タイトル未定
第十二章 黒角の遺言
灰峰の依頼は達成となった。
商隊の全員が生きて戻ったからだ。
報酬の金貨五十枚を受け取ると、レイはその場で肉を買った。
四十枚分だった。
「旅費を考えてください!」
セレナの声がギルド中に響いた。
「十枚ある」
「船賃は一人八枚です」
「歩く」
「鏡海を?」
レイは肉の山を見た。
返品はできなかった。
ミラが腹を抱えて笑っていた。
結局、肉の半分は商隊の者たちへ配った。
船賃は、救われた商会が払ってくれた。
出発までの三日間、レイはガルドの革袋を調べた。
底が二重になっていた。
中から薄い鉄板が出てきた。
文字が刻まれている。
――黒月守、第三位ガルド。
――飽喰の器を、月より隠す。
その下は削られていた。
セレナが鉄板を月光にかざす。
消えた文字が銀色に浮かんだ。
――器に名が宿るまで。
――名が宿れば、人として選ばせよ。
「ガルドは、あなたを封じる役目だったのですね」
「育てる役目ではなかった」
「それでも、育てた」
レイは答えなかった。
鉄板の裏には、三つの円が刻まれていた。
一つ目は灰峰。
二つ目は波に囲まれた塔。
三つ目は骨のような迷宮。
灰峰の印だけが消えている。
心臓を斬ったことで、封印も壊れたらしい。
「封印を守るべきだったのか」
セレナが聞いた。
「ガルドは斬れと言った」
「そうですね」
「怒っているか」
「誰に」
「俺に」
セレナは首を横に振った。
「羨ましいだけです」
レイは彼女を見た。
「最後に、言葉を交わせたから」
王城の炎を見つめていた彼女の横顔を思い出した。
レイは言った。
「お前の父は、願いを言った」
「はい」
「お前も聞いた」
「慰めているつもりですか」
「わからない」
セレナは小さく息を吐いた。
「下手ですね」
「知っている」
「でも、ありがとうございます」
翌朝、ロウが訪ねてきた。
灰峰での働きが認められ、レイたちは銀級へ上がっていた。
ロウも同行を続けるという。
「鏡海の手前までだ」
「魔物とは組まないのではなかったか」
「お前はレイなんだろ」
狼の耳が横を向いた。
レイは拳を出した。
ロウは警戒した。
「何だ」
「こうするらしい」
拳と拳をぶつける。
今度は、うまくできた。
四人で港町へ向かった。
ミラは灰峰から戻ったあと、支部長の座を副官へ譲っていた。
「面白そうだからね」
理由はそれだけだった。
港へ続く道で、黒い獣に襲われた。
灰峰から逃げた残滓だった。
レイは一体も食わなかった。
夜凪で核を砕き、霧は空へ返した。
進化点は増えない。
戦いは以前より時間がかかった。
「食えば早い」
ミラが言う。
「食わなくても斬れる」
レイは答えた。
腹の奥の声は、日ごとに大きくなっていた。
――足りない。
――満たせ。
夜、眠れないまま刀を振った。
百回。
二百回。
セレナが宿から出てきた。
「何か聞こえるのですか」
「何も」
「嘘が少し上手になりましたね」
レイは刀を止めた。
声のことを話した。
ノクスという名。
食うたび、鍔の欠けた部分が満ちていること。
セレナは夜凪を覗き込んだ。
欠けた月の縁に、黒い細線が伸びている。
「使わないでください」
「必要なら使う」
「命令です」
「もう王女ではない」
「では、お願いです」
レイは返事をしなかった。
セレナの手が夜凪の柄へ重なる。
冷たい手だった。
「あなたが何かを喰らうたび、あの声に近づくのなら。私が、別の道を探します」
「見つからなければ」
「百年でも探します」
以前、レイが言った言葉だった。
「それが長いのか、まだ知らないのでしょう?」
レイは刀を鞘へ収めた。
その夜だけは、声が遠くなった。
第十三章 鏡海
鏡海は、波のない海だった。
風が吹いても水面は揺れない。
空も雲も、そのまま映している。
港の船はすべて鎖で繋がれていた。
三日前から、海へ出た船が戻らないという。
「またか」
ミラが依頼書を見た。
行く先で事件が待っている。
レイには普通のことだった。
森でも、腹が減れば魔物がいた。
最後に残った一隻の船を借りた。
船長は片目の老人だった。
名をハインという。
「海へ血を落とすな」
乗る前に言われた。
「落とすとどうなる」
「海が覚える」
ロウが鼻を鳴らした。
「迷信だ」
その日の夕方、ロウが釣り針で指を切った。
血が一滴、水面へ落ちた。
鏡の中のロウだけが、こちらを向いた。
本物は海を見ている。
映ったロウが笑った。
水から白い腕が伸びる。
レイは腕を斬った。
切り口から血が出た。
ロウの腕にも、同じ傷が開いた。
「斬るな!」
ハインが叫んだ。
水面に、五人の姿が映っている。
どれも本物と違う動きをしていた。
映ったミラが義手を外す。
下には、失ったはずの左腕がある。
映ったセレナは年老いていた。
白い髪で、穏やかに笑っている。
セレナの呼吸が止まった。
「見るな」
レイは彼女の目を手で覆った。
自分の鏡像は見なかった。
見なくても、声は聞こえた。
――零。
女の声だった。
懐かしい。
だが、誰なのかわからない。
海が盛り上がった。
巨大な人の形になる。
身体の中に、消えた船が浮かんでいた。
乗員たちは眠っている。
胸に鏡の破片が刺さっている。
セレナが風を放つ。
海人の身体を散らすが、すぐに戻った。
「核は塔だ!」
ハインが指差した。
水平線の上に、逆さまの塔が映っている。
本物の塔はどこにもない。
「海の下か」
レイが聞く。
「鏡の向こうだ」
「同じだ」
レイは船縁から飛んだ。
「待ちなさい!」
セレナの声と同時に、水面へ入る。
濡れなかった。
空が足元に移った。
落ちている。
逆さまの塔へ向かって。
セレナも飛び込んだ。
金色の髪が上へ伸びる。
ミラとロウが続く。
ハインだけは船に残った。
「帰り道を繋いでおく!」
鏡の世界には、音がなかった。
塔の入口に、銀色の女が立っていた。
水路の壁画に描かれていた女だった。
顔はセレナに似ている。
女はセレナへ手を差し出した。
――月冠を返しなさい。
声は口からではなく、海全体から聞こえた。
セレナの首筋が光る。
銀の三日月が皮膚から離れ、空中に浮かんだ。
女の頭上へ動いていく。
レイは月冠を掴んだ。
手のひらが焼ける。
「これはセレナのものだ」
――それは死を遠ざける呪い。
「それでも、こいつが選ぶ」
女の顔が割れた。
中から無数の目が現れる。
――選択が、世界を壊した。
塔が崩れた。
鏡の破片が雨のように降る。
ひとつひとつに、別の未来が映っていた。
王となったセレナ。




