第一話 名前を呼ばれなかった男
俺の名前は、最後まで呼ばれなかった。
王都ラウディアの中央広場は、朝から人で埋まっていた。魔王討伐の祝勝式典だ。石畳は水を打って磨かれ、天幕の白布が風を孕んで鳴っている。焼き菓子と香油の匂いが、冬の終わりの冷たい空気に薄く伸びていた。
壇上で王家の書記官が羊皮紙を広げると、広場が静まった。
「勇者リオン・アーレン」
歓声が地面を揺らした。紙の花片が撒かれ、金の首飾りが日差しを弾く。
「魔術師フィーナ・レイクス。聖騎士ドナー・ヴァル」
呼ばれるたびに人垣が沸いた。俺は最前列の柵のすぐ後ろに立って、その光景を見上げていた。次だ、と思っていた。
書記官が羊皮紙を、するりと巻いた。
拍手は続いている。誰も、何もおかしいと思っていない。俺は口の中が乾いていくのを感じながら、脇に控えていた式部官に声をかけた。
「あの、確認したいことが」
「ああ、あなたですか」
式部官は名簿に目を落としもしなかった。
「討伐隊の記録上、あなたは非戦闘員です。叙勲と報奨の対象は、魔王に刃を向けた者に限られておりますので」
「刃を」
「はい。規定ですので」
規定、と俺は口の中で繰り返した。
この人は、俺が二年半、あの隊列の最後尾で何をしていたのかを知らないのだろう。雪山を越える四十日間、俺は水袋の凍結を防ぐために毎晩、隊の全員分を胸に抱いて寝た。フィーナの魔力回復薬をどの街のどの商人が水増ししているか記録していたのも俺だし、ドナーの鎧の留め具が第三関節で必ず緩むと気づいて、予備を三十個持ち歩いていたのも俺だ。
魔王城の門の前で、リオンが最後の一歩を踏み出せたとき、彼の背嚢には七日分の食料と、乾いた靴下が入っていた。
入れたのは、俺だ。
「アルド!」
人垣を割って、リオンが降りてきた。金の首飾りが、走るたびに跳ねている。
「おい、名簿が――今から言ってくる。あれは間違いだ」
「やめとけ」
俺は笑ってみせた。うまく笑えた自信はない。
「お前が壇上で騒いだら、明日の瓦版はそれ一色だ。せっかくの祝勝式が台無しになる」
「だけどな」
「いいんだよ。俺は荷物を運んでただけだ」
言ってから後悔した。その言葉を、俺自身が一番信じていない。
リオンは何か言いかけて、口を閉じた。彼は昔からそうだ。剣は速いが、言葉は遅い。その沈黙のあいだに、壇上の布告官が銅鑼を鳴らした。
「――続いて、王国よりの布告である」
広場のざわめきが、少しだけ静まる。
「魔王討伐の完遂に伴い、各国は本日をもって、冒険者ギルドとの戦時特別徴募契約を終了する」
一瞬、意味が分からなかった。いや、俺には分かった。分かってしまった。この二年半、俺が毎晩帳面に書き付けていたのは、まさにその契約から流れてくる金の額だったからだ。
「対象は、王国内に登録された冒険者、三万二千四百余名」
ざわめきの質が変わった。
「これに伴い、ギルドが戦時予算をもって運営していた宿舎は、十日以内に順次閉鎖される。戦時限定の施術資格、調薬資格についても、同日をもって効力を失う」
柵の向こうで、誰かが「おい」と言った。それが合図だったように、広場のあちこちから声が上がりはじめる。
「十日だと?」
「治癒の資格が消えるって、俺たちは明日から何をやりゃいい」
「軍が引き取るんだろう? なあ、そうだろ?」
布告官は答えなかった。答える必要がないからだ。
俺は知っている。戦時債の利払いで、王国の国庫は今年、三度も支払いを繰り延べている。軍も警備隊も、来年度の新規採用を凍結したばかりだ。彼らを雇う金は、どこにもない。
あの三万二千四百人は、昨日まで王国の剣だった。今日から、ただの余りものだ。
◇
「アルド・カレン殿。少々よろしいか」
式典の人波から抜け出そうとしたところで呼び止められた。王城の文官だった。細身で、袖口の汚れひとつない上着を着ている。名をメルヴィンと名乗った。
通された天幕の中で、彼は一枚の辞令書を卓に滑らせた。
――魔王城戦後資産整理官。
「魔王城には、魔族が遺した設備、什器、魔石炉、書物の類が相当量残っております。放置すれば盗掘者の巣になる。かといって撤去には人足と金が要る。国庫にその余裕がないことは、今の布告でお察しでしょう」
「……それで、俺に」
「あなたは補給係として、城の内部の物資と設備を最もよく把握しておられる。討伐隊で唯一、城の倉庫区画の見取りを取った方だと聞きました。補給記録も、こちらで確認しております」
取った。あの日、リオンたちが玉座の間へ向かうあいだ、俺は一人で倉庫を回って中身を数えていた。戦いが終わったあとに何が要るか、それを考えるのが俺の仕事だったからだ。
確認しております、という言い方が、少し引っかかった。
「期限は九十日。城内資産の保全、目録の作成、および処分。整理に必要な作業員の選定、臨時雇用、および城内宿泊は、整理官の裁量に委ねる。回収できた資産については――」
メルヴィンは、そこで少しだけ言葉を選んだ。
「報酬として、あなたの裁量に委ねてよい、と」
俺は辞令書を裏返した。国からの支度金の欄は、空白だった。
「つまり、金は出ない。人も出ない。九十日で片付かなければ」
「その場合は、整理官の責任において処理いただくことになります」
要するに、厄介払いだ。旧魔王領は三国の国境が入り組んだ土地にあって、どの国も単独では手を出せない。手を出せば他国を刺激する。だから誰も欲しがらず、誰も片付けたがらない。そこへ名簿から名前の消えた男を一人放り込んで、九十日後に何もかも終わっていればいい。
「お受けいただけますな」
メルヴィンは微笑んだ。断られるとは、露ほども思っていない顔だった。
俺は辞令書を、上着の内側にしまった。
◇
日が傾くころ、俺は西区のギルド宿舎の前を通りかかった。通りかかった、というのは嘘だ。足がそっちに向いた。
石造りの古い建物の前に、荷物が積み上がっていた。毛布、鍋、砥石、革の胸当て。使い込まれて、どれも値のつかないものばかりだ。その脇に人が座り込んでいる。十人、いや、もっとだ。
「十日って言ったじゃないの。まだ一日目でしょ」
立っていたのは、俺より頭ひとつ小さい娘だった。灰色の外套に、丸めた地図を何本も差した筒を背負っている。斥候の装備だ。
宿舎の管理人は、扉の内側から答えた。
「予算が今日で切れたんだ。俺だって明日から無職だよ、ミラ」
「あたしの地図、まだ中よ。北方の三十七枚。あれ、三年かけて描いたの」
「明日、取りに来い」
扉が閉まった。娘は――ミラというらしい――扉を思い切り蹴って、それから蹴った足を押さえてうずくまった。
その隣で、年かさの女が荷物の上に腰を下ろしていた。膝に載せているのは革の薬箱だ。留め具の金具が丁寧に磨かれている。女は箱を開けもせず、ただ蓋を撫でていた。
「リゼさん、なんか言ってやってよ」
「言っても、資格が戻るわけじゃないもの」
女は静かに言った。
「戦時限定の施術資格だったの。今日で失効。町の治療院で働くには正規の資格が要る。取るのに三年と、六十万ルクレ」
「六十万」
「傷を縫うのは同じなのにね」
誰も、何も言わなかった。夕日が、積み上がった荷物の影を長く伸ばしていた。
俺はその場に立って、彼らを見ていた。昨日まで剣だった者たち。今日から、余りもの。
式部官の声が、耳の奥で鳴っていた。記録上、あなたは非戦闘員です。
あのとき俺が悔しかったのは、報奨をもらえなかったからじゃない。俺のやった仕事が、なかったことにされたからだ。誰かが数えて、書き留めて、名前をつけない限り、仕事は存在しなかったことになる。俺は、それを二年半やってきた。
上着の内側で、辞令書が硬い音を立てた。
九十日。金は出ない。人も出ない。
俺は辞令を取り出して、暮れかけた光にかざした。細かい字が並んでいる。朝、読み飛ばした一行があった。
――整理に必要な作業員の選定、臨時雇用、および城内宿泊は、整理官の裁量に委ねる。
人足を雇う金は出ない。だが、雇っていいとは書いてある。
俺は息を吸って、背嚢から帳面を取り出した。使い古した物資帳だ。まだ半分は白紙が残っている。
「あー……ちょっと、いいか」
声が裏返った。数十の目が、いっせいにこちらを向く。
「なによ、あんた」
ミラが足を押さえたままこっちを睨んだ。
「見せもんじゃないんだけど」
「そうじゃない」
俺は帳面を持ち上げた。
「仕事ならある」
誰かが鼻で笑った。
「王都の職安はもういっぱいだよ、兄さん」
「王都じゃない。魔王城だ。あそこを片づける仕事だ」
風が、荷物の上の毛布をめくった。
「屋根がある。竈がある。井戸もあったはずだ。飯と寝床は今日から出す。日当は帳面につけて、後で払う」
誰も笑わなかった。




