプルタブに指をかけて開けると、プシュッと小気味よい音が静寂に響いた。
冷えたビールを一口、喉に流し込む。そして、ソースが焦げて香ばしいお好み焼きを箸で切り分け、口に運ぶ。
キャベツの甘みと、焼きそばのモチモチ感、豚肉の旨味が口いっぱいに広がって、ビールの苦味がそれを追いかける。
「うん、我ながら上出来だ」
トトト、音がして、こまるが隣のローソファーの上に器用に飛び乗った。鼻をひくひくとさせ、私の手元をじっと見つめている。
「お前には、お好み焼きは味が濃すぎるな。ほら、こっち」
私はポケットから犬用の乾燥ササミを1カケラ取り出し、手のひらに乗せて差し出した。こまるはそれを、まあまあだな。とでも言うようにサクサクと咀嚼する。
咀嚼を終えると、メニュー表に書かれた『店長との会話 0円』の文字を、前足でちょんと叩いた。
「おいおい、お前が客になるのか?」
私は苦笑しながら、こまるに向き合った。
こまるは、相変わらずの困り顔で、じっと私を見つめている。
「そうだな。お前が来てから、この店も少し賑やかになった。トヨさんも、彫刻家の男性も、移住カップルも、お前がそばにいてくれたから、少しだけ早く元気になれたんだと思う。ありがとうな」
私がそう言うと、こまるは「わん」と、ごく小さな、ささやくような声で吠えた。
その時、カウンターの端に置いてあった、一番大きな熊――カシューナッツを貰って毛並みが良くなった(ように見える)、どっしりと熊が、ほんの少しだけ、体を揺らした気がした。
まるでお好み焼きのソースの匂いに釣られたか、あるいはビールの乾杯に加わりたがっているかのように。
「お前も、食うか? ……いや、熊にお好み焼き合わないな」
私は独りごちて、ビールをもう一口煽った。
21時20分。
最後の京急バスが、重たいエンジン音を立てて日の出バス停を通り過ぎてしていく。
結局、今日のお客さんは、こまると100体の熊たちだけだった。
売り上げは、0円。
けれど、私の心は不思議と満ち足りていた。
誰も来ないしっとりとした小雨の一日。
それは、この古民家が、熊たちが、そしてこまると私が、ただそこにあるだけで完璧に満たされていることを教えてくれる、特別な「静かな時間」だった。
「よし、こまる。お開きにしよう」
星空のようなイルミネーションのスイッチを切る。
店内は、三崎の深い夜の闇に包まれた。
私の足元で、こまるが小さくあくびをする音が聞こえた。
明日もまた、同じ潮風が吹き、同じバスの音が聞こえるに違いない。
……。
朝から晩まで、しっとりとした小雨が降る「キボクマ」と「ヨルクマ」。
それは寂しいことのように思えて、実はとても贅沢で、優しい時間でした。
店主のビールを飲む音と、キャベツを刻む包丁の響き。
そして、誰も見ていないところで、ソースの匂いにつられてほんの少しだけ動く木彫りの熊たち。
この場所には、何もなくても、確かな温もりが流れています。
柴犬のこまるも、お裾分けのお好み焼き(ササミでしたが)に満足だったようですね。
青のりは切らしていても、普通の海苔を手の中でパリパリと潰して代用する、おじさんの少し大雑把な工夫が、モダン焼きの美味しさをさらに引き立ててくれたようです。
明日はまた、誰かが引き戸を開けるかもしれません。
その時は、こまるが静かに、あなたの足元に寄り添ってくれるはずです。
それでは、次回のキボクマの静かな時間にお会いしましょう。




