第二十五話:またいつか(第1期最終話)
潮風が吹き抜ける神奈川県三浦市三崎。
日の出バス停のすぐそばにある築50年の古民家フリースペース「キボクマ」は、今日も変わらずそこにあります。
店主の「普通のおじさん」と、100体の木彫りの熊たち。そしていつからかこの場所に馴染み、お客さんの心にそっと寄り添ってきた柴犬の「こまる」。
これまで、さまざまな迷いや切なさを抱えた人々がこの引き戸を叩き、熊たちと静かな対話を交わしてきました。しかし、どんな場所にも、少しだけ立ち止まって呼吸を整える時間が必要なようです。
今回は、この「キボクマ」がしばらくの間、静かな充電期間に入る前の一幕。
少しだけ切なくて、けれど明日への優しい光に満ちた、一旦の「最終回」をお届けします。
……。
三崎の朝は、いつもと変わらない潮の香りと、京急バスが立てる低く重たいエンジン音で始まった。
私は毎朝のルーチンとして、8時30分に格子戸を開ける。49歳、短髪、メガネ。チノパンに履き古したスニーカーという「フツーのおじさん」の格好で、土間の掃き掃除を始める。
その私の足元を、小さな影がトコトコとついて回る。
柴犬の「こまる」だ。
こまるは、少し高齢で小ぶりな柴犬。顔はいつも何かを心配しているような「困り顔」をしている。
この店にやってきてから、こまるはキボクマのルールをなんとなく理解しているようだった。
無駄に吠えることもなければ、お客さんに過剰に媚びを売ることもない。
ただ、心が少し擦り切れたお客さんがローソファーに座っていると、いつの間にかその足元に丸くなり、静かに寄り添うのだ。
「こまる、今日も少し風が冷たいな」
声をかけると、こまるは「ふい」と小さく鼻を鳴らし、私のスニーカーに頭を預けてきた。
土間には、100体の木彫りの熊たちが静かに並んでいる。
鮭を咥えたもの、空を仰ぐもの、不格好な守り神。彼らは今日も、それぞれの表情でそこに佇んでいる。
だが、今日の入り口の格子戸には、いつもと違う白い紙が貼られていた。
『キボクマ・ヨルクマは、本日をもちまして、しばらくの間、お休みをいただきます。またお会いしましょう。店主』
そう、今日が充電期間に入る前の、最後の一日だった。
ここ数年、この場所で多くのお客さんの「小さな謎」や「心の揺れ」を受け止めてきた。だが、熊たちも、そして私自身も、少しだけ三崎の潮風を浴びすぎて、木肌が乾いてしまったのかもしれない。少しだけ長い休みを取り、熊たちにオイルを塗り直してやり、自分自身も、ただの「フツーのおじさん」に戻る時間が必要だと思ったのだ。
10時を告げる柱時計の音が響くと同時、ガラリと戸が開いた。
最初の客は、やはりトヨさんだった。
彼女は入り口にある料金箱の前に立つと、いつものように1時間500円の利用料を入れようと小銭入れを開いた。
「トヨさん、今日はいいですよ」
私は6畳間から顔を出して微笑んだ。
「まあ、店主さん。最後の日だって聞いたから、ちゃんと払わせてちょうだい。この場所には、ずいぶん心の引き出しを整理させてもらったんだから」
トヨさんは頑なに500円硬貨を料金箱に入れ、チャリンと小気味よい音を響かせた。
そして、いつもの「首を傾げた熊」のところへ歩いていく。
こまるは、トヨさんの足元へゆっくりと歩み寄り、その靴にそっと体を寄せた。トヨさんは「こまるちゃん、今日も困った顔をして、可愛いわね」と言って、その小さな頭を優しく撫でた。
「しばらく、お休みするのね」
「ええ。熊たちも、少し山の空気を吸いたがっているようでして。私も、ちょっとそこまで旅にでも出ようかと」
「そう。寂しくなるけれど、また戻ってくるんでしょう?」
「もちろんです。ただの充電期間ですから」
トヨさんは、首を傾げた熊の頭を撫で、それからこまるの頭を撫でて、いつもより少しだけ長い、10分ほどの時間を過ごして、すっきりとした笑顔で帰っていった。
その後も、何人かのお客さんがやってきた。
かつてマカロンを残していった若い女性は、今度はすっぴんに近い穏やかな顔でやってきて、「あの時のお礼です」と、今度は本当に美味しそうなクッキーを置いていった。
ウイスキーを熊と酌み交わした紳士は、無言で料金箱に1000円札を入れ、どっしりとした熊の前にしばし佇み、「お互い、良い休息を」とだけ言い残して去っていった。
18時。
昼の「キボクマ」の営業が静かに終了した。
いつもなら夜の「ヨルクマ」が始まる時間だが、今夜は看板を出さなかった。
店内を暗くし、黒漆喰の壁に埋め込まれた小さなLEDの、星空のようなイルミネーションだけを灯す。
土間の真ん中に、私は腰を下ろした。
私の周りには、100体の木彫りの熊たちが、まるで車座になるように並べられている。これらは、今日のために私が棚から降ろしたものだ。
こまるは、私の膝の上に顎を乗せて、眠たそうに目を細めている。
私はコンビニで買ってきた安い缶ビールを開け、一口飲んだ。
そして、目の前にいる、一番小さくて不格好な「守り神」の熊の前に、小さなキャップに入れたビールを少しだけお裾分けした。
「みんな、本当にお疲れ様」
静かな土間に、私の声だけが響く。
潮風が、古い瓦の隙間からすうっと入り込み、星空のような光を揺らした。
その時、不条理で、しかしひどく温かいことが起きた。
100体の熊たちが、ほんのわずかに、本当に気づかないほどのスローテンポで、一斉にコクリと頷いたのだ。
まるで行列を作るバスが、一斉にハザードランプを点滅させるように、静かに、優しく。
こまるが、フフッ、と鼻を鳴らした。まるで行く先を知っているかのように、その困り顔を少しだけ誇らしげに上向けて。
「そうか。お前たちも、少し休みたかったんだな」
私は笑って、ビールの缶を干した。
劇的な解決も、派手な奇跡もない。
ただ、明日からこの場所の鍵がしばらく閉まるという、それだけの、切なくて静かな夜。
けれど、熊たちの木肌は、星空の光を浴びて、これまでになく温かい琥珀色に輝いていた。
翌朝。
私は小さなリュックを背負い、こまるのリードを引いて土間に出た。
100体の熊たちは、元の棚にきちんと整列し、静かに前を見据えている。
私は格子戸を閉め、鍵をかけた。
カチャリ、と乾いた音が三崎の朝の空気に溶けていく。
日の出バス停に向かうと、ちょうど京急バスが、白い煙を吐きながらやってくるところだった。
「さあ、こまる。行こうか」
こまるは一度だけ、キボクマの建物を振り返り、それから私の歩調に合わせて、嬉しそうに小さな尻尾を振った。
不条理なほどに静かで、切ないほどに温かい、私たちの場所。
その扉が再び開く日を、三崎の潮風は、きっと知っている。
(第1期・完)
『三崎・キボクマの静かな時間』を最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
店主の「普通のおじさん」と、少し困り顔の柴犬「こまる」、そして100体の熊たち。彼らが過ごした静かな時間は、一度ここで幕を閉じます。
けれど、これは終わりではなく、新しい物語を紡ぐための、大切な「充電期間」です。
三崎の港町に吹く潮風は、今もどこかで、次の旅人を優しく待っています。
またいつか、日の出バス停のそばで、あの古びた格子戸が開く音が聞こえてくるはずです。その時まで、どうぞ皆様も、それぞれの場所で静かで温かい時間をお過ごしください。
またの「キボクマ」へのお越しを、心よりお待ちしております。
ありがとうございました。




