第二十一話:鮭と、余白
三崎の風が、徐々に冷たさを増していく季節。
日ノ出バス停のすぐそばにあるフリースペース「キボクマ」には、今日もそれぞれの事情を抱えた人々が引き寄せられてきます。
今回、この静かな土間に足を踏み入れたのは、スマートフォンの画面に並ぶ数字と、毎日睨み合っている若い男性です。
「無駄」を徹底的に嫌い、1秒、1円の損失も許さないと肩をそびやかす彼が、なぜ100体の木彫りの熊が並ぶこの場所にやってきたのか。
効率という物差しだけでは測れない、不思議な1時間の物語を、どうぞ静かにお楽しみください。
……。
三崎の午後3時は、潮風が少しだけ湿り気を帯びる時間だ。
日ノ出バス停で京急バスが乗客を吐き出し、アスファルトに重いエンジン音の余韻を残して去っていく。
私はいつものように、築50年の古民家「キボクマ」の8畳ほどの土間の奥、6畳間に引っ込んでいた。
文庫本を開いてはいるが、目はほとんど文字を追っていない。
格子戸から差し込む、斜めになった頼りない太陽の光を、ぼんやりと眺めていた。
ガララ、と引き戸がやや乱暴に開いた。
入ってきたのは、20代半ばほどの若い男だった。
髪はきっちりと七三に分けられ、仕立ての良さそうな、しかし少しシワの寄ったビジネススーツを着ている。肩にはパソコン用とおぼしき黒いバックパック。
彼は土間に一歩入るなり、入り口の料金箱の横にある案内板をじっと睨みつけた。
「大人 500円……」
男は、自分のスマートウォッチの文字盤を確認し、それから料金箱に500円玉を1枚、チャリンと投入した。
その顔は、リラクゼーションスペースに入る客のそれではなく、戦地に赴く兵士のように硬く、張り詰めていた。
彼は土間に並ぶ6席のカウンターテーブルではなく、4脚置かれた1人掛けのローソファーの1つを選んで深く腰掛けた。
すぐにバックパックからノートパソコンを取り出し、膝の上で開き、凄みのある勢いでキーボードを叩き始めた。
私は6畳間から、その様子を静かに見守る。
男は時おり、キーボードを叩く手を止め、眉間をこれでもかと寄せて、土間の壁際に並ぶ100体の木彫りの熊たちを睨みつけた。
鮭を咥えたもの、スキー板を履いたもの、ただの黒い塊に見えるもの。
彼にとって、それらの存在は理解しがたい「バグ」のように映っているらしかった。
「……はあ」
大きな、随分とわざとらしいため息が土間に響いた。
男はパソコンの画面から目を離し、6畳間にいる私に向かって、トゲのある声を投げかけてきた。
「あの、店主さん」
私は眼鏡の位置を直し、いつもよりゆっくりと土間へ歩み出た。
「はい。何か」
「ここ、一応『フリースペース』ですよね。Wi-Fiは飛んでるみたいですけど、音楽もかかってないし、飲み物のサービスもない。それで500円って、少し強気じゃないですか? 30分おきといった細かい時間設定もないですし、5分いても1時間いても一律なんですよね?ずいぶん大雑把な価格設定ですね」
彼の言い草には、明確な嫌味が混じっていた。
私はサンダルの先で、土間のコンクリートを少しだけ擦った。
「ええ。ここは場所を貸すだけの空間ですから。持ち込みは自由ですし」
「それと、これ」
男は壁際の棚を指差した。
「この木彫りの熊たち。これ、維持費とか管理コストはどうしてるんですか? 埃を払うだけでもかなりの労働力、つまり人件費が発生しているはずです。スペースも圧迫している。これらを全部撤去して、もっとノマドワーカー向けのコワーキングスペース風に改装すれば、回転率も上がって収益性が改善すると思いますが」
私は彼の言葉を、適当に聞き流すことにした。
「まあ、私の唯一の趣味ですから。採算は、最初から考えていませんよ」
「趣味…ですか。実に非効率的だ」
男は鼻で笑い、棚の上段、左上の隅という、あまり目立たない場所にひっそりと置かれていた熊に目を留めた。
そこにあったのは、100体の中でも、どこからどう見てもお土産物屋に並んでいそうな、あからさまに一般的な木彫りの熊だった。
ごつごつとした粗い毛並みに、太い丸太のような四肢、そして口にはしっかりと鮭を咥えている。棚の隅で、ほんの少し埃を被っていた。
「じゃあ、せっかくだから500円の元を取るために、これを借りていきます。5分で出たら大損ですからね。きっちり1時間、こいつを鑑賞しながら居座らせてもらいます」
男は、そのどこにでもありそうな鮭咥え熊を自分の横のローソファーの肘掛けに置いた。
「この熊、どこにでもあるお土産物の定番ですね。作家の余計なこだわりやオリジナリティを最初から排除して、お決まりのパターンで大量生産されている。デザイン的には安易ですが、余計な開発コストをかけずに効率化されているという点だけは評価できます」
そう言って、彼は再びパソコンの画面に向き直った。
男がキーボードを叩く音だけが、古い木造の建物に響く。
画面を覗き見るつもりはなかったが、彼の指の動きや、スマートフォンで計算を重ねるスピードから、彼が強迫観念に近い何かと戦っていることは容易に想像できた。
「家賃、6万8000円。光熱費、1万2000円。食費、自炊で2万2000円に抑える。サブスク、2件解約でマイナス2000円……」
彼はブツブツと呟いていた。
将来への不安、奨学金の返済、会社の同期との給与の差。
彼の頭の中は、1円単位での効率化と、支出の削減、そこで「無駄の排除」で埋め尽くされているようだった。
だが、その表情は、今にもすり減って消えてしまいそうなほどに疲弊しているように見えた。
「……チッ、計算が合わない。今月はあと1500円削らないと目標貯蓄額に達しないぞ」
男が頭を抱えた、その時だった。
コトッ。
静かな土間に、小さな、しかし乾いた音が響いた。
男が息を呑み、肘掛けの上の熊を見た。
お土産物然とした熊が、ほんの数ミリほど、彼のパソコンのキーボードの方を覗き込むように、首を傾けていた。
「え……」
男は自分の目を疑うように、眼鏡を押し上げた。
「おい、今、動いたか……?」
私は奥の6畳間から、静かに声をかけた。
「どうかしましたか?」
男は引きつった顔で私を見た。
「店主さん、これ、中に空間的な細工や機械でも仕込んであるんですか? それとも、この床が傾いてるから重力で……いや、今の動きは……」
私はソファーの対面にある、もう1つのローソファーへ歩み寄った。
「床は傾いていませんよ……。メニューに『店長との会話 0円』と書いてあるのをご覧になりましたか?」
男は一瞬、戸惑ったような顔をしたが、すぐにパソコンをパタンと閉じた。
「ああ、ありましたね。いいでしょう。どうせ500円払ってるんです。その『0円サービス』とやらを請求します。店主さん、あなた、どうしていい歳してこんな無駄だらけの生活をしてるんですか? 定職にも就かず、こんな寂れた港町で、熊なんか集めて。将来、どうするんですか。不安じゃないんですか?」
私は、心にグサっと刺さる言葉ではあったけれど、彼の言葉は、私への非難というよりは、自分自身に問いかけている悲鳴のように聞こえた。
私は、彼の横で肘掛けにちょこんと佇む熊に、優しく微笑ましい眼差しを向けた。
「不安ですよ。明日、この建物が崩れるかもしれないし、私が倒れるかもしれない。でもね、お客さん」
男は、突然「お客さん」と柔らかく呼びかけられて、ハッとしたように身を硬くした。いつも効率や数字だけを求められる場所で、牙を剥いていなければ押し潰されそうなほど必死だったのだ。それなのに、目の前のおじさんは怒るでもなく、ただ一人の「お客さん」として真っ直ぐに自分を呼んだ。張り詰めていた心の糸が不意に緩み、彼はどうしていいか分からなくなったように小さく息を呑んだ。
「この熊はね、安易に作られたお土産物だからダメ、というわけでもないんですよ」
「じゃ、じゃあ、何なんですか。このありふれたデザインは」
「これはね、鮭を咥えていますね。でも、こいつは一生、その鮭を飲み込むことはないんです」
「え……?」
「こいつは一生、鮭を飲み込むことも、食べることもなく、ただ口に咥え続けるためだけに彫られた。生きるため、食べるためという『本来の目的』を達成しないまま、ずっと中途半端な状態で留まっている。私はね、この目的を達成しないまま留まり続けている瞬間こそが、この熊にとっての『余白』だと思うんです。
人間も同じじゃないでしょうか。目標を達成することばかり、つまり『飲み込むこと』ばかりに追われて、ただその手前で、鮭を咥えたまま風を感じるような『余白の時間』を、忘れてしまっていませんか?」
男は黙った。
彼の手が、熊の素朴な背中に触れた。
木肌は冷たいはずだが、彼の体温と共鳴して温まっているように見えた。
「僕……」
男の声が、小さく震えた。
「奨学金が300万円残っていて。東京の家賃は高くて。スーパーのタイムセールで安くなった惣菜を買い漁り、何のために生きてるんだろうって思うんです。友達が高級なディナーの写真をSNSに上げているのを見るたびに、自分の人生のコスパの悪さに吐き気がする。無駄なものを全部排除して、いつか安心できる日が来たら、その時に初めて、息を吸おうって、そう思って……」
「安心できる日なんて、一生来ませんよ」
私は、正直な気持ちを彼に伝えた。
「世界は不条理で、数字通りには動かない。だからこそ、今、ここに500円を払って、熊を眺める無駄な時間が必要なんじゃないでしょうか」
私は立ち上がり、奥の台所から、飾り気のない湯呑みと、あちこち凹んだ小さなヤカンを持ってきた。ヤカンには沸騰したただのお湯が入っているだけだ。それを湯呑みに注ぎ、彼の前に置く。
「メニューにはありませんが、ただの白湯です。0円ですから、コストの心配は要りません」
男は湯呑みを受け取り、両手で包み込んだ。立ち上る湯気が、彼の眼鏡を白く曇らせる。彼は曇った眼鏡を外すこともせず、熱い白湯をおそるおそる、一口だけ啜った。
喉を通るまっすぐな熱が、冷え切った彼の身体にじんわりと染み渡っていく。
「……ただの白湯なのに、妙に美味しいですね」
「無駄な時間を過ごした後に飲む白湯は、格別ですよ」
チクタクと、古民家の柱時計が時を刻む。
彼はそれ以上、キーボードを叩かなかった。ただ、鮭を咥えた熊をじっと見つめながら、白湯を少しずつ口に運んでいた。
その横顔からは、先ほどのトゲトゲとした気配が、潮風に洗われるように消え去っていた。
午後3時59分。
スマートウォッチが1時間の経過を知らせるアラームを、小さく鳴らした。
男はパソコンをバックパックに仕舞い、立ち上がった。
「ちょうど1時間ですね。1秒でも早く出たら損ですから、きっちり元は取らせてもらいました」
「ええ、それで結構です」
男は入り口の格子戸へと向かった。
戸を開ける直前、彼は立ち止まり、財布から100円玉を1枚、料金箱にそっと入れた。
「……それは……」
男は少しだけ横を向き、照れを隠すように口元を緩めて言った。
「『余白』の維持費です。最高にコスパの悪いスペースでしたよ。でも、また…無駄遣いしに来ます」
その背筋は、来た時のような強張りがすっかり消えて、どこか肩の力が抜けたように、すっと伸びていた。
引き戸がカラカラと、来た時とは違い静かに閉まり、そのまま、バス停の方へとゆっくり歩いていくのが影でわかった。
彼が去った後の土間には、最初に入ってきた時のあの兵士のような、刺々しく張り詰めた空気はもう残っていなかった。
私は土間のローソファーに向かった。
肘掛けの上におかれた、土産物の熊を手に取る。
不思議なことに、熊が咥えている木彫りの鮭が、入店前よりもほんの少しだけ、丸みを帯びて生き生きとして見えた。一生飲み込まれることのないその鮭が、誰かの張り詰めた心に寄り添い、ほんの少し、温かな余白を蓄えたのかもしれない。
私は熊を抱え、元の棚へと戻した。
外では、夕暮れの三崎を告げる、京急バスの音が、遠くで響いていた。
……。
キボクマを後にした彼の足取りは、来た時よりもほんの少しだけ、ゆったりとしたものになっていました。
100円玉を料金箱に追加した時の彼の顔は、きっと、どんな効率的な買い物をした時よりも満ち足りていたはずです。
私たちは時折、数字や効率という目に見えるものに縛られ、自分の心の形を見失ってしまうことがあります。
そんな時は、ぜひ三崎の潮風に吹かれながら、キボクマの熊たちに会いにきてください。
彼らは何も語りませんが、あなたの心の余白を、そっと守ってくれるはずです。
さて、次はどんな迷い人が、キボクマの引き戸を叩くのでしょうか。
どうぞ、次回もお楽しみに。




