15時間目 今はそう信じられるから
「あらぁ…? ナギ先輩、どうしたんですかね?」
エヴィンがきょとんと小首を傾げる。
「いや、どうしたんですかね、じゃないだろ。あれはまずいぞ!」
ユキは顔を青くする。
あんなナギを見るのは初めてだ。
しかも、ナギが走っていった先は部屋とは真逆方向。
「ちっ…あの馬鹿、どこに行くつもりだ……っ」
とにかく追いかけなければ。
ユキはフライパンにかけた火を消すために、一度踵を返す。
その瞬間垣間見たのは―――エヴィンの含み笑い。
「―――……」
コンロを目の前にして、ユキはそこに立ち尽くす。
考えが巡るのは一瞬のことだった。
「エヴィン、ちょっと片づけ手伝ってくれねぇか。」
冷静に呼びかけ、ユキは丁寧な仕草で火を消す。
「え、なんですか? ユキ先輩の頼みとあらば!」
エヴィンが嬉々として寄ってくる。
まるで、泣いて出ていったナギのことなど知らないとでもいうように。
いや逆に、知っていたからこそどうでもいい、とでも言うべきか。
ユキは無言のまま、近寄ってきたエヴィンの腕を強く引く。
「わっ⁉」
驚くエヴィンには構わず、彼をシンクに押しつけたユキは……
「―――あいつに何をした?」
自分の体でエヴィンの逃げ場を塞ぎ、間近から低く問いかけた。
「え…」
ぎくりと肩を震わせるエヴィン。
それだけで答えは十分だったが、ユキはさらに詰問を続ける。
「最近あいつがおかしかったの、お前が何かしたからなんだろ。」
「ま、まさか…」
「お前は暴力や権力に訴えるタイプじゃないし、あいつもその手の嫌がらせには反応しないからな…。あいつに、オレ関係で何か言ったろ?」
こうしてナギを呼び出すに当たって、先んじてある程度の事情聴取をしておいた。トモの話を聞く限りでは、ナギがあそこまでこちらを気にかけて泣きそうになることもないと思ったのだが、そこに加えてエヴィンも何かを言い含めていたのだとしたら納得だ。
彼がナギに心優しい言葉をかけるはずもない。
「そ、そんな、言いがかりっすよ!」
エヴィンはユキの前でわざとらしく両手を振り、キッチンルームの外へと目を向ける。
「それより、いいんですか? ナギ先輩追いかけるんでしょう? 早くしないと―――」
「うるせぇよ。」
ユキはエヴィンの手を掴んで下に下ろし、さらに彼との距離を詰める。
「今はオレだけ見てろ。よそ見する余裕があると思ってんのか?」
「―――っ」
ユキの空色の瞳に宿った、氷のような凄み。
それにエヴィンが息を飲んだ。
「……だっ、て…」
すさまじい眼力に押し負けたエヴィンの唇が震える。
「ずるいじゃないっすか。だってあの人、ユキ先輩のこと疑ってばっかなんですよ⁉」
エヴィンが表情を険しくする。
「ユキ先輩はこんなにもあの人のこと考えてるのに…。逆にあの人は、ユキ先輩の何を見てました⁉ 何を考えてたっていうんですか⁉ いつも我が物顔でユキ先輩に甘えてばっかで……不平等っすよ! あの人に、ユキ先輩の隣にいる資格なんて―――」
――――――ガンッ
大きな音が室内に響く。
「つまり、くだらない嫉妬であいつにちょっかい出したってことだな?」
渾身の力を込めてシンクを殴ったユキは、激しい怒気を孕ませてエヴィンに問いかけた。
「………っ」
さすがにこれには対応しきれないのか、エヴィンはいつものように喜びはせずに怯えた顔をする。
ユキは一際きつく眉間にしわを寄せると、エヴィンの胸倉を掴んで乱暴に引き寄せた。
「お前の目的はオレなんだろ? だったらオレだけ見てろ! あいつはオレの気を引こうとしてた時、自分からわざと周りを巻き込みはしなかったし、誰のことも蹴落とそうとしなかった。純粋に、真っ直ぐに、ただオレだけを見てたぞ‼」
それは、自分が初めて認めたナギのいいところだった。
ナギの行動はいつもどこかずれていて、彼の能力の影響力が強すぎるせいで、その行動に周りが勝手に振り回されることもしばしば。
だがナギは、一度として故意的に他人へ害意を向けたことはなかった。彼の行動で迷惑を被る人は自分も含めそれなりにいたが、あくまでもそれは、彼にとって想定外のことだった。
ナギは馬鹿みたいに、素直に自分のことしか見ていない。
それは今もなおそうだ。
ルキアにヤキモチを焼いた時、ナギは決してルキアに危害は加えなかった。ルキアが眠るまでは、ちゃんと自分を兄でいさせてくれた。
単純にそういう頭がなかったのかもしれないが、それでもあの時のことを、自分は高く評価している。
「いいんだよ。別にオレのこと疑ったって。」
ユキは声の調子を落とした。
「あいつは今まで、人を疑うことも信じることもなかったんだ。そういうのは、これから少しずつ覚えていけばいいんだよ。それで十分だ。急がなくても、今のあいつならきっと、大事だと思えたものを大事にできるようになる。今はそう信じられるから。」
頭脳と違って、人の心は突然物分かりよくなんてならない。心を持って生まれた人間である以上、それはきっと天才であるナギだって変わらないはずだ。
今まで他人を見ることすらしなかったナギだ。今こうしてトモやエヴィンの言葉に悩まされていることが、どれほど大きな進歩か。それで自分を疑うことになっているとしても、それはとてもいいことじゃないか。
だって疑うということは、心のどこかに信じたい気持ちがあるということだから。
今はそれでいい。
次は、信じてもいいんだと自分やトモが証明してやる番だ。
「ユキ先輩…なんで、そんなに……」
エヴィンが顔を歪める。
語るユキの表情に湛えられた穏やかさ。
そこには、明らかな優劣の差があったのだ。
その証拠に。
「さて。」
一度目を閉じたユキがまた目を開く。
そこに、先ほどまでの穏やかさはなかった。
「こういうことするの、お前の思いどおりって感じで嫌なんだけどさぁ…。一回だけ、応えてやるよ。」
ユキは胸倉から手を離し、その手をそっとエヴィンの顎先へと滑らした。
「―――へっ⁉」
素っ頓狂な声をあげるエヴィンの顎先をぐっと捉えて上向かせるユキ。
「いいか? 金輪際、くだらない理由であいつを蹴落とすんじゃねぇぞ。」
互いの息すら交わりそうな近距離で、ユキは静かな口調で命令する。
もうやめだ。
喜ばれるからといって我慢するのも馬鹿らしい。
お望みとあらば、やってやろうじゃないか。
それがきっと、一番効果的にこいつを黙らせる手段だ。
「いくらどうしようもない駄犬でも、主人の命令くらいは理解できんだろ?」
「………っ‼」
エヴィンが途端に顔を真っ赤にする。
そんな彼に、ユキは心底蔑んだ冷ややかな一瞥をくれてやる。
「オレにここまでやらせるとか、お前何様なの? こっちが黙ってりゃつけあがりやがって、随分といいご身分だな。いつからそんなに偉くなったんだ? ええ?」
「あ、う……」
ぷるぷると震え始めるエヴィン。
ユキは容赦なく言葉のナイフを投げつけ続ける。
「お前みてぇな変態に付き合う時間がもったいねぇ。一度しか言わないから、よく聞いとけ。」
ユキはエヴィンの顎先を掴む手に力を込めた。
「オレに用があるなら、オレだけにかかってこい。それならまぁ……気が向いたら、相手してやるかもなぁ?」
「あわわわっ、ユキ先輩…っ」
「余計なこと言わずに返事は?」
「は、はいっ‼」
頬を上気させ、エヴィンが何度も首を縦に振る。
「そう…」
静かに言い、ユキはエヴィンの耳元にそっと口を寄せる。
「―――お利口さん。」
とびきり甘い一言が、エヴィンにとどめを刺した。
★
(どうしよう…どうしよう……)
寒空の下をナギは走る。
(俺……今、何考えてるの…?)
分からない。
何も分からない。
ただ胸が潰れそうなほど苦しくて。
あそこにいるのが嫌で。
訳も分からず飛び出してしまった。
この心がどこに行きたいのかが分からない。
でも立ち止まってもいられない。
立ち止まったら、怒涛のように襲いくる闇に何もかも黒く塗り潰されてしまいそうで。
(もう……誰か、俺を消して…っ)
心が悲鳴をあげる。
「―――ナギッ‼」
誰かが自分の名前を呼ぶ。
次の瞬間、後ろから強く抱きすくめられた。
「よかっ…た……とりあえず、敷地内には…いた、な……」
耳元でほっとした声が囁かれ、次に肩から温かいコートがかけられる。
ふんわりと香ってくる大好きな人の匂い。
無意識に体から力が抜けた。
(追いかけて…きて、くれたんだ……)
じわりと涙が込み上げてくる。
きっとユキは、あのままエヴィンを優先してしまうと思っていた。
だから、今後ろにある温もりが本当に嬉しくて。
ナギはそろそろと後ろを振り返る。
そして―――涙を引っ込めて瞬きを繰り返すことになった。
「ユキ……なんで、そんなに顔真っ赤なの?」
外灯で仄かに照らされるユキの顔。
びっくりするくらいに真っ赤だった。素肌が白いだけに、暗がりでもよく分かる。
「いや、その……」
ひどく狼狽えた様子のユキは、口元を手で覆うとその場にしゃがみ込む。
「死ぬほど走ったから……って、ことにしといてくれ。」
「え…?」
「いいから。」
頼む。これ以上は突っ込むな。
ユキがそう態度で語る。
事実、自分でも状況の整理がついていなかったので、本当に突っ込んでほしくなかったのである。
(待って……いくらキレてたからって、なんであんなこと…)
冷静になるほどに焦る自分がいる。
確かにエヴィンがしたことは、自分が嫌いなことではあった。相手がエヴィンじゃなくても不快だっただろうし、度が過ぎれば今回のように怒りを露にしたことだろう。
でも違うのだ。
ここで自分の気持ちを履き違えるほど、都合のいい思考回路はしていない。
今回自分が怒った原因は、そういうことじゃない。
(なんでオレ……ナギのことでこんなにキレてんだよ…)
自信を持って言える。
エヴィンの嫉妬の矛先がナギじゃなかったら、自分はここまで怒らなかった。
(オレにとって、こいつは何なんだ…?)
一人の相手にここまで感情ごと振り回されるなんて、今までならありえない。
だってそうならないように、誰とも距離感を調整してきたから。
なのに、それがナギ相手だと全然上手くいかない。
「ユキ…?」
黙ったユキにナギが不安そうな顔をする。
その顔を見た瞬間、ふと焦っていた気持ちが落ち着きを取り戻した。
(まあ今は……オレのことなんか、どうでもいいな。)
ユキは一瞬で気持ちを切り替える。
なんのために血眼になってナギを探し回ったんだ。
「―――ごめん。」
こうして、ちゃんと伝えなくてはいけないことがあったからだろう。
「お前がエヴィンから色々言われてたって、オレ知らなくて…」
そう言うと、何故謝るのかと怪訝そうにしていたナギの顔が一気に強ばった。それを見ただけで、エヴィンの言葉がいかにナギを苦しめていたかが分かる。
こんな簡単なことに気づけないなんて、まだまだ自分も甘い。
「まあ、結局あのド変態がお前に何を言ったのかは分からずじまいだけどな。あいつ、途中から惚けてまともにしゃべれなくなっちまったから。」
軽く息をつき、ユキはナギを真っ直ぐに見つめてその両手を優しく握ってやった。
そして。
「オレのこと、好きに疑えばいい。別に無理して信じなくたって構わない。」
伝えたかった言葉を音に乗せる。
ほんと、今さらのようなフォローで申し訳ないのだけど。
でも、伝えないという選択肢だけはないから。
「しょうがないんだよ。経験がないんだから、他人の何を信じればいいかなんて分からないだろう? 疑って、大丈夫だと思った部分からちょっとずつ信じていけばいい。どんなお前でも、お前はお前でしかないんだ。オレはいつだって、目の前にいるお前しか見ないよ。もう、決めつけや思い込みでお前を否定することだけはしない。」
「―――っ‼」
ナギが大きく目を見開く。
ユキは微笑み、ナギに向かって頷いた。
うっすらと涙を浮かべる茶色の双眸が、「本当に?」と問いかけているような気がしたのだ。
「それでオレも、いつだってオレのままここにいるだけだ。お前がオレを見て信じられないと思うならそれでいいし、信じてくれるっていうなら、オレもそれに応えられる人間であるように努力するよ。オレだけじゃない。トモだって、絶対にそう思ってる。」
これをナギがどう受け取るかは分からない。
どんなに自分が真摯に言葉を投げかけたところで、ナギ本人がそれに否と首を振ればそれまで。
伝えることは簡単だが、伝わるということはとても難しい。
でも、自分には伝えることしかできない。
だから今は好きなだけ疑えばいい。
疑う必要はないんだということは、時間をかけて行動で示していこう。
「今は、これじゃ満足できないか?」
優しくナギに問いかける。
ナギはしばらく黙っていたが、やがてこくりと小さく頷いた。
「大丈夫…。」
まだ無理はしているようだが、嘘はついていないらしい。
ナギの様子からそれを感じ取り、ユキはほっと肩から力を抜いた。
「そっか。よかった。」
とりあえず、もうこれ以上ナギが暴走するということはないだろう。
ユキは立ち上がり、うつむくナギの頭をなでる。
「………ごめんなさい。」
聞き取るのも難しいささやかな声が聞こえてきた。
「ほんとにな。」
気を遣わせても意味がないので、ユキはナギの謝罪にわざとらしく肩をすくめてみせる。
「もう疲れたよ。最近のお前、落ち込んだり突っかかってきたりで気分の起伏が激し過ぎんだもん。さすがに外に飛び出された時は肝が冷えたぞ。」
「ううう…だってぇ…」
「だって、なんだよ?」
「………」
「ここまできたら言っとけ。聞くだけは聞いてやるから。」
「だって…」
ナギがぷう、と頬を膨らませる。
「なんか、不安だったんだもん…。ユキって、俺にだけ態度違うから。」
第一に言われたことはそれ。
「うえ…そ、そうか?」
実は最近、自分もちょっとそう思う時がある。
自覚があった手前、ナギに訊ねる自分の声が妙にトーンを外してしまった。
「そうだよ。ユキっていっつも難しそうな顔してて無愛想だけど、ある程度仲良くなった人にはちゃんと笑うじゃん。」
「いやまあ、それは人によるというか、ケースバイケースというか…」
「それはそうかもしれなけど、だから余計に不安だったの…」
ナギは羽織っているユキのコートをぎゅっと握った。
「だって、ユキは…俺のこと嫌いだったわけでしょ? 俺に笑ってくれないのは、やっぱり俺がまだ嫌いだからなのかなって…」
「それは…」
「だって、エヴィンですらすぐにユキの笑った顔見れてたんだよ! ユキに笑ったつもりがなかったんだとしても、あれはどっからどう見ても笑ってたもん。そんなの、不安になるじゃん…。ユキっていつも、自分のことは全然話してくれないんだもん。」
「うっ…」
ナギの指摘が胸にぐさぐさと刺さる。
おっしゃるとおり。今回は、自分があまりにも言葉足らずだったと思う。
「それは、悪かったと思ってる…」
申し開きようもないので、ユキは素直に謝った。
「聞くだけ聞いてくれるんでしょ? だったら言うだけ言う。」
ナギがこちらの腕を引いてずいっと詰め寄ってくる。
「なんで? 嫌いじゃないなら、なんで俺にだけずっとつんけんしてるの? なんで笑ってくれないの? 俺がどんだけユキのこと見て考えたって、ユキが自分のことを話してくれなきゃ、何が正しくて何が間違ってるのか分からないじゃん。」
「……う………」
「ユキ! 逃げないでよ! ちゃんと教えて!」
「………」
押しに押され、ユキは弱った顔をする。
ナギは自分の価値観に問いを投げかけているわけじゃない。
今この問いを投げかけられているのは、価値観よりもずっと深いところ―――自分の心そのものだ。
(また…)
ユキは奥歯を噛む。
『おれらはユキが引いた線なんて簡単に越えてやるんだからな。』
トモにそう言われた時と同じ。
本能的な恐怖でこの場から逃げ出したくなる気分だ。
嫌だ。言いたくない。
言わない方がいい。
ただでさえナギとの距離感はぶっ壊れているのだ。これ以上それを壊して、彼を近づけてどうする。
「ユキ。」
ナギは引かない。
「―――言ってよ。お願いだから。」
その瞳と言葉に込められた力強さと真っ直ぐさ。
どうしてもそれに勝てなかった。
「……仕方ねぇだろ…」
ユキは気まずげに視線を逸らす。
「お前を見てると、危なっかしくてひやひやすんだよ。」
つまりはそういうことなのだ。
一言発すれば諦めもつく。
ユキは溜め息混じりに自分の気持ちを話した。
「お前は、何も知らなすぎるんだよ。人の心とか、そういうことをさ。なまじっか根が無駄に真っ直ぐなお前のことだから、建前とかその場しのぎとか、悪意的な嘘とか、そういうの見分けがつかずに全部真に受けるだろう? 今回みたいにさ。それが心配っていうか、見てらんないっていうか……他人事みたいに笑って「頑張れー」とか、そんな無責任に突き放せねぇよ。お前って、ほんとにオレの言うことしか聞かねぇんだもん。オレしかこういうこと教えられないってなれば、そりゃ言い方がきつくなるってか、説教くさくもなるって。」
故意的に笑わないんじゃない。
単純に、心配の方が先行して笑えないのだ。
ナギの心の拠り所が他にあったならまだ気楽だった。
でもナギの心の拠り所は、今のところ自分の傍にしかないわけで。
それが分かっているから、どうしてもナギのことを放ってはおけなくなる。余計な世話かもしれないと思いながら、無駄な説教ばかりしてしまうのだ。
本当、トモの言ったとおり。
理性のせいで完全に逃げ場をなくしている。
完全にドツボにはまり込んでしまっているじゃないか。
「………」
こちらの発言が心底意外だったのか、ナギがつぶらな目を零れんばかりに大きくする。
やがて小さくその体が震え始めた。
そして―――




