今川館勘定所1
黙々と筆を走らせる。
もともと、刀よりも書物を好む一朗太にとって、苦ではない。
任官当初は雑音も聞こえたが、十日もする頃にはそれも下火になった。
武士にとって、家門の衰退は珍しいことではない。
同じように机を並べる同僚たちの中にも、かつては大身だったという名家の者もいる。
その中に紛れると、惨めさよりも警戒が増した。
内包する不穏分子を、一か所にまとめている気がするからだ。
見張られている。管理されている。
ふとした瞬間にそれを感じて、肝が冷えることもある。
いまはまだ、何の動きもしていない。
というよりも、できない。
思っていたより警戒は強く、一朗太が職域とは関係のない場所に迷い込もうものならすぐに誰かが現れる。
そのときはわざとではなく、単に道に迷っただけだが、新人のそんな動きにすら目を光らせているのだ。
あるいはそれは、岡部一朗太だからかもしれない。
確信はない。だが、過敏になった感覚が、そうだと告げている。
「岡部」
「はい」
呼ばれて、顔を上げる。
こちらを見ていた上役の犬養殿が、手招く。
面長で悪人顔のこの上役は、同僚たちから好かれてはいないが、割と公平な人だと思う。
「やりなおしだ」
たまに理不尽なことも言うが、隣の班の上役よりはやりやすい。
今回指摘された数冊の帳簿は去年のもので、計算が合っていないのだそうだ。間違いがあるなら、誰かが正さなければならない。
それをやらないと言える権限は、一朗太にはなかった。
「わかりました」
粛々と頷いて分厚い冊子を受け取った一朗太に、犬養殿は無表情に頷きを返した。
「西の書庫で資料をそろえて、正確な数を出せ」
一朗太は「はい」と従順に答えた。
だが心臓はバクバクと脈打っていた。
西の書庫。上役によってはっきりと告げられた入室許可。
それは、一朗太がまず初めに調べてみようと狙っていた場所だった。
すぐにも駆けだしたいところだが、先走りたい気持ちをぐっとこらえた。
冷静を装い、今している仕事を終わらせる。
明日だ。西の書庫に行くのは明日からだ。
西の書庫は、今川館の本殿に隣接していて、下級文官に過ぎない一朗太が立ち入ることが許されていない区画にある。
そこには過去何年かの帳面が保管されているそうだ。
もちろんそれが、弟の死と関連するものだとは限らないのだが……まずは第一歩だ。
帰宅して、まずはその帳簿を確認した。
それは駿東の年貢についての記録だった。
遠江で育った一朗太の目には、その数はひどく少なく見えた。
とはいえ農耕に適した土地といえば岡部郷しか知らないが、それに比べて三分の一の収量だ。
駿東は米を作るのが困難な土地なのだろう。
各村が小さく、数が多いのも問題だ。川が暴れるからだろうか。どの村もまとまった数の住人がいなように見える。
年貢は五公五民だ。特別重すぎるほどでもない。
数字が細かすぎるのは、そもそも大きな桁になるほどの収量がないからで、それが村の数だけある。困ったことに、その合計があっていない。
犬養殿がまずそれを正せと言っているのはわかる。だが単純に合計すればいいわけでもなさそうだ。元の帳簿からきちんと数字を移せという意味だろう。
「兄上」
気合を入れて、注視するべき場所を書き出していた一朗太に、廊下から声を掛けられた。
入室を許すと、整った所作で障子をあけて奈津が入ってくる。
今日は万事はいないようだ。
それに違和感を覚えたことに、衝撃を受ける。
「お邪魔をいたしましたか?」
「いいや」
一朗太は即座に答えた。
「休憩をしようと思っていたところだ」
奈津の持つ盆には、白湯の入った茶碗と、小豆を添えられた草餅が置かれている。
「母屋のほうからおすそ分けを頂きました」
天野家には頭が上がらない。
一朗太が務めに出かけ、下村やそのほかの家臣たちも出払ってしまうことが増えた。奈津をひとり置いていくのは気がかりだったが、天野家の奥向きがものすごく気をつかってくれている。
「そうか」
一朗太はそう言って、奈津の頭をそっと撫でた。
最近は怯えられることもなくなり、そんなことがこの上もなくうれしい。
「では頂こう。奈津は食べたのか? 半分にするか?」
妹の頬に笑顔が過った。
一朗太は急いで厨にむかうその背中を見送って、ほっと安堵の息を吐いた。
少しずつだが、回復してきている。
このままつつがなく時が過ぎてくれるといいのだが。
「殿」
いつの間にか廊下に控えていた下村に呼ばれて、顔を上げる。
何かあったな。
叔父の表情でそれを読み取り、ぐっと腹に力を込める。
「妙なことがわかりました」
下村が言葉を選びつつ、続ける。
「岡部屋敷にいた者の幾人かが、三浦家の家人になっているようです」
「三浦?」
聞き慣れない名だった。遠江の家門ではないだろう。
「駿河衆です」
仕事を失った使用人が、他家で働くのは当たり前のことだと思う。彼らにも生活があるからだ。
だが、わざわざ下村が言及するのには理由があるのだろう。
「仔細を調べて問題ないだろうか」
「……わかりませぬ」
「そうだな。敵に感づかれたくない」
「今はまだ積み上げていく段階です。確実に参りましょう」
奈津が戻ってくる足音がする。下村も気づいたのだろう、険しかった表情がフッと緩む。
一朗太は、さりげなく伏せた冊子を文机の下に重ねた。




