未来シコウのチートデータガール 79
そうして向こうの空間の切れ目から、ハジメの指が現れて、顔が生えてくる。
ハジメが辿り着いたのは、どこかの学校の様なところだった。
廃校だろうか? 寂れた様な雰囲気を感じ取るモルタルの建物だった。
――右。左。上下。敵対的魔力は、今は感じない。
時空の切れ目から身体を全て通り抜けさせて、ハジメは足をつく。
「……使える」
顔の右隣りに光の玉を浮かせてみるが、先ほどまでのように立方体の結晶に置換されたりしない。
ここはどうやら鬱船が作った空間ではないようである。
それだけで大きな関門を突破したような気になってしまうのは仕方ないことだろう。
一安心したところで、未知の空間に来たので再び魔法で空間把握をしたくなるが、ここに来るまでに張り切り過ぎてしまった自覚がある。今この場所で先ほどと同じ感覚で魔力を消費しようものならブラックアウトは間逃れないだろう。
それに今だって無理に亀裂を広げたために指先がズタボロになって神経は寸断されているのだ。回復にだってそれなりに魔力を消費している。
泣き言は言っていられないが、湯水のように魔法を使うのは悪手だろう。
魔力は猛烈な速度で回復しているのが感覚として解かるが、使った魔力の総量が多すぎたせいでいつ不足が補われるかは想像出来なかった。焦る気持ちがここで無茶をせずにいつ無茶をするのだと叱咤してくるが、これ以上余計な負担を体に強いるのは避けたい。
少なくともこの先に待ち受けているものがいると思っているうちは、無駄遣いをしたくなかった。
仕方なしに古びて寒々しい校舎の中を歩き出す。
魔法は省エネとして、ならば神経を尖らせて殺気や気配だけを感じ取るように意識する。
肌で感じ取る周囲の気配もハジメなら判断材料とすることができる。
当たり一面、肌で感じる空気は酷く寒々しく、耳が異常を起こしそうな無音だ。
季節は夏で、汗を掻くほどの気温である筈なのに、寒気がする。空気が奇妙に澄んでいて、きっとここには微生物すら含めてあらゆる生物はいないのだと思わせる死滅の雰囲気がハジメの五感を撫でてくる。
ただ、それだけに、ここの生命の気配は酷く異質なものになるだろう。
『皆さん、下校時刻となりました。在校生徒は速やかに帰宅してください。今日の出口は東門となります』
校内放送だろうか?
擦れた女性の声が天井のスピーカーから流れた。
心の根幹に蜘蛛の巣を絡みつけるような、不快と悍ましさを込めた声で、長く聞いていたら気が狂いそうだとすら思う程の不和を感じた。
それは兎も角、廃校だと感じたのだがそれは違うらしい。ここに通う生徒がいるというなら、前提が間違いだろう。
しかし露骨な偏見になるが、あの声が校内放送で流れる学校は絶対にまともではないだろう。
あんな正気を失いそうな声が定期的に流れる学校の生徒は果たして生物なのだろうか。マホレコの世界に酷似しているからには、あるいは生徒なる物は人ではない何かの可能性もあり得るだろう。
ホラー映画の様に、球体人形が生徒役でも驚かない自信があった。
それは兎も角、鬱船である。
おそらくはこの空間にいるだろうあの男を無力化すれば百花を救えるかもしれない。
無力化とは――何もオブラートに包まなければ殺してしまうという可能性を含むことになる。果たしてそれができるかといえば、実は自信がないのだが……百花の命がかかっているのならば、覚悟を決めなくてはいけないのかもしれない。
人を殺したくないという気持ちは異世界に来たからと言ってなくなる訳ではない。百花と鬱船を天秤に掛けるまでもない。どちらかが死ぬなら鬱船しか考えられない。
こんな選択を迫られていることに酷いストレスを感じる。この場で叫び声を上げて暴れてしまいたいほどだ。こんな気持ちになるのは、この世界に擦れていないからなのか、もとの世界が平和過ぎたのか。これが平和ボケという事なのだろうか?
しかし平和ボケと馬鹿にしてくる馬鹿に言いたい。平和にボケられないような野蛮な世界で生きている事を誇らないで欲しいと。
ハジメは出来る事ならこんなに追い詰められても人殺しの決意などしたくもないのだから。
忸怩たる思いで歩を進めていると、徐々に変化が表れ始めた。
「……そっちか」
鬱船本人を見つけた訳ではない。しかしその存在の可能性を見つけた。あの蝶が何匹もいて、道しるべのになるかのように進行方向に向かって増えてく。飛び立たず、ただ羽を休めているように見える。進んだら背後を塞がれるという罠かもしれない。可能性を考えるが、だが進まない訳にも行かない。
決意した時には走りだしている。廊下を走るなという朽ちた張り紙が風にたなびく。誰にも止められない程の速度で全力疾走。迷うことなく蝶の多い方へと全力疾走を開始する。
そしてやはりというべきか――蝶は飛び立つ。ハジメに気づいたかのようにして向かってひらりと舞ってくるが、予測済みだったハジメならば当然躱せる。
半身を翻し、次にしゃがみ、軽く跳べばムーンサルトの様に宙を舞う。蝶を眼下に飛び越えて、この時点で自分が思いの外高く跳んでいた事に気が付いて、天井を蹴って軌道を下方に修正する。
床に足が付くと同時、トンっと弾むように前に飛んで追いすがる蝶をやり過ごす。
蝶の群れがいったん途切れてハジメは振り返る。
触れる筈だったハジメを見失ってか、蝶はどこにとまるでもなくヒラヒラと右へ左へとさまよっていた。
本来なら観察している時間も勿体ないが、この現状の原因となった可能性がある蝶を全く無視するのもまた恐ろしい。
蝶の動きは、一切着地をしない事を除けば不自然なものではない。ただ、見た目が少し変わっていた。ここに来る前に見た蝶は赤い差し色の羽をもっていたが、それが今は青色を帯びている。どういう変化で、何が違うのかは解らないが、百花の様に触れるつもりはなかった。そもそも、虫はそんなに好きじゃないし、鬱船が作ったものだと思うと触れるのは尚更避けたかった。
ハジメが近寄らなければ向こうからも寄ってこないという事もないらしく、少しずつ、ハジメに吸い寄せられるように向きを変えた蝶たちは、ゆっくりとその距離を詰め始めた。
本能的にハジメに引き寄せられているようで、それの様子はやはり不気味と表現して間違いなかった。
観察の視線を切ってハジメは先に進みだす。
蝶が追いすがってもハジメの背に届く事はなさそうだし、関わる事もないなら観察よりも今はしなければならない事がある。背後が気になる気持ちをすっぱりと切り捨てて、増え続ける蝶の間を縫うように駆け抜ける。
少々躱しきるのも大変になってきて、回復してきた魔力の量も考慮してを使って進行方向直線上の蝶に向かって焼き払う。
が、しかし焼き払った後に現れたのは先程よりも更に多くの、どこから湧いたかも不明な蝶だった。
思わずたじろぎ、振り返れば、そこにはやはり、復活した蝶が隙間なく飛んでいた。
これは戻る方がよほど危険である。
復活の速度は理解しているつもりだったが、量を見誤っていた。こんなに蝶を用意できるとは思っていなかったのだ。大量の蝶の具現化は、鬱船の負担になるのだろうと勝手に思っていた。そうでなければ今までなぜ蝶の量を絞っていたかが解らなくなるから。
また魔法で焼き払うべきか。
これではコストパフォーマンスが悪すぎる。最悪探し回っている内に魔力が切れてしまうだろう。頭痛も吐き気も鼻血も許容するが、それでも意識が途絶える様な事態が起きたら目も当てられない。
「ああやっぱりクソゲー……」
何が何でもハジメに触れて、百花に起きた不幸の二の舞を起こす機会を窺っているのだろう。
このままではジリ貧である。自覚して、がむしゃらに動きたくなる気持ちを落ち着かせる為に深呼吸。傍目からは嘆息にも見えただろう。
走りながらの、瞬きの間の瞑想が、ハジメの内面世界を引き延ばす。
まるでゲーム内のメニューを開いて一時停止をして、装備やステータスをいじるかのように、内省の時間は極限まで引き延ばされていた。目まぐるしく思考が言語と映像でまとめられていく、処理され、瞬きの間にハジメの思考はクリアになっていた。
この場で、最適な魔法を最速で作る。
そうと決めた。
「……行ける」
始めの一歩は軽やかに飛ぶようだった。
踏み出せば必ず一匹とは触れてしまいそうな蝶の群れの中を進む。肌に触れそうになった蝶は、その僅か数ミリ手前で燃え上がる。
体の中に魔力を巡らせて身体強化ができて、それを保つことができるなら、皮膚のすぐ下に魔力を敷く事も出来ると思い至ったのだ。結果、皮膚に魔力が近づいたら自動的に迎撃するように魔法を作った。微弱な魔力に反応して誘蛾灯の様に露払い。
これによって接触前に蝶は灰燼となり、空気に溶けるような光の粒子になって消えていく。再び復活しようとも再び触れれば塵となる。駆け抜けるだけならば一切問題がない。前方で復活されるのと後方で復活されるのでは訳が違った。
ハジメが走れば光の粒子がたなびく。
そうして二度ほど角を曲がり、蝶に導かれるようにしてハジメは更に走り、周囲の様子が変化してきた。
まずは臭いに始まり、そして次々と。
焦げた臭い、血の臭い。生臭い。
内臓の中身が撒き捨てられた色覚、転がる人の死体。
ひびが入り始める床。まもなく通路は割れて、穴が開き、そしてついには崩落した部分が目立ち始める。
覗き込むことすら危ぶまれる程の悪路を抜ける。
生々しい血の臭いと、人間の温度がなくなる冷めた空気から織りなされるのが死の臭い。
これが体中を這い登って嗅覚に絡んで吐きそうだった。
でも関係ない。
今は関係ないのだ。
手を差し伸べても、死体は生き返らない。
どこかのセーブポイントでリスポーンもしない。
だから進むのだ。
そこの階段を、上るのだ。
その時――ぞわり。
強烈な悪寒を誘う予感に、ハジメは立ち止まる。
この先に行ったらどうなる物か。それを恐怖するような感覚がハジメの足を留める。
死体まで無視して乗り越えてきたというのに、どうしても前に進む足が重く、踏み出す事が出来なかった。
それはただの想像の筈だ。
幻覚ですらないはずだ。
だが、確かに脳内にフラッシュしたのだ。
白く、長い、半透明の触手。太さはハジメの腕程、その長さは何十メートルもある巨大な芋虫。この悍ましい物の群れが立ちはだかる。そんなこの世の物とは思えないものが、凄まじくリアルに幻視された。上手に息ができなくなるような恐ろしさに心も体も縮こまる。
びっしょりと、冷や汗で額が濡れる。
腕も首筋も酷い蕁麻疹が浮き上がっていた。もしも触れたらそうなるのだと言う風に。
果たしてあれは幻覚だろうか? だとしてさっきの幻はなんだ? ハジメの防衛本能が見せた、ここから先に進まない為の幻だろうか? それとも予測できる最悪の未来の暗喩? だとしてそれは、狂気の象徴? あるいは羽化する前の蝶? 一瞬視線を舞っている蝶に向かうが、サイズが明らかに違う。様々な関連性を思い浮かべては否定し、無為に立ち止まる自分を理解しつつも、やはり前に進めなかった。
仮にあれが、さっきのあの恐ろしい蠢く物が、本当に見た物だとして……。
なんにしても今更怖気づく理由などあるのかと、自分を鼓舞する。
あと一歩。たった一歩踏み出せば、恐怖を克服してまた進めるに違いない。
叫びたい気持ちすらあるが声もでない。息も詰まっている。
そうして時間にして数十秒。一歩踏み出すのに戸惑った。それだけだった。結局汗を噴き出しつつも、こんな所でとどまるのは未来の後悔を生むだけだとハジメは意地で進みだす。しかし再び進みだすまでの短い時間の間に、肩にとまった蝶の存在にハジメは気が付けなかった。
例えば蝶が光になって空気に溶けたら、その空気に触れても運気は変わるとか、それが呼び水となって結局最後には蝶からは逃げられないなどと、そんな事に気が付けなかったのは何が悪かったのか。
溶ける砂糖の様に消えていく蝶の気配に一度振り返る。けれどそこにはもう何もない。
気が付けば、もう蝶はいなかった。
あれほど恐ろしいと思った蟲の幻覚も、脳裏をよぎらない。
不思議と恐怖心も収まっていた。
この先にいる。そして静夜もきっといる気がする。二人がいる理由なんて、きっとあの異世界人絶対ぶっ殺すマンが静夜にウザ絡みしているからに違いない。
静夜がいることも、絡まれているだろうことも、言語化しにくい直感的な理由ではあるけれど、そんな確信があった。
そして、どういう訳か……。
『んふ……』
廊下の天井のスピーカーから、神経を逆撫でする声がしているのを、確かに聞いた。




