未来シコウのチートデータガール 76
三階から一階へ。
ほとんどの人間はこの自由落下で死ぬ。
運が良ければ、怪我で済むのだが、その怪我にしたって病院に運び込まれるような物となる。
それを殆ど無傷でやり過ごせるのが鬱船カフクという男である。
飛び出した鉄骨に服が引っかかり、勢いが弱くなり、落下の角度が変わり、斜めに聳える瓦礫の平面を転がり、鬱船は静夜の目前へとたどり着く。
落下でのダメージはほぼない。だが、鬱船は死にかけていた。
右胸に風穴があき、夥しい量の血が空気の出入りで泡立つ。落下があろうがなかろうが、鬱船の命は風前の灯火であった。
静夜も同じく体に穴が開いたが、鬱船程の絶望感はなかった。
静夜の傷は相変わらず治りが遅い。この状況でも鬱船は静夜への妨害の手を緩めていなかった。
好き嫌いは別として、その執念は本物と認めなければならないだろう。
執念深い鬱船は、荒く短い呼吸を必死に行いながらも、どんな奇跡を駆使したのか、立ち上がる。
立ち上がり、ふらつき、擦り付ける様にして、そこにあった鼠色のロッカーに寄りかかる。
その魯鈍な動きは、静夜が動ける程に回復していたのなら、必ず仕留めていただろうと言えるほどだ。
苦しそうに、呻き声を上げた鬱船はロッカーに寄りかかったまま静夜に語り掛け始める。
「なるほど……。これは痛いものである……な。やはり、中途半端はいけない……。一撃で殺すに……限るものだ」
「どんな方法だろうと殺されたかねぇよ。殺し方にこだわる奴に、碌な奴ぁいねぇ」
遅いと言えども静夜の回復は止まらない。もはやはっきりと喋れるようになったし、立ち上がる事も出来るようになった。首の傷もケロイド状になり、やがてきれいに消えるだろう。潰れた内臓は、きっと気付かない内に治っていく。
あれだけ周囲を飛び交っていた蝶は殆どいない。
鬱船の周りを飛んでいた青と黒の蝶は、もはや皆無だ。
残るは、静夜を囲むように、羽を休めて僅かに群れる赤と黒のみ。
「……涙、まで、ふぅ、涙まで、出てきた。断言、しようじゃないか。これを受け続けて、心も折れず、立ち向かう、君は……正気じゃ、ない」
「うっせぇよ。狂えねぇだけだ」
「違う、違うのである。気が狂えないのは解っている。のである。逃げないのが、投げ出さないのが、正気じゃない。のであるな」
ずる、ずる、と、やはり立っているのが辛いのだろう、背にしたロッカーの鉄板に、血をなすりつけて姿勢を直している。
酷い喘鳴を声にしている様だった。
どうにか、見栄えを保つのが精いっぱいにすら見える。
ついに静夜の回復を遅らせる事すらできなくなっているのだから、これはもうさすがに静夜の勝ちだろうと、そう思う。
先程の鬱船の台詞ではないが、苦しませて殺すというのは趣味ではないし、時間を掛ければそれだけ鬱船に反撃のチャンスを生む事になる。だから、万全に戻った静夜は鬱船への介錯をする事を決める。
さんざん煮え湯を飲まされたからか、手の中の折れた刃は、心なしか冷たさを増した。
まだ、蝶の群れがいるのにも関わらず、静夜に不幸は降り注がない。
勝負はついた。
そう思って一歩踏み出した所で瓦礫の中に隠れていた鉄釘が、靴の裏を貫き、足の甲を貫いた。痛みに顔を顰めるが、今までの苛烈な攻撃に比べれば、なんとささやかな事か。
足の甲から先が切断もされないし、その場に留める様な、カエシもない。少し気合を入れて、引き抜けば数秒の内に元通りになる程度の、殆ど時間稼ぎにもならない妨害だ。
――これだから殺し合いは好きじゃない。
静夜が諦めずに逃げずに戦い続ければ、相当な実力差があっても当然生き残るのは静夜になってしまうのだから。
「諦めがわりぃ奴……だ……あ、ん?」
この程度の足止めは無意味だとはっきりしている状況で、しかし静夜の体は動かなくなった。
「……っな、ん……なっ?」
これから転倒する事。体を動かすための何かが致命的に機能不全を起こしているのだという事。鬱船はまだ全く諦めずに静夜を殺そうと思っている事。全てが理解できた。足が折れても動けるが、神経がないから動けない。そんな状況が起きている。具体的には、体中の血液が猛毒に入れ替わったかのような。その猛毒が神経を蝕んでいるかのような。
把握したところで、体は思うように動かない。舌がしびれて、呼吸ができなる。
空気が出入りしないのに、肺や胃に血は溜まり、それだけが吐き出されていくという状態で、間違いなく静夜でなければこのまま時を待たずに死ぬ事になるだろう。
そして静夜も体中の猛毒の無力化は追いつかず、生かさず殺されず、無様にはいつくばっていた。
「心当たりは……あるだろう? ……キノコの毒の中には、摂取から数日後、時には十日以上の後……に、再び殺しにかかる……物があるのだ。それは、それを再現するものだそうだ。よ。なるほど、恐ろ、しい、効果である」
息も絶え絶えに、鬱船が語る。酸欠になった人間の様に、或いは高熱に魘された様な声音である。
「認める、しかないのである。手酷いしっぺ返しを受けた、ものだ。認める、とも。君を、小生はきちんと、警戒している筈だった……で、あるのに、この様だ。笑ってくれ……ふふっ、ふ……」
自嘲して笑う鬱船だが、静夜はそれに構っていられない。回復する傍から内臓が壊死していくのを実感しているのだ。苦痛の中で
凄絶な目で鬱船は見下ろし、静夜の体の周りには、いまだかつて無い程の量の黒と赤の蝶が集まっていた。その蝶が静夜に触れては空気にホロホロとほどけていき、赤黒い光へと変わる。
常に蝶が触れて光となる様子は傍から見れば静夜が空気に溶けだしているかの様な光景であっただろう。
「小生が死ぬ前に……残せるのは、君を、残さない事だけである……」
もはや自分への気遣いをかなぐり捨てた様に、鬱船は呟く。
おそらく身動ぎ一つすればそれが苦痛になるのだろう。呼吸は浅く、ロッカーに体を押し付ける様にして姿勢を固定していた。
そして静夜は未だに神経と内臓が壊死しし続けて、あらゆる行動が不可能である。
お互い動けない状況で、視線すら交わさずにいる。
ただ、殺意という物が視覚化出来るのならば、きっと互いに強烈に意識しあっているのが解かるだろう。
鬱船は言わずもがな、静夜は動けない自分に苛立ち、苦しめられている現状に激怒し、そして呪詛の様に死を呼ぶアナウンスを心待ちにしていた。
アナウンスさえ流れれば、鬱船にもはや防ぐ手段はない。静夜もダメージを負うが、鬱船が最後の一人の敵であるならば、ここでどれだけ叩きのめされても構わない。
ここから出た後、もしかしたら後詰の殺し屋が襲ってくるかもしれないが、いくら何でも、この場の戦闘に参加していないような、情報共有をしてない奴等が即座に行動できるとは思いたくない。
だから、この場をしのげば、少なくとも希望は見いだせるのだ。
残り四つとなったアクセサリーは少々心もとないが。
しかしアナウンスは流れない。希望通りの事は、起きてくれない。
口から、鼻から、目から耳から。どす黒い血が垂れ流される。見えない所からもそれは流れる。
静夜の体調が落ち込み続ける一方で、鬱船は意を決したようにロッカーから背を離す。
粘性の強くなった血がロッカーと鬱船の間にブリッジを作り、ぷつんと切れる。
「……まだ、異世界人ではない君を、わざわざ異世界人にして殺すのは、実のところ気が進まないのであるが」
この異常なナショナリズムを持つ男は、静夜の体を異世界の精神体を乗り移らせて、その上で勝つつもりでいる。
死に体だと言うのにまだ切り札を隠しているということだろうか……。
「泣きそうな顔をしているであるな……勝てるつもりなどないのである。ただ、転生者をどれにするかは、小生でなければ出来ない事だ」
おぼつかない足取りで、二度三度右へ左へと頭を揺らす。
致命傷を負う事に掛けては他の追随を許さない静夜だから判るが、鬱船の傷は、生きているのが不思議な程の深手である。
静夜の元へ辿り着くまであと数秒。静夜からアクセサリー回収するまでに、もう少し。それまでに後一回、アナウンスがあり、その効果が間に合えば、鬱船は完全に倒れるだろう。
祈る事しかできないが、その可能性に掛けるだけの意味はある。……そしてその時はすぐに訪れる。
『皆さん――』
びくりとなり、鬱船の足が思わず止まる。
だがしかし、思い通りにならないのは世の常で。
ザッ、ザザザー……――
『下校時刻となりました。在校生徒は速やかに帰宅してください。今日の出口は東門となります』
放送が、変化した。
その変化は紫鏡からの脱出条件を満たした時に起こるものであった。
絶望的な事に鬱船の他にも誰かいて、そしてもうアナウンスは流れない事を表していた。
「……」
結果、静夜は絶句する。
体を蝕む苦悶すら薄れて、焦燥と絶望に意識の大半が占められる事になる。
「なる、ほど……。脱出方法は解ったが……今更であるな」
鬱船は脂汗を掻き、安堵と自嘲を混ぜて苦笑いを見せる。
「まだ転生していない君を倒すために全てを掛けてしまったよ。能力も……小生の命も。お陰で、ハァ……あの哀れな娘に使っていた蝶まで全て……全、て? 何故全てがここにいる!?」
鬱船が唐突に狼狽して嘆いた。
その嘆きの意味など静夜には解らないが、鬱船は気付きたくない事に気が付いたという事はあからさまに伝わってきた。
「どういう事だ。なぜ……あの娘に憑いていた蝶が、こんなにも早く、小生の元に来る……?」
その声は酷く動揺しているようであった。
芋虫の様な格好のまま、苦痛をおしてその様子を確認する。圧倒的優位に立ったにもかかわらず何をそこまで動揺しているのだろうか。失血による譫妄状態? いや違う。何か己の失敗に気が付いた時にこそ出るような、強烈な驚愕によって静夜を忘れて内省をせずにはいられないような態度である。
「……もとから、あの娘には憑いていなかった……のか? ついて、いたのは、あの剣士の娘? あの剣士が異世界の血筋……? だとしたら、だとしたらまさか……小生は、誰を不幸にしようとしていた?」
「……なんでぇ。情けねぇ声出してやがるじゃねぇかい。今頃になって悔い改めたかい?」
なんだか知らないが激しく動揺しているのだ、これを機に更に冷静さを失ってくれれば少しは事態が好転するかもしれない。そんな自棄な気持ちで煽る。
すると予想以上に反応した鬱船は、仄暗い瞳に強い感情を込めて静夜を見下ろした。
「君は、君は解っていない! 解かる訳が、ない! 蝶だけだ……蝶だけが解かっていた。小生の間違いを解っていた!」
あまりの剣幕に、静夜は何も反応が出来ない。
「――小生は、誰を殺そうとしていたのであるかっ! 寄ってたかって、命を懸けてまで! 何の片棒を担がされていたのだっ!」
もはや錯乱と言っても過言ではない。鬱船は捲し立て、更には叫びだす。
「聞こえているのだろうっ! 聴いているのだろう! これはいったいどういう事であるかっ! 小生をいつのまに騙したのか! ――ごっほっ」
天井に向かって叫び声をあげ、最後に血を吐き、鬱船は膝をついた。
ただでさえ失血が激しい中で興奮して叫んだからか、それともとんでもない絶望に体が脱力してしまったのか。一気に老けたようにすら見える鬱船だが、声だけは力強かった。
「……答えないか。答えないのか。ならば――」
視線が再び静夜へ戻る。
その眼には狂気が宿り、風穴の空いた鎖骨の痛みすら忘れたかのようである。
それとも、命を燃やしてでも言わなければならないような事を言おうとしているのか。
「――死にゆく小生に出来るのは嫌がらせのみになってしまうのであるよ?」
そう言う鬱船。
意味を探ろうと苦痛の中に思考を巡らせるが、答えに辿り着く前に事象がおこった。
静夜の体にとりついては光に生まれ変わり続けていた赤と黒の蝶が消えたのだ。
それによって静夜の体は途端に回復を始め、体に空いていた傷も塞がり、内臓が壊死し続けた事による悪心も引いて行く。最悪から肉体は最高へ。快楽すら覚えそうなほどに体は快調に向かっていく。これはむしろ回復が促されているかのような状況だと言えた。
あっという間に、治るとこれまでの鬱憤を晴らすように静夜の体が動く。
跳ね起きると刃が体を操り暴れようとする。
へたり込んだ鬱船の頭頂部へと叩き込まれそうになり――。
「なんのつもりであるか?」
「こっちの台詞だよ」
あわや鬱船の命を叩き潰すというその寸前で、静夜は体の主導権を自分の物とし、その動きをとめていた。そして交わされたのはこの会話である。
「小生は騙されていた……ならばこれを取り返すべくに、手を打っただけの話である」
「こんな状況だ、話せねぇなんざ言わせねぇぞ?」
脅しになるかもわからないが、切っ先は鬱船の頭に突き付けられたままにして静夜は凄む。
流石にこの状況でただの脅しなどと思う相手でもないだろうが……。
「小生は……長くない。話す――いや、話すべきである、か」
喘鳴に血が混じる鬱船は、自分の思想を語る時と同じような狂気の濃い目で静夜を見つめ返す。
「……小生は間違えていたのである。あの娘は……転移者ではないのだ」
「あん?」
世を儚むような辛気臭い灰色の瞳が、憔悴したように鈍く輝く。座り込んで息も荒い鬱船が僅かに見上げるその姿は、静夜に懺悔しているかのように見えた。
「いや、転移者でもなければ、転生者でも、ないのだ」
「……パラレルワールドから来たって話か?」
まさかという思いが強いが……。と思って聞くが鬱船にはもう静夜の声が届いていないようだった。
「小生は、小生は……異世界人以外に害をなした事は、なかったのだがね……」
……それ、俺ァどうなるんだい? そんな事を思うのだが、静夜が力尽きた時には異世界人の仲間入りなのだから鬱船の基準からしたら許容範囲なのだろう。
そもそもハジメが転移者ではないなどと、その確信はどこから来たのだろうか?
「……ああ、もうふらふらであるな。ふっふふ。ありったけを使ってしまったから……な」
出血の量はおそらく致命傷レベル。運よく傷がこれ以上悪化せず、運よくここから出て、そして運よく腕の良い医者にでも見てもらわない限りは助からないだろう。それを捨てたと暗に言った鬱船は、助かるつもりなど無いのだと、そう解かる。
自分の思想に反する事をしてしまったと確信する男は、死に瀕して思考が不気味な固執を起こしているようだった。
「あと、あとできる事はなんであるか……せめて、なにか……いや、いやあるな」
そんな妄執の男が、はたと思いついたように静夜の顔を見る。視線に焦点が伴い、静夜の顔をはっきりと見る。
「君が、転生者にならなければ、それで……そして彼女の希望――」
パチン。
フィンガースナップの音と、鬱船の心臓部分が四角く切り取られ、この世界からなくなるのは同時だった。
「これがあるから貴方はここで始末されるんですよねぇ」
ねっとりとした声がして。
はたと気付けば静夜の周りにはガラス板の様な壁が生まれていた。
そうすれば外からの音は急激に遠くなる。
「それにしてもですねぇ……」
鬱船の死体が血を吹き出しながら、後ろへと倒れて。
噴出した血が、真っ赤で小さな箱に閉じ込められて宙を舞い、空気に溶けていく光景が繰り広げられる。
「ほんっとうに、弓代さんはなんなんでしょうねぇ。この笹月を異空間に誘うなんて、もしかして笹月の事、好きなんですかぁ?」
その向こうから笹月がゆっくり歩いてきた。




