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黒月の鬼神  作者: 樹
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タイトル未定

第五章 銀泉の底

月神殿の地下は、水の匂いがした。

 百年前に閉じられた水路が、王都の外まで続いている。

 実地演習の課題は、最下層にある古い祭壇の調査だった。

 四人一組で進む予定だった。

 レイの班には、誰も来なかった。

 セレナを除いて。

 「王女が余りものか」

 「あなたが余ったのです」

 「二人しかいない」

 「足手まといが増えるよりましです」

 敵ではなくなったらしい。

 味方になったとも思えなかった。

 水路は暗かった。

 セレナが光の球を浮かべる。

 白い壁には、翼を持つ女の絵が描かれていた。女の胸から銀色の水が流れ、その水を黒い影が飲んでいる。

 影には二本の角があった。

 レイが近づくと、絵の角だけが崩れた。

 「触れていませんよね」

 「触れていない」

 「あなたの周りでは、よく物が壊れます」

 「学院に来てからだ」

 「学院のせいにしないでください」

 最初の扉は、魔術式で閉じていた。

 セレナが三つの文字を書き換えて開けた。

 二つ目の扉は、巨大な岩だった。

 レイが押して開けた。

 三つ目の扉には、二人分の血が必要だった。

 「趣味の悪い遺跡ですね」

 セレナが指を切る。

 レイも手のひらを切った。

 灰色と赤の血が溝で混じった。

 扉の奥から、冷たい風が吹いた。

 最下層には、銀色の泉があった。

 天井はない。

 地下深くのはずなのに、黒い空と満月が見える。

 泉の中央に、白い石棺が浮かんでいた。

 セレナが一歩進む。

 水面に、彼女と同じ金色の髪が映った。

 だが、映った女は目を閉じている。

 「お母様……?」

 水の中の女が目を開けた。

 黒い手が、セレナの足首を掴んだ。

 レイは彼女を突き飛ばした。

 代わりに、黒い手がレイの腕へ絡みつく。

 泉から影が立ち上がった。

 人の形をしている。

 顔だけがない。

 ――欠けた器。

 声は、森で聞いたものと同じだった。

 ――ようやく、月の娘を連れてきた。

 「誰だ」

 ――お前より先に、飢えていた者だ。

 影が腕を引く。

 レイは踏ん張った。

 水に触れた皮膚から、力が抜けていく。

 【進化点:4118】

 数字が減った。

 影が《万象喰らい》を食っている。

 レイは夜凪を抜いた。

 水面ごと影を斬る。

 黒い腕が切れた。

 だが、切り口から二本に増えた。

 セレナの風刃が影を刻む。

 光の矢が石棺を貫いた。

 影が初めて叫んだ。

 石棺の中に、黒い心臓があった。

 心臓には銀の杭が刺さっている。

 杭の一本が抜けかけていた。

 「押し戻せ!」

 レイは影を押さえた。

 セレナが水へ入る。

 銀の杭に手をかけた瞬間、泉が赤く染まった。

 彼女の脇腹から刃が出ていた。

 背後に、灰色の外套の男がいた。

 白塔で見た男だった。

 「王血を確認」

 平らな声だった。

 男が刃を引き抜く。

 セレナが崩れた。

 レイの中で、何かが切れた。

 影の腕を噛みちぎる。

 苦い。

 冷たい。

 それでも呑み込んだ。

 ――黒蝕の眷属を捕食。

 ――進化点を獲得しました。

 【進化点:5012】

 視界に選択肢が現れた。

 【進化可能】

 【剣鬼】

 【灰喰らい】

 【月蝕の仔】

 レイは《剣鬼》を選んだ。

 骨が軋んだ。

 角が伸び、身体の奥で熱が巡る。

 夜凪の白い筋が輝いた。

 刀を一度振る。

 灰色の男の刃が落ちた。

 二度目で外套が裂ける。

 中にいたのは、ユリウスと同じ制服を着た生徒だった。

 胸はすでに空洞だった。

 黒い虫が、人の皮を動かしていた。

 レイは三度目を振った。

 虫だけを斬った。

 影が泉へ逃げる。

 追わなかった。

 セレナのほうが先だった。

 脇腹の傷は深い。

 息が弱い。

 レイは治癒の力を流した。

 血が止まらない。

 「杭を……戻して」

 セレナが言った。

 「黙れ」

 「先に……封印を」

 「死ぬぞ」

 「王族は、そのためにいます」

 レイは銀の杭を掴んだ。

 押し込む。

 影の叫びが遠ざかった。

 泉の空にあった満月が割れた。

 水が渦を巻く。

 セレナの身体が、泉の中央へ引かれた。

 レイは腕を掴んだ。

 銀の水が傷へ入っていく。

 血が逆流する。

 セレナの瞳から光が消えた。

 「セレナ」

 初めて、名だけを呼んだ。

 返事はなかった。

 泉の底で、何かが鼓動した。

 一度。

 二度。

 セレナが息を吸った。

 開いた瞳は、緑ではなかった。

 月のような銀色だった。

 彼女の脇腹から、刃の傷が消えていく。

 水路全体が揺れた。

 夜凪に文字が浮かぶ。

 ――月器の覚醒を確認。

 ――不滅契約、第一段階へ移行。

 セレナも、その文字を見ていた。

 「今のは、何です」

 レイには答えられなかった。

 ただ、彼女の手が氷のように冷たかった。

 それなのに、脈は二度と途切れなかった。


第六章 死なない王女


 セレナは三日後、学院へ戻った。

 傷はなかった。

 食事を取らなくても空腹を感じず、眠らなくても疲れなかった。

 切った指は、血が落ちる前に塞がった。

 学院長室で、エルドが検査結果を燃やした。

 「王宮へは、軽傷だったと伝える」

 「なぜ隠すのです」

 セレナの声は静かだった。

 「永遠の命を欲しがる者は、王都の人口より多い」

 バルバスが答えた。

 「お主を娘ではなく、泉として見る者が現れる」

 「私は王族です。王国のために――」

 「死ねる者が口にする自己犠牲と、死ねぬ者が選ばされる犠牲は違う」

 部屋が静かになった。

 レイは窓際に立っていた。

 セレナの首筋には、銀色の線が浮かんでいる。

 三日月の形だった。

 「元に戻す方法を探す」

 レイが言った。

 セレナは彼を見た。

 「戻らなければ」

 「見つかるまで探す」

 「百年かかっても?」

 「それが長いのか、まだ知らない」

 セレナは笑わなかった。

 だが、肩の力が少し抜けた。

 学院では、別の問題が起きていた。

 実地演習に参加した生徒のうち、七人が戻っていない。

 教師二人も消えた。

 地下水路には、どの班も辿り着いていなかった。

 偽物の地図で、別の場所へ導かれていた。

 レイとセレナの地図だけが正しかった。

 罠は、セレナを銀泉へ連れていくためのものだった。

 残された生徒を探すため、学院は白塔の地下を開いた。

 古い訓練迷宮だった。

 入口には黒い灰が積もっていた。

 レイ、セレナ、エルドの三人で入った。

 迷宮の壁には爪痕があった。

 人間のものではない。

 レイのものに似ていた。

 最初の広間で、生徒を三人見つけた。

 全員、生きていた。

 眠ったまま、黒い根に繋がれている。

 根は魔力を吸い、奥へ運んでいた。

 セレナが剣で根を切る。

 切り口から灰が噴き出した。

 レイが前へ出て吸い込む。

 「何をしているのです!」

 「俺には毒が効きにくい」

 「効きにくいだけでしょう」

 灰は喉に貼りついた。

 身体の中で《万象喰らい》が動く。

 ――黒蝕灰を捕食。

 ――解析不能。

 ――上位権限により拒絶されました。

 初めて見る言葉だった。

 上位権限。

 何者かが、《万象喰らい》の上にいる。

 迷宮の最深部で、残る四人を見つけた。

 祭壇の前に立たされていた。

 教師のひとりが、その背後にいる。

 学院で歴史を教えるヴィクトルだった。

 灰色の髪をした、穏やかな男。

 レイに文字を教えたこともある。

 「思ったより早かったですね」

 ヴィクトルは微笑んだ。

 足元には、月の羽を持つ虫が無数にいた。

 「お前が灰を撒いたのか」

 「灰ではありません。種です」

 「何の」

 「次の世界の」

 ヴィクトルが指を鳴らす。

 生徒たちの胸から黒い根が伸びた。

 セレナが駆ける。

 剣がヴィクトルの喉を貫いた。

 手応えはなかった。

 身体が灰になって崩れる。

 声だけが迷宮に残った。

 「銀の月は目覚めた。あとは、喰らう鬼を育てればいい」

 根が一斉にレイへ向いた。

 夜凪が黒い光を放つ。

 剣鬼となった身体は、考えるより先に動いた。

 根の間を抜ける。

 斬る。

 斬る。

 斬る。

 黒い線が幾重にも走り、すべての根が落ちた。

 最後の一本がセレナの背後から伸びた。

 レイの刀は届かない。

 セレナは振り返らなかった。

 根が胸を貫いた。

 血が飛ぶ。

 彼女はその根を掴み、身体ごと前へ引いた。

 レイの間合いに入る。

 夜凪が根を断った。

 セレナは倒れなかった。

 胸の穴が、銀色の光で塞がっていく。

 「便利ですね」

 声は震えていた。

 「痛くないのか」

 「痛いに決まっているでしょう」

 レイは彼女の腕を掴んだ。

 力を入れすぎた。

 普通なら骨が折れている。

 セレナは何も言わなかった。

 代わりに、レイの手へ自分の手を重ねた。

 冷たかった。

 迷宮から生徒を運び出した夜、二人は白塔の屋上にいた。

 月は半分だけ出ていた。

 「私は、もう死なないのでしょうか」

 セレナが聞いた。

 「たぶん」

 「あなたは、いつか死ぬのですね」

 「たぶん」

 「ずいぶん曖昧です」

 「死んだことがない」

 セレナは月を見た。

 「私はあります」

 風が金色の髪を揺らした。

 レイは何も言えなかった。

 慰める言葉を知らない。

 だから、夜凪を床に置いた。

 セレナの隣に座る。

 肩が触れた。

 彼女は離れなかった。

 しばらくして、月が雲に隠れた。

 暗闇の中で、セレナの指がレイの手を探した。

 掴んだ手は、まだ冷たかった。

 それでもレイは、朝まで離さなかった。


第七章 月冠祭


 月冠祭は、学院が一年で最も騒がしくなる三日間だった。

 王都中から客が来る。

 生徒は魔術と剣技を競い、商人は中庭に屋台を並べる。

 レイが興味を持ったのは、串焼きの屋台だけだった。

 「十二本目です」

 セレナが言った。

 「まだ入る」

 「そういう意味ではありません」

 串を一本差し出すと、セレナは受け取った。

 王女が立ったまま串焼きを食べるのは規則に反するらしい。

 彼女は周りを確かめてから、小さく肉を噛んだ。

 「固いですね」

 「うまい」

 「味覚まで森で育ったのですか」

 その日、セレナは王族の白銀ではなく、学院の青い制服を着ていた。

 不死となってから一か月。

 瞳は緑に戻っている。

 月光が当たると、ときどき銀へ変わった。

 誰にも見られないよう、その瞬間はレイが前に立った。

 祭りの中央では、学年対抗の魔剣競技が始まっていた。

 最終戦の名簿に、レイとセレナの名がある。

 二人で一組。

 申し込んだ覚えはなかった。

 「学院長です」

 「斬っていいか」

 「駄目です」

 「浅くなら」

 「駄目です」

 競技場には、魔術で作られた森が広がっていた。

 中央の旗を先に取れば勝ち。

 相手は上級生四人だった。

 ユリウスもいる。

 眠りから覚めた彼は、以前より静かになっていた。

 レイを見ると、短く頭を下げた。

 「肉の件は守った」

 「増えていない」

 「お前が三倍食べるようになったからだ」

 鐘が鳴った。

 セレナが風で木々を揺らした。

 葉の音に紛れ、上級生が左右から来る。

 レイは目を閉じた。

 呼吸を聞く。

 土を踏む重さを聞く。

 夜凪の鞘で、一人目の腹を打った。

 振り向かず、二人目の剣を受ける。

 セレナの矢が三人目の足元へ刺さり、蔦が巻きついた。

 ユリウスだけが正面から来た。

 新しい大剣には、聖紋がない。

 「今度は俺の力だけだ」

 「前より遅い」

 「言ってくれる」

 大剣と夜凪がぶつかった。

 重い。

 だが、濁っていない。

 レイは一歩退き、セレナへ合図を送った。

 光の矢が夜凪の刀身へ当たる。

 白い筋が光を吸い込んだ。

 次に振った刃から、黒い月弧が飛んだ。

 大剣を避け、ユリウスの背後にある旗だけを斬る。

 旗が落ちた。

 セレナが風で攫い、手に収めた。

 鐘が鳴る。

 歓声が上がった。

 レイは夜凪を見た。

 刃に吸われた光は消えている。

 《万象喰らい》が、刀を通して魔術を食べた。

 セレナが駆け寄った。

 「今の技は?」

 「今できた」

 「競技中に試したのですか」

 「できると思った」

 「失敗したら?」

 「お前が取ると思った」

 セレナは口を閉じた。

 耳の先が赤くなった。

 歓声の中、鐘がもう一度鳴った。

 今度は低かった。

 学院の警鐘。

 空に黒い亀裂が走った。

 魔術の森が消える。

 観客席の上に、巨大な月が現れた。

 昼間なのに、黒い月だった。

 月から灰が降る。

 灰を浴びた者が次々に倒れた。

 その胸から、月羽の虫が生まれる。

 レイは競技場へ跳んだ。

 夜凪を振る。

 黒い月弧が虫の群れを呑み込んだ。

 ――黒蝕蟲、二十七体を捕食。

 ――進化点を獲得しました。

 【進化点:6390】

 数が増えた。

 喜びはなかった。

 倒れた客の中に、子供がいた。

 胸から虫が出ようとしている。

 レイは切っ先を当てた。

 手が震える。

 虫だけを斬れる距離ではない。

 「私が押さえます」

 セレナが子供を抱いた。

 「動けば、お前も斬る」

 「外さないのでしょう」

 銀色に変わった瞳が、レイを見た。

 夜凪を突く。

 子供の服だけが裂けた。

 虫は刃に吸われた。

 子供が泣き始める。

 生きている声だった。

 空の黒い月から、ヴィクトルの声が響いた。

 「見事です。器は順調に満ちている」

 黒い月に、一つの顔が浮かぶ。

 目も鼻もない。

 口だけが笑っていた。

 「次は王城で会いましょう、銀月の姫」

 月が割れた。

 破片が王都へ降り注ぐ。

 セレナが両手を広げた。

 風の障壁が競技場を覆う。

 黒い破片が次々に突き刺さった。

 腕が裂け、肩が砕けても、彼女は立っていた。

 傷は塞がる。

 だが、痛みは消えない。

 レイは彼女の前へ出た。

 夜凪を両手で握る。

 降る破片を斬り続けた。

 百。

 二百。

 数えるのをやめた。

 最後の破片を斬ったとき、競技場の森は跡形もなかった。

 セレナの障壁も消えた。

 彼女が倒れる。

 レイは受け止めた。

 「死なないからといって、無茶をするな」

 「それを、あなたが言いますか」

 「俺はまだ死ぬ」

 「なら、なおさらです」

 祭りの歓声は、もう聞こえなかった。

 王城の方角から、三本目の警鐘が鳴った。


第八章 王城炎上


 王城の門は内側から閉じられていた。

 壁の上に兵士が並んでいる。

 全員の首に、黒い灰が付いていた。

 セレナが名を告げても、門は開かない。

 代わりに矢が降った。

 レイは夜凪で払い落とした。

 「正面は無理です」

 「壊す」

 「私の家です」

 「あとで直せ」

 セレナが止める前に、レイは門へ走った。

 黒い月弧を三度放つ。

 厚い鉄門に線が入った。

 蹴る。

 門が内側へ倒れた。

 セレナは何も言わなかった。

 ただ、冷たい目でレイを見た。

 「あとで直す」

 「覚えておきます」

 城内には黒い根が張っていた。

 壁を這い、床を割り、玉座の間へ伸びている。

 兵士を殺さず進むのは、魔物を斬るより難しかった。

 セレナの風が足を払い、レイの鞘が意識を奪う。

 二人は一度も言葉を交わさなかった。

 それでも、刃も矢も互いには触れなかった。

 玉座の間に王がいた。

 セレナの父、アストリア王。

 玉座へ黒い根で縫いつけられている。

 胸には月型の穴が開いていた。

 「お父様!」

 セレナが駆けた。

 王の手が動く。

 隠していた短剣が、セレナの喉を裂いた。

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