第二十話:サクラ貝の羅針盤
三崎の夜は、都会よりも少し早く、そして深く静かに訪れます。
日ノ出バス停のそばにある古民家「キボクマ」が、20歳以上限定の静寂を楽しむ空間「ヨルクマ」へと姿を変える時間。
今夜やってきたのは、のんびりとした三崎の潮風には少し馴染まない、どこか張り詰めた気配をまとった1組の夫婦。
お互いを大切に想う気持ちが、時に言葉を濁らせ、静かなすれ違いを生んでしまう。そんな2人の前に現れた、小さなピンク色の不思議な出来事。
切なくて温かい三崎の夜の物語を、どうぞお楽しみください。
……。
三崎の夜は、潮騒よりも先に静寂が満ちる。
黒漆喰の壁と天井に埋め込まれた小さなLEDが、スローテンポで明滅する。
夜の「ヨルクマ」の店内は、まるで深い海の底から見上げた星空のようだ。
どこにでもいるフツーのおじさんである私は、土間の奥にある6畳間の座椅子に深く腰掛け、冷たい麦茶をすすりながら、静かに文庫本のページをめくっていた。
その足元では、少し前からこの店に居候している高齢の柴犬、こまるが前足に顎を乗せ、スースーと静かな寝息を立てている。
カラカラ、と古い引き戸が開いた。
乾いた軽い木枠の音が、夜の静寂に心地よく響く。
入ってきたのは、30代半ばとおぼしき男女だった。
2人の佇まいは、三崎ののんびりとした潮風には少し馴染まない、どこか張り詰めた都会の気配をまとっていた。
お互いに視線を合わせるのを避けるように、うつむき加減に歩いている。
その足取りはどこか噛み合わず、まるで見えないすりガラスの壁越しに相手を窺っているような、妙な距離感があった。
こまるがパチリと片目を開け、2人の足元を一度だけ見つめた。けれど、すぐにまた大きなあくびをして、退屈そうに目を閉じてしまう。
入り口の料金箱の前で、男性が財布から1000円札を2枚取り出し、吸い込まれるように箱へと落とした。
ヨルクマの利用料は、1人1000円。閉店まで時間制限なし。2人で2000円。きっちりとした「契約」の音が、静かな土間に響く。
男性の手には、近くにある三浦ブルワリーで買ったのだろう、冷えた地ビールの小瓶が2つ握られていた。持ち込み自由のこの店では、よく見る光景だ。
「いらっしゃい」
私が6畳間から声をかけると、2人は小さく、言葉を発さずに頭を下げた。
そのまま、100体の木彫りの熊が並ぶ棚の前へと歩む。
彼らが言葉を交わすことはなかった。ただ、男性が棚の少し高い位置から、1組の熊を下ろした。
それは、他の熊たちとは少し違っていた。
1つの四角い木塊から、真ん中で2つに切り分けるようにして彫られた、小さな2体のペアの熊だ。木目が綺麗に繋がっており、2つをぴったりと並べると、まるで1つの大きな年輪が浮かび上がるようになっている。
2人はそのペアの熊を持ち、土間の隅にあるローソファーへ向かった。
ソファーに深く腰掛け、テーブルの上には持ち込んだビール瓶と、2体の熊を並べて置く。
けれど、栓を抜く気配はない。2人の間に漂う、言葉にできない張り詰めた空気は、触れれば壊れてしまいそうなほど、ひっそりと凍りついたままだった。
「……ねえ」
沈黙を破ったのは、女性の方だった。少しハスキーで、少し硬い声。
「ここに来て、本当に良かったのかな」
男性は答えず、ただテーブルの上の木彫りの熊を見つめている。
「……あなた、ずっとパソコンの前にいるじゃない。夜中まで、ずっと」
「仕事だよ」
男性は、ビールのラベルを爪で弾きながら低く答えた。
「ここにいようが、どこにいようが、俺は稼ぐしかないんだから」
「わかってる。わかってるけどさ。私は、何のためにここに来たのかな?最近わかんなくなっちゃった。毎日、私だけ何もしないで焦って、私の顔見るたびにあなたイライラして。まともに目も合わさないじゃない」
「俺がいつイライラしたよ」
男性の声に、少しだけ刺が混じる。
「不安なんだよ、俺だって。毎日な」
「だったら、そう言ってよ!」
「言えるわけないだろ!」
男性が、ついに声を荒らげた。
その瞬間、私の足元にいたこまるが、のそりと頭を上げた。
少し下がった眉と、いかにも困ったような目で夫婦の顔を交互に見つめる。それから、フス、と気の抜けたため息を鼻から漏らすと、まさに「夫婦喧嘩は犬も食わぬ」とばかりに、くるりと背を向けて再び丸くなった。
「お前が『海が見える場所で暮らしたい』って言ったから、俺はここに決めたんだ。自分で決めて連れてきたのに、今さら弱音なんか吐けるかよ」
「……そんなの、全部私のせいにしないでよ」
女性の瞳に、うっすらと涙が浮かぶ。
その時だった。
コツン、と乾いた軽い音が土間に響いた。
男女は訝しんだが、どうやら、テーブルに置かれたペアの熊の方から聞こえてきてるようだった。
「え……?」
女性が涙を拭い、テーブルの上を見た。
2体の木彫りの熊の、ちょうど合わせ目の部分から、桜の花びらのようなものが、はらはらとこぼれ落ちていた。
いや、花びらではない。
それは、透き通るような薄いピンク色をした、小さなサクラ貝の貝殻だった。
コツン、コツンと、どこからともなく湧き出るように、4、5枚のサクラ貝がテーブルの上にこぼれ落ちていく。
男性が、信じられないものを見る目で、その貝殻の1つを拾い上げた。
「これ……サクラ貝……?」
「嘘……どうして……」
女性も息を呑む。
私は、冷えた麦茶を2つの素朴な湯呑みに注ぎ、盆に乗せて6畳間から土間へと降りていった。
「少し、冷ましてはいかがですか」
そっとテーブルに湯呑みを置く。
夫婦はハッと我に返ったように私を見上げ、それからテーブルの上のピンク色の貝殻に視線を戻した。
「あの……店主さん」
女性が、少し震える声で私を呼び止めた。
「この貝殻、どこから……」
「さあ」
私は湯呑みを置いた盆を小脇に抱え、何食わぬ顔で微笑んだ。
「うちの熊たちは、たまに不思議な落とし物をしますから。お気になさらず」
「でも、これ、サクラ貝……」
男性が、手のひらの小さな貝殻を見つめたまま、ぽつりと呟いた。
「昔、付き合いたての頃、2人で油壺の海水浴場へ行ったんです。その時に、砂浜で一緒に拾い集めたやつに、すごくよく似てて……。あの時、『またいつか、この海に戻ってこようね』って約束したんです……」
男性の言葉に、女性が小さく息を吐いた。
「覚えてたんだ」
「忘れるわけないだろ。あの時のお前、すごく嬉しそうだったから。だから俺……」
男性はそこまで言って、言葉を濁した。私はゆっくりと、ソファーの少し脇に佇んだまま、ただ静かに彼の次の言葉を待った。
「ここに引っ越してきてから、全然うまく回らなくて。仕事も思うようにいかなくて、とにかく俺がしっかりしなきゃって。心配かけたくなくて、平気なふりをするのに必死で。お前の顔を見る余裕もなかったんだな」
「平気なふりなんて、しなくてよかったのに」
女性の目から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
「私はただ、あの時みたいに、優しくて、穏やかなあなたと一緒に、もっとゆっくり生きていきたいだけなの。あなたが1人でずっと苦しそうにしてるのが、一番辛くて……」
「ごめん。かっこつけてばかりで、お前に甘えるのが怖かった。1人ですべて抱え込もうとしてた」
「私も、ごめんね。寂しかったの」
2人は言葉を交わしながら、お互いの手のひらをそっと重ね合わせた。
いつの間にかこまるがのそのそと二人に歩み寄り、ローソファーの足元にそっと寄り添うように丸くなっていた。
私は、夫婦の前で静かに佇んでいるペアの熊を見た。
「その熊たち、もともと同じ1本の木なんですよ」
私のボソリとした言葉に、夫婦が顔を上げた。
「真ん中でふたつに切り分けただけだから、片方が揺れると、もう片方も同じように揺れる。まあ、そういう木なんです……」
私はそれだけ言って、盆を抱え直した。
2人は言葉を失い、ただテーブルのサクラ貝と、ペアの熊を見つめていた。
やがて、男性が少し照れくさそうに、でもスッキリとした顔で私に頭を下げた。
「ありがとうございました。……お茶いただきますね」
「ええ、どうぞ。お持ち込みのビールも、冷たいうちに開けた方が美味しいですよ。栓抜きなら、そこの柱に掛かってますから」
私はそう言って、そっと6畳間へ戻した。
コトン、と柱から栓抜きを取る音が聞こえ、そのあと、シュポン、シュポンと小気味よい音が2つ、静かな土間に響いた。
2人は長い時間、星空のようなイルミネーションの下で、麦茶と、冷えたビールを交互に口にしながら、穏やかに話し合っていた。
時列、小さく笑い合う声が、隙間風の音に混じって6畳間まで聞こえてきた。
しばらくして、2人は立ち上がった。
彼らの手には、数枚のサクラ貝が握られていた。
「店主さん、これ、ここに置いていってもいいですか?」
女性が、少し恥ずかしそうに微笑みながら言った。
「ええ、もちろん。うちの熊たちは、そういう落とし物が大好きですから」
彼女は、手のひらの中のサクラ貝を、2体のペアの熊の足元に、そっと飾るように並べた。
2体の熊は、相変わらず黙って佇んでいる。けれど、その木肌は、星空のイルミネーションを浴びて、ほんの少しだけ温かみを帯びているように見えた。
「ここから、ゆっくり始めよう」
男性が言うと、女性は嬉しそうに頷いた。
2人はしっかりと手を繋ぎ、引き戸を開けて、夜の三崎の街へと歩み出していった。
その足取りは、とても軽やかだった。
翌朝。
私は土間の掃除をしながら、ローソファーのテーブルに向かった。
昨夜のペアの熊の足元には、2人が置いていったピンク色のサクラ貝が、ひっそりと寄り添うように飾られている。
「お前たち、いい仕事したな」
私はそれを片付けず、そのままにしておくことにした。
これから三崎で暮らしていく2人の、小さな羅針盤として。
足元では、こまるが「今日は散歩に行きたい気分だ」とでも言うように、少し困った顔のまま、私のズボンの裾をちょんと鼻先で突いた。
こまるの頭を軽く撫でて、私はリードを手に取った。京急バスが、日ノ出バス停に止まる音が聞こえてくる。
三崎の新しい1日が、また静かに始まろうとしていた。
……。
お互いを大切に想うからこそ、言えなくなってしまう本音。
そんな夫婦の心の揺れを、ペアの熊と、油壺の海がもたらしたサクラ貝が、優しく解きほぐしてくれたようですね。
皆さんも、大切な人と本音を話せていますか?
もし少しだけ心がすれ違ってしまった時は、この静かなヨルクマの光の中で、熊たちと一緒に過ごしてみてはいかがでしょうか。
さて、次はどんなお客様が「キボクマ」の扉を叩くのでしょう。
どうぞ、次回もお楽しみに。




