駿府到着
一朗太が駿府にたどり着いた時、季節はもう春を迎えていた。
岡部衆が掛川を発った後、引馬城で戦があり、遠江の情勢が大きく変わったと聞いた。
本来なら、岡部家もそこで大きな役割を担うはずだったのに。
だが城はなく、兵もない。
できることはなかったのだと自身に言い聞かせるしかなく、忸怩たるおもいだけが重く心にのしかかってくる。
「兄上」
不安そうな奈津の声に、はっとする。
反射的に頬に笑みを浮かべたが、きっとぎこちないものだったのだろう。奈津は心配そうに一朗太を見上げる。
春とは名ばかりの、肌寒い風が吹く。
これから岡部家に吹き付ける風はもっと厳しく、冷たいものになるだろう。
だが守るべき者がいる。
その事実が、一朗太の覚悟を確かなものにする。
一朗太は、今川屋敷の事務方に仕官することができた。
引馬城の話を聞くたびに、口惜しい思いがあふれるが、その時には勝千代殿の言葉を思い出すようにしている。
一朗太はまだ若年だ。今は、力を蓄える時だ。
望んでいた武官としてではなく、文官にと言われた時も、粗雑に扱われた時も、黙って頭を下げて耐えた。
残ってくれている家臣を養うために、岡部の駿府屋敷は手放した。今川館の事務方の扶持では、家族が食っていくだけで精いっぱいだからだ。
屋敷を売ったので、住むところもなく、天野家の好意を受けて屋敷の別棟を借りた。
家臣の多くは祖母のいる岡部郷に帰し、兄妹と数人だけがそこに住まうことになっている。
「兄上」
奈津が、以前とはくらべものにならないぐらいに細い声で呼ぶ。
その痩せた手は、相変わらず万事の着物の袖を握りしめている。
一朗太はすでにもう、それについて文句を言うことはなかった。奈津にとっては、心を落ち着かせる唯一の手段なのだと理解したからだ。
ただ、やはり祖母のもとにいた方が良かったのではないかとは思う。
これから先の何年かは、苦労をすることになる。
姉や奈津が見た地獄に比べると、たいしたことではないのだろうが。
「なんだ」
できるだけ優しい声でそう返すと、奈津はなおもためらっていたが、やがて心を決めたように万事の袖から手を離した。
「わ、わたしも今川館の奥でお勤めを」
「いや」
怖がらせないように注意しながらも、速攻でそれを拒否した。
何故なら、まだ奈津はちょっとしたことで全身をこわばらせ、悲鳴を上げる。泣き叫ぶこともある。そんな状態で出仕するなど無理だ。それに……
「奈津」
一朗太は静かに言った。
「発端は幸次郎の死だと思う」
幼い奈津に聞かせたくない話だが、福島の勝千代殿を思い出せば、年齢は重要なことではないとわかる。
奈津は、一年前には今川館の奥向きに出仕していた頭の良い娘だ。目端が利き、しっかり者の、負けん気の強い子だった。
故にわかるはず……と、はっきり告げると、奈津の全身がブルリと震えた。
「何があったのか、調べようと思う」
一朗太は、震える妹手をぎゅっと握った。
郷にもどれとは言わない。ただ、駿府にいると危ういかもしれない。
言外に告げたその事に、奈津は震えながらもしっかりと頷いた。
「幸次郎兄さまは、倒れるその日の朝までお元気でした」
これまで語られることのなかったことが、ぽつりとこぼれる。
一朗太はまっすぐ妹の顔を見つめ、「やはりそうか」と、流行り病で死んだことにされた弟は、さぞ無念だっただろうと奥歯を食いしばる。
岡部家に伝わっているのは、幸次郎は数日間の闘病の末にあっというまに息を引き取ったという簡単な通達だ。
だが、あんな目にあった姉上のことも、同様の説明をされたのだ。
今川館の言っていることは信用できない。
「……どのようにされるおつもりですか」
ふと、太い声が口を挟んできた。万事だ。
「お手伝いできることがあるやもしれません」
奈津の為に受け入れはしたが、気に食わない男だというのは変わりない。
一朗太は顔をしかめて男を睨んだ。
だが万事は微塵も気にならない様子で、震える奈津の背中を撫でている。
奈津がそれに安堵したように表情を緩めるものだから、兄としてますます気に入らない。
だが、「余計なお世話だ!」とは言えなかった。
言ってやれたらすっきりするに違いないが、今はどんな助けも必要だ。
なんと返せばいいのかわからず口ごもっていると、奈津がクイと万事の袖を引いた。
「昔のお屋敷で、幸次郎兄さまに仕えていた者たちがいるの」
そうだ。
今川館で寝泊まりをしていたわけではないので、その行き帰りには側付きはじめ護衛の付き添いもあっただろう。
その者たちがどうしているかすら、一朗太は知らない。
だが、何かを知っている可能性はある。
「殿」
それまでは黙って控えていた下村が静かに口を開いた。
長年「若君」と呼ばれてきたのに、朝比奈領を発つ頃から家臣たちは皆そう呼ぶようになった。
「そちらは我らが追います。万事殿には、出入りの商人に当たってもらいたい」
控えめだがはっきりとした強い口調だ。
駿府に到着するまでは、一朗太を含め皆が落ち込んでいたが、改めて方向性を示したことで意気が上がっている。
そんなことにも気づかなかった不甲斐なさに歯噛みしつつも、事が動き出したのだという事実に、一朗太自身も決意を新たにしていた。
必ず真相を突き止める。弟と姉の敵を取る。
あの雪崩の下で眠っている、大勢の家臣たちの無念を晴らすためにも。
「殿は無理をなさいませぬよう。我らよりも、今川館の内側のほうが危険は多いはずです」
下村の忠告に、一朗太ははっきりと頷いた。
わかっている。
我らの敵は……今川館にいるのだ。
時系列的には、冬嵐記と春雷記の間の物語です。




