未来シコウのチートデータガール 62
「笹月は言いましたよねぇ。彼女に関わるのは禁止されましたとぉ」
その困り顔は作られたものだ。多分、ろくに感情もこめていない。何の痛痒も感じていないのだろうからそれはそうだろう。笹月の感情は解り難く、しかしながら解りやすい。嘘が見破れなくとも、気配が読めなくとも、相手の為を思うなどと言う感情は持ち合わせていない事だけは解るのである。
「申し訳ないですねぇ。笹月は役人なので、杓子定規に国の決定に従うまでです。一応、人類の為ですので、悪しからずご了承くださいねぇ」
つらつらと述べて、笹月はぐるりと首を動かして、不機嫌そうな表情を見せるハジメにだけ顔を向ける。いつの間にか煙草を咥えて煙を立ち昇らせる百花の事も、ズームォが手で制さなければ襲い掛かっていただろう二人の護衛の事も、全く眼中になさそうに、笹月はハジメだけを見ている。
殺気という物に鈍感な静夜だって険呑な空気を感じて息苦しい。なるほど、これが殺気という物か。こんなものを一々理解出来たら煩わしいだろうにと思う程度には、今この場は張りつめていた。その証拠に笹月の部下らしい制服警官たちは顔色が真っ青だ。静夜ですら感じ取る重い空気に、訓練された兵士と言える警察官がなにも感じない訳がない。
そんな中、笹月だけは心底平気そうに、ハジメだけを見ていた。他にいる人物など、とるにたらないと言わんばかりに。
「もう聞いているかもしれませんがぁ? この国は甘咲さんを受け入れない事にしました。なので――」
「待て。それはダンジョン省の決定だな? 転移転生者の在留は法務省の管轄の筈だが?」
「ん? なんです貴方。何処のどなたですぅ? まぁいいです。もちろん法務省も通していますよぉ? 魔力障害を起こし、人を殺害し、ビルを倒壊させ、多くの巻き添えを作った魔女。それなのに逮捕しないのは、異世界人だからこそです。苦労したんですよぉ? 強情な上司を説得してこの処分に落とし込んだんですからぁ」
笹月は口をはさんだズームォを雑にあしらう。それは、お前ごときは口をはさむなという嘲りを漂わせた態度であった。
「なので、甘咲さんは無罪放免、どうぞご自由にということですぅ」
「え?」
意味が解らない。そんな顔でハジメの顔が驚く。一緒になって静夜も小さく驚くくらいだ。
ともすれば、良い意味の内容に聞こえるが、どうやらそれは良い話ではなさそうだった。
戸惑うハジメをよそに、笹月はズームォに顔を向ける。
「そして八龍建設には追って正式な書面で通達しますがぁ、営業停止処分が下される事でしょう」
「フォーカード、ルォシェン、落ち着いて。まだだ」
ズームォが今にも暴発しそうな二人をなだめる。
そんな様子を尻目に、笹月は今度は百花をみる。その視線は、何か含みのあるような物にもみえた。
が、それが正の感情か、不の感情なのか。そう言った事は全く分からない。
単に見ただけかもしれない。思う所があるのかもしれない。どうでもいい線でいけば、百花のあまりの美しさに見惚れたという可能性だって、かなり高い確率であるのだから。
「……愛凪百花さんも同じく営業停止処分、つまり愛凪流を広める行為は禁止です。および日本剣術協会の会長の座は降りていただきますよぉ?」
「あら、それは助かりますね」
意味ありげな視線を受けた百花だが、視線にも自分の立場が悪くなる事にも興味がなさそうに長い黒髪を指に絡めて気のない返事をした。
内心は知れないが百花はもとより国に仕える事を良しとしていない言動をしていた。まさか本当に、百花にとって軽い物だとは思っていないが、百花の態度は驚くべきものではなかった。
「待ってよ。なんでそんな事になるんだい?」
「はい?」
たまらずハジメが声を上げた。それに対して笹月は惚けた声をあげた。
「私は無罪放免なんだよね。だったら、なんで私を助けてくれようとしてくれた人たちがペナルティを受けているんだい?」
「はい無罪放免です。ですが……ははぁ、どうやら勘違いしているようなのでお教えしましょう」
笹月は煽るように言う。
これで相手の為を思ってなどと言える神経は、ある意味見習いたい図太さである。
「貴女は無実じゃありませんよぉ。無罪なんです。罪をなかった事にしました。見逃すんです。手の打ちようがないですからねぇ。なので、見逃せない罪には罰は用意されてます」
「なに、それ……」
あまりと言えばあまりの言い草に、ハジメは言葉を失う。
その隙に笹月は首をズームォに向ける。
「八龍建設の皆さんは貴女に殺人容疑が掛かっていると知りながらも取り入ろうとした上に、口車に乗せて手駒にしようとした。危険な転移者を、手駒にしようとしたんです。それは、明確な罪です」
言葉を受けてズームォは鼻で笑い飛ばす。だからどうしたと言わんばかりの態度だが、笹月は取り合わずに百花に目線を、そして顔を向ける。
「そして愛凪百花さん。貴女とは昨日話ましたよねぇ? 危険人物であったなら処分しましょうと」
「話しましたね。魔性の格好可愛さと鉄壁のガードは確かに危険でした。でもそれが何か問題あるのでしょうか?」
「え、本気でおっしゃってますかぁ?」
「危険かどうか、一日一緒に過ごして解らなかったからまだ様子見でした。まさかそんな事の説明が必要だとは思いも寄りませんでした。あと、今笹月はわたしに喧嘩を売っている真っ最中なのを自覚してほしいですね?」
「自覚してますよぉ? でも愛凪さんには、既に危険人物と認定されたと連絡をつけていた筈ですねぇ」
「自分の目で確かめます。上山田さんともそう話をつけた筈ですが?」
「笹月の上司はそんな事を認めていません。その上で上山田さんとも話はついてますよぉ」
「ならまだわたしに連絡を寄こさない上山田さんの失態ですね」
「でも、連絡があっても無視するでしょう?」
指摘されて、アメシスト色の瞳は不快そうに細められる。
百花が反論しない事を自身が言い負かしたとでも捉えたのか、話を打ち切るようにして顔は再びハジメへ向く。
「そういう訳でぇ、貴女の状況を理解した上で貴女を利用しようとして近づく愚者は罪に問われます。お解かりになりましたかぁ?」
貴女を守る為ですからぁ。耳障りでねっとりとした笹月の声が妙に通った。
「おっとお三方動かないでくださいねぇ? 厳密には動いてもいいですがぁ? 公務執行妨害などで動かぬ証拠をつくるのは面白くないですよねぇ? とくにぃ? 賄賂を贈った政治家の皆さんが総まとめで失脚したりすると困る人もいますよねぇ。とばっちりで、お家騒動に巻き込まれる人までいたりしないと、いいですねぇ」
露骨な脅しにズームォよりもフォーカードとルォシェンの二人が殺気立つ。
ズームォは表情を崩さないが、ルォシェンの顔は柳眉を逆立ててその目付きは悪鬼の如しであり、フォーカード老は鋭い目つきをより細めて、青筋を立ててにらんでいる。
巻き込まれてかなり迷惑な思いをしているだろう百花は何か考え事をするかのように人差し指で前髪をいじり始める。
嵐の前の静けさというイメージが、今の百花には良く似合った。
「さてさて甘咲さん。貴女にはダンジョン省からの監視が付きますぅ。もちろん、元の世界に帰っていただく為のサポートですよぉ? これに関してはゴーサインが出ています。付き纏われたと感じても殺したりせず、受け入れてくださいねぇ」
この男は、何がしたいのだろう。考察すればするほど、まるで解からなくなっていく。
「そして弓代さん。弓代さんはこの場で拘束させていただきます。甘咲さんに関わるなという忠告を無視し、連絡を取ろうとし、出来なかったら愛凪さんを頼る。罪深いですねぇ」
「ですって、シズヤさん」
「そりゃ困ったな」
本当に困るのだが、嫌がれば笹月が喜びそうだという理由だけで静夜は笑う。
そんな中でハジメだけが、本当に動揺して目を白黒させていた。それを見ると、なおの事静夜は今慌てふためく事はできないと自制心を働かせる。
「随分強がって余裕ぶっていらっしゃいますが? ……弓代さんには更生していただきますよぉ。それこそ、別人になるような更生プログラムをご用意いたしますからお楽しみにしていただきたいですねぇ」
「……へぇ、気前がいいじゃねぇか。増えすぎててそろそろ整理しねぇとと思ってたんだ」
笹月は、どこまで静夜を知っているのだろうと、不安の気持ちが鎌首をもたげる。隠してもいない情報であるが調べないと言えない言葉だってある。
別人になるような更生など、脅し文句としては覿面である。今まで、それが脅しに使えるような人物に出会った事がなかった。が、笹月の肩書ならば脅しが成立する。
それらの思考感情をおくびに出さずに静夜は笑う。そうされれば笹月も鼻で笑い返すのである。
「いいんですかぁ? 憑りついている有象無象、いなくなっちゃいますよぉ?」
「いいんじゃねぇの? 人生なんて他人に覗かれてねぇ方がいいに決まってらぁ」
「面白いですねぇ。どこまでその強がりが保てるんでしょうか? 笹月は弓代さんがどれになっても構わない。ええ匂坂以外になるならどれでもいいんですよぉ。この場で試しちゃいましょうか?」
「おい――わたしが笑っている内に口を閉じなさい? あまり調子に乗っているとその舌を二枚にしますよ」
静夜が怒るよりも先に、百花が鯉口を切りながら笹月を睨む。あまりの迫力に静夜は何も言えなくなってしまうのだった。
静夜は黙り、ズームォ一派も言葉を発せず、ハジメすらも固唾を飲む無言が支配するが、笹月は嗤う。
「んふっふっ。脅しても無駄ですよぉ。笹月は強いですからねぇ。簡単には死にませんよぉ?」
「では試しましょう」
「いやいや、やめておきましょうよぉ。意味の発生しない暴力は嫌いなんですよぉ」
若しかしたら本当に笹月は強いのかもしれない。この状況でそんな暢気な言葉を言えるのはよほどの強者か、深刻な馬鹿かのどちらかである。
百花の怒りは沸点の限界点にまで来てしまったようで険呑な目付きで、今にも切りかかりそうである。
「いやはや、面倒ごとはごめんですねぇ。ねぇ愛凪さん、笹月が死んだとして、この場にいる中で最弱の権力者である弓代さんがその分の罪まで被るという事は、連想できませんかぁ?」
眉を顰めたまま、柄から手を離さぬまま、ただ一息ついてギリギリで百花は動かない。
「暴力で解決しようなどと思ってはいけませんよぉ?」
暴れる事を望むかのように、笹月は言う。
「笹月も辛い立場です。まさかこんな役割を仰せつかるとは……まいっちゃいますねぇ」
ねっとりとした声。本音であっても嘘だと思わせる胡散臭さ。笹月という男はなぜこんなにも他人の神経を逆撫でしようとしているのか。悪意なくやっているのではないかとすら思う程、笹月は自信にあふれて言葉を発している。
「とまぁ、以上がこの度の通達事項です。何かご質問があればお答えしますよぉ?」
「これは君の独断専行だな?」
すかさず鋭い視線でズームォが切り出す。
今までかなり蔑ろにしていたズームォからの指摘に笹月はちょっと驚いた顔をした後に厭味ったらしい笑みを浮かべた。
「そんな訳ないじゃないですかぁ」
その返事を全く無視してズームォが続ける。
「法務省を介さずに異世界人の在留の可否を決める。その上で、魔導省が監視指定をしている弓代君を逮捕拘束しようとしている。明らかな越権だ。この件は正式にダンジョン省に抗議するつもりだ」
「ご自由に。仮に、その妄想が現実だったとして、だから何です? 一手遅い。横やりは入らない。入ろうにも間に合わない」
「間に合ったら?」
「別に困りません。危険な転移者は受け入れられない事は変わらないでしょうし? 笹月にデメリットはないですからねぇ」
「嘘吐きめ。君は今早く方をつけたくて仕方がない。ゴールは弓代君の逮捕。束縛。それを見せつけることで甘咲君に影響力を及ぼしたい違うかな?」
「それを確認してどうしたいんですかぁ? 甘咲さんの聞き分けが悪いから見せしめで弓代さんが逮捕される。裏も表もないでしょう? 貴方はここから何を導きだしたいんでしょうねぇ?」
面倒事に対応するように、面倒くさそうに、少し早口で笹月は答える。
目を細めたズームォが、振り返りもせずに背後に向けて声をあげる。
「ルォシェン?」
「通信は途絶。魔術面でも外界から隔離状態。現在、ここは簡易的な異界といって過言ではないわ」
「やはり、そしてなるほど。君は、今この場で決めてしまいたいんだろうな。だから脅す。可及的速やかに、畳みかける様に反撃されるのが嫌で仕方がない。何故嫌か……性格。ありえる。ターゲットにされている弓代君を陥れたい? 違う。君はいつでもできる。いつでもやる。甘咲君に希望を持たせたくない――これだ。甘咲君の思考を休ませたくない。落ち着かせる事なく心を追い詰めたい。追い詰めた結果……結果? 結果何になる?」
「んふっふっふっ。笹月も聞きたいところです。思い付きで話してませんかぁ?」
「まぁいい。フォーカード。この男とそこの有象無象達を黙らせられるか?」
ズームォが、老人に質問という形の命令を下す。
応える様に老人は指を鳴らし、獰猛な笑みを浮かべる。
「君が強いと認めたとして、ルォシェンとフォーカード。愛凪百花と甘咲君。四人を相手にできるかな?」
すわ、この場で小規模な戦争でも始まるのかという、そのタイミングで笹月は危険な老人ではなく、静夜を見るのだ。
そして言う。
「笹月は、時空魔法が上手いんですよねぇ。弓代さんは見たでしょう? 笹月が時空の彼方から本を取り出したのを。通信の途絶に魔術面の隔離? 甘いですよぉ。世界の分断をしていますとも。このホテルは今、笹月を中心とした幽世です。この場で笹月が今死んだら? 皆さん仲良くこのホテルで死ぬまで生きていくんでしょうねぇ? もっとも? 笹月は強いので後れを取りませんがねぇ」
笹月はそんな事を言ってニタニタと笑うのだ。
ズームォがルォシェンに視線を向けると小さく頷き、一言二言ズームォに耳打ちをした。
結果ズームォが忌々し気に右手を掲げて、爆発寸前の老人を制する。
どうやら、形勢は良くない状況になりつつある様である。静夜も舌打ちをして暴れてしまいたい気分である。
そんな中で、一番の当事者が次に声を上げる。
「いいかな?」
「どうぞ?」
「静夜君の逮捕を回避する方法はある?」
「ありません」
「……別人になるような更生って?」
「もとより弓代静夜という存在はこの世の爆弾の一つである。これはこの国、いや世界の懸案事項でした。なので、この機会に一番マシな転生者になっていただこうという意味ですですよぉ」
この言葉に静夜の背筋に寒いものが走る。悪寒――というよりも、静夜の体を虎視眈々と狙う異世界の精神体達が舌なめずりをしたような気がした。
「……元の静夜君が、いなくなるぞ?」
「ええ。でもまぁ殆ど貴女と同じですよぉ。大した問題はありません」
「そんな事をしたら、私、結構怒るよ」
「馴染みのない世界だから、壊してしまいますかぁ? それならお好きに、ご自由に。笹月はその程度で消える世界に未練はないので、本当にご自由に」
なにも、世界を壊すなどという大それた話ではなくても、言葉は枷になる。どうでもいい世界だから暴力で解決するのかという問いかけなのだ。
地団太を踏んで、駄々をこねて、暴れまわって、力で思い通り。その後を考えているのかという人間性の話しである。
それをどうでもいいと叫べれば、それは楽だがきっと彼女のアイデンティティの否定になる。自己否定を気軽にできるようなら、彼女は苦しんだりしないし、そもそも怒るなんて単語で脅したりもしないだろう。
「静夜君を逮捕するなんていうなら……義務とかいう監視を受け入れないよ?」
強い目でハジメが言う。
それを受けて笹月は少し驚いた風に目を見開き、ほぉ? と感嘆の声をあげ、そして首を振った。
「弱いですねぇ。受け入れないと駄々をこねてもこの監視社会においては限界があります。街中を歩くにしてもコンビニに行くにしても、或いはただ生きるにしても、必ず見られているんです。脅しではなく、求められるのは譲歩ですよぉ? そう、例えば、国の要請を受け入れるようにね」
おちょくっているか、馬鹿にしているのか、笹月はハジメを取り合わない。
本来ならば、警戒すべきはハジメが暴れだす事なのだろうに、まるで、そうなってくれた方がいいと言わんばかりの態度ですらある。
「いいよ。受け入れるよ。何をしてほしいんだい?」
ズームォに、安易に取引に応じるなと釘を刺されたばかりだと言うのに、覚悟を決めた様子のハジメは言う。
「おい」
「良いんだ。決断したから」
ハジメは強く覚悟を決めた目で静夜を黙らせる。
「では、その手続きをしましょう。良かったですねぇ。決断があと少し遅ければ、弓代さんは手遅れでしたよぉ?」
嬉々として言っているのに、なぜか、笹月の表情は面白くなさそうに見えた。
「この国の求める事は、貴女の退去。影響力を及ぼさない程の無力化ですよぉ? できますかぁ?」
「……するしかないんだろ? 元の世界に帰るのは望むところだよ」
苛立ちをかみ殺したようにハジメは言い返す。
笹月は、一転してねっとりとした笑みを浮かべる。
「と、言う事はぁ、笹月が差し上げた本の内容を実行するという事でよろしいでしょうかぁ?」
「……っ! そうだよ。帰る為なら、何でもするさ。ついでに皆が助けれるなんて好都合じゃないか」
「あの本、読んだのですよねぇ? もしかしてご興味が? 案外、貴女には適正があるかもしれませんよぉ? どうやら、魔性とやらもあるとかなんとか」
この場にいる全員に喧嘩を売った笹月が、調子に乗ったように言う。どうやらハジメを侮辱しているらしい。怒るべきハジメは屈辱に耐えきれず、少し泣きそうな雰囲気すら漂わせながらも気丈に睨み返す。隣の百花はすでに目付きが冷え切っている。こいつはもう殺すから感情を向けるだけ無駄だと、そういう感情が見て取れた。この状況は、静夜が口を出さざるをえないだろう。
「……お前さん、内容は知らねぇんじゃなかったのかい?」
「そんな事言いましたかね?」
笹月は惚ける。
ハジメが強く握った拳は震えている。
それを傍目にしつつ、静夜は嘆息をしてみせる。
「碌でもねぇ話なのぁ解かった。お前、ムカつくな」
「おや、おやおやおや? 良ーい目をしますねぇ。子犬が牙を剥いた様な心苦しさを感じますよぉ」
笹月が、サディスティックな表情を隠しきれずに表面に覗かせる。別に知りたくもなかった不快な一面を静夜はただ睨んで、威圧で返事をする。
「ですが残念。弓代さんがどれだけ凄んでも笹月は怖くないですしぃ? 弓代さんは誰かに助けてもらう以外に助かる道はないんですよぉ? ねぇ。貴女は解っていますよね。この世界で初めて出会った、貴女の事を親身に考えてくれる人を救えるのは、貴女だけですよぉ。甘咲ハジメさぁん……」
内容は知らない。聞いていない。そして予想もしない。
ただ、静夜は許せないし、許さない。
自分を出汁にして女を泣かせようといている。しかも、彼女が泣かない理由は、静夜を助けようとしての事だ。
それを許せるような生き方をしてきたのなら、静夜はとっくに静夜ではないどこかの誰かになっている。
「なるほど。んじゃ――。なぁ甘咲」
静夜は穏やかに笑ってハジメを見る。
「お前さんがせっかく頑張ってくれたけどな、何やったって、これから俺ァ逮捕されちまうらしいぜ?」
「え?」
笹月は、事を焦っている。間違いない。
あえて横やりは入らないなどと言うからには、入らない様に秘密裡に事を進めているのだろう。だが、それはつまり、横やりがはいったら破綻するという事に他ならない。
問題は、おそらく外部との連絡手段など無く、破綻は早々起こりえないという事なのだが、静夜にとって、それは本当に問題だろうか?
「一旦落ち着けって……な?」
そう言った直後。静夜の背中に生息する刺青が蠢いた。
世界の修復力によって毎日のように消滅寸前になり、その都度世界の悪意を吸い取り成長して消滅を逃れる刺青。
その見た目は弥勒菩薩に似た神々しさを持つものだ。
静夜が多くの公衆浴場に行けなくなってしまった原因であり、一番静夜がいらないと思っている存在であった。
――そもそも、世界中の悪意を食い物にするだけの存在なんて、静夜にはピンとこないのだ。
――この世にある憎悪の半分。
――この世にある哀しみの半分。
せめてそれだけでいいからこの世界を救いたい。願い。体現する異世界人。
かつての世界では裏切られたという話だ。世の中を憎んだ事もあるが、それを乗り越え、今は救世を願う。そんな異質な異世界人の精神体。静夜の体を手に入れたのなら、それが叶うという。
幸いなことに静夜と共存しようとしているらしい。不可能な事こそ、出来る事だと考えて。
大人しく、小さく、普段は息を潜めている。
しかしだから、静夜が人に対して殺意と憎しみを抱いた上で、お前の好きにしていいぞと許可を与えると嘆きだす。
どんなに願っても集めきれないと悔しがる。
暴れまわるように悔しがる。
ただ、そうなる。
静夜には見えないが、それはもう暴れまわる。
世界中の不幸を集めようとして、それが出来ないからといって手当たり次第に何かを集める。自分では食えないような、あたり一面の得体のしれない何かすら呼びつけるのだ。
ああああああああああああああああああああああああああああああああ!
静夜にはそうとしか表現できない何者かの絶叫が聞こえた気がした。小さくかすれた空耳にしか思えないが、
その不吉は、フォーカードにも百花にも臆することなく笑っていた笹月すらもが真顔になるほどだ。
「……これだけなんだよなぁ。こいつ。実は何かから嫌われる為だけ呪いとかじゃねぇの?」
それ以上の事が起きないままに、静夜の背中の気配が静まっていく。
もしかしたら、何か恐ろしい物を集めたのかもしれないが、何も変化を感じない静夜にしてみればなんて事のない現象だ。
それでも、この場の誰もが動けないのだ。この現象を起こした静夜以外。
体中を支配する悪寒にはなれたもので、だからこそこの状況でも十全に動けた。
もう一つ、威圧ではなくて暴力を用意する事が、静夜にはできる。
「この中で、一番強い奴。指輪一つ用意するぜ? 強いもん勝ちだ。暴れろよ?」
静夜には見えない。
悪霊だろうが、怨霊だろうが、悪魔も神も、奴等が創り出した厄災共も、見えないからいないも同じ。
しかし確実に居る。背中の仏が呼び寄せたのだから確実に居る。
笹月が閉鎖した筈の魔法的な空間をこじ開けて、綻びを無理矢理作って、隙間を広げつつこの場にやってくる。それができる物がやってきている。
そして、静夜は史上最高の転生者が入る予定である完璧な素体である。
二つの条件がこの場で揃い、最後に静夜が言葉を添えるとどうなるか。
静夜は知らない。しかし何かが起こる事は知っていた。
空気ではない何かが――破裂した。
「――……やってくれましたねぇ……」
「うっわ、顔色わりぃぜ? 何かとんでもねぇ事でもあったのかい?」
へらっと笑うのは静夜のみ。
ザザザーッ……、雨が降る様に、砕け散ったシャンデリアが粉になって舞い落ちる。
笹月の背後にあった壁一面に亀裂が入る。
刀傷や、弾痕、鈍器でたたき砕いた様な跡。笹月の頬には小さな擦り傷、髪の毛が数本はらはらと。
周囲では笹月が連れてきた警察官が全員俯き、高級な絨毯の上に吐しゃ物をぶちまけている。
「こんだけやるとよ。お偉いさんが大騒ぎすんだ。んで、いろんな奴等が俺んところに駆けつけてよ? そりゃもう滅茶苦茶怒られるんだぜ?」
薄く笑って、お前も一緒に怒られようぜ。とねっとりと視線を絡ませる。
初めて露骨に表情を歪めた笹月に静夜は多少留飲を下げる。
「これで何がどうなったって俺ァ逮捕されちまうな。けど、お前さんが逮捕するんじゃねぇ。お前さんが連れてっても、きっと横やりが入るぜ? なんだっけなぁ。そうそう、思い通りにならなくてざまぁみやがれって奴だ」
言葉を言い放った瞬間に、笹月がぎろりと睨んだかと思えば。その裏拳が静夜の顎を捉え、奥歯を圧し折るほどの殴打を繰り出していた。
「いやいや、笹月の神経をこうも逆撫でするとは流石です。奴らに逆らい続けているだけの事はあります。その腹立たしさ、笹月は本当に評価してますよぉ?」
「そりゃありがとよ」
微塵でも笑みを崩したら敗北だと知っている静夜は汗一つ掻かない。口の中は引き抜かれた臼歯が転がり、血が溢れ、そして生え揃うサイクルが始っている。痛みは残り、嫌悪は高まる。
声が上ずらないように肚を据えて、びっくりした表情で二人の様子を窺っていたハジメに声をかける。
「なぁ甘咲?」
「う……うん?」
「こんなことが出来ちまう俺が簡単に違うやつになると思うかい?」
なんて格好をつけてハジメに聞くが、実はもうさっきの様な事はしばらくできない。
背中の蠢く観音の刺青は、一度これをすると、力尽きるのか、満足してしまうのか、数か月単位で使えなくなる。そんな事情をハジメに話すつもりもなく、いかにもまだまだこれが使えると見せかけていた。
「でもわからないじゃないか……」
「大丈夫だよ。心配すんなって」
集めに集めた異世界の精神体達は、世界の修復力とすら拮抗する。依り代のアクセサリーがなくともそう簡単に静夜の体を諦めない。
これを簡単に除去できるとは思わないで欲しい。
静夜に敵対的な笹月にも。友好的なハジメにも。
「甘咲は自由にしていいんだ。俺は俺で、俺のこたぁ何とでもできるんだからよ」
へらっと笑ってみせて、ハジメは驚いたように言葉に詰まる。
「自由にしてもらったら、困るんですがねぇ……とはいえ、枷を与えられなくなっては……」
笹月が溜息を浅くため息を吐く。
笹月の視線は静夜ではなく、ハジメに向けられているようだった。獲物を横取りされた猛獣を彷彿とさせる目付きは、表情と裏腹で視線を向けられていない静夜が恐怖を覚える程である。
「……まぁいいです。目的は果たせましたから。はい、そこの君達、いつまでへばっているんですかぁ? 笹月は帰りますが、弓代さんが逃げたりしない様に監視しておくんですよ? ああ九尾も愛凪も、これを邪魔したら流石に全力で潰しますからねぇ? それと、貴方達が甘咲ハジメさんに関わる度に、必ずペナルティを科しますのでそのおつもりでいてくださいねぇ」
では。
そう言って笹月は砕けたガラスを踏みにじりながらラウンジから出て行った。
その去り際すらも、しっかりとハジメの心に楔を残していなくなったのだった。
「やりたい放題の代償であるここの立替はわたしがしておきましょう……勿論取り立てますよ?」
百花が面白がるように言い放つ。格好がつかねぇなぁと静夜は苦笑いしたのだった。




