30.黒い炎
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ありがとうございます。
さくらが振りかぶるナイフには明確な殺意がある。
ここだ。
と葉一の目が光る。
葉一の右手にはバーテン用のナイフがある。
ナイフと言ってもシャンパンやワインを開封する刃渡2cmほどの小さなナイフとスクリュー状のコルク抜きが付属しているソムリエナイフだ。
原則的には刃渡り5.5cm以下であるし銃刀法違反にすらならない。
バーテンが持ってて当たり前かつ実際に毎日使い古していたのものなのだから。
ただ不幸な事にナイフ部分の止めが緩くすぐ自然に刃が出るソムリエナイフを、仙斗からの手紙で慌ててしまった結果、ポケットに入れたまま店から来てしまってたんだから仕方ない。
1度でないとダメだ。
2度傷つけると正当防衛にはならない。
男と女なのだから素手同士でも男にとって分が悪い。
あくまでびっくりして、たまたま持っていたソムリエナイフで、たまたま致命傷になる頸動脈を切らなければならない。
あとは慌てて血を止めようと傷口を押さえるだろう手を、励ますように握り締めればいい。
さくらがスローモーションのようにナイフを振り下ろしてくる。
心臓に向かうナイフを半身ズラし左の肩で受けろ。
同時に右手で首に向かってナイフを振り抜け。
静かに抑え込んでいた黒い炎がここぞとばかり燃え上がる。
あの時の台詞が黒歴史と共に蘇る。
『じゃあ死ねよ。』
まさにそれぞれのナイフがそれぞれの目的を達しようとした時、ふいにさくらが消えた。
ナイフを振りかぶったさくらを見た椿が飛び込んで横に突き飛ばしたのだ。
その結果、葉一の黒い炎をその身に育んだソムリエナイフは椿のジャケットの左肩口を5cmほど切り、少しだけ血で滲ませた。
テーブルに頭をぶつけ脳震盪を起こしたさくらを見つめる椿。
そしてその椿を見て葉一が我に返った頃、パトカーのサイレンが遠くに聞こえてきた。
錯乱し発狂したかのように暴れるさくらを警官達が連れて行き、葉一達も事情説明に警察署に同行する事となった。
入口の横に書記の警察官が座り奥に机と椅子が2つあった。
入口を背にした方の椅子に担当だという30代前半の刑事が座り、葉一は奥に入口を向くように座らされる。
机には立てる形のメニュー表がありコーヒーとか紅茶とかが羅列してあったが、喫茶店のような値段の記載はなかった。
メニューの飲み物を聞かれアイスコーヒーと答えた葉一は、仙斗の家に行った事情を聞かれていた。
葉一は担当刑事に仙斗の手紙を渡した後、手紙を読む刑事をよそにアイスコーヒーを飲みながらメニュー表にカツ丼はないんだなと他人事のように考えていた。
葉一は何度も何度も同じことを聴取されすっかり辟易としていた。
だが、年嵩の刑事が入ってきたかと思うと担当刑事に「高利貸しの部下が死んだだけで犯人分かってんだろ。あんまり引っ張ってやるな。」と声をかけ出て行った。
そのおかげか取り調べは急速に終わりへ向かい、結果2時間ほどで解放される事になった。
ソムリエナイフの事は何も言われる事はなかった。
またお話をお伺いすることができるかも知れませんが今日のところはこれくらいでと警察署入口まで案内されると、そこには椿がジャケットを左肩に乗せるようにたたんで待っていた。
おそらく椿は何も言わず、その傷口をそうやって隠していたのだろうことが分かった。
椿はニコリと笑う。
「おつかれさま」
警察署から一緒に帰る椿と葉一。
タクシーに乗り仙斗の家に車を取りに行くと黄色と黒の規制線が貼られていた。
担当の刑事から見張りの警察官に連絡がいっていたようで、椿の免許証を確認するとすぐに車を出させてくれた。
車に乗り込み葉一のBARに向かう2人。
ずっと沈黙だった車内で葉一が切り出した。
「肩の傷は大丈夫ですか?」
椿は笑う。
「大丈夫じゃないわ。葉一君の奢りでアルコール消毒しないとダメね。内側から。」
葉一もつられて笑う。
「内側からですか。」
その胸中は如何なる思いか。
「帰りはちゃんと代行呼んで下さいよ。」
2人は葉一のBARに到着した。
椿はカウンターの椅子に座り準備をする葉一に注文する。
「『黒響』を水割りで。」
『黒響』というのは、通称だ。
『響』と呼ばれるジャパニーズモルトがあり、一般的には17年、21年、30年と年数で呼ばれる事が多い。
昨今は『響ジャパニーズハーモニー』とか『響ブレンダーズチョイス』とか付属的な名前を付けたまぜ物も増えたが、昔から親しまれているのは年数物ばかりだ。
その中で『黒響』とは、『響』の21年物を言う。
これはラベルが黒いためで17年物はラベルが白い。
「高っ!」
葉一がそう言うのも無理はない。
仕入れ定価レベルでも3万円を超えるのだから。
「乙女に傷付けといて『金響』と言われないだけマシと思え。」
言わずもがな『金響』は30年物であり、仕入れ値は15万円を超える。
「失礼しました。」
葉一は反抗するだけ無駄だと理解したのか、藪蛇のツッコミすら控えた。
女性はいくつになっても『乙女』で『お姉さん』なのだ。
すぐに氷を用意してカラカラとバカラグラスに南部鉄の風鈴のような音を立てさせる。
葉一は『ジャックダニエル』にコーラを注いだ。
元祖としての『コークハイ』だ。
大学時代に一緒によく飲んでいたものだと葉一は仙斗に思いを馳せる。
「ところでね。」
椿が静かに話す。
「身を挺して刃物の脅威から貴方を救った私が、なぜ貴方のナイフで怪我してるのかしら?」




