14時間目 全てが変わったのは――
何も考えたくなくて、そのまま寮に帰った。
部屋に入ると、無償で支給された最新式のパソコンが勝手に立ち上がる。それを無視して反対側にあるベッドの上に携帯電話を放り投げ、次に自分もそこへと飛び込む。
携帯電話では着信を告げるライトが明滅していて、パソコンの画面にも大量のメールが。
自分の生活はいつもこう。常に誰かが何かを注文してきて、自分はそれをただ機械のようにこなすだけ。それ以外のことなんてしない。注文されたものをこなして結果をサーバーに置いておけば依頼主が勝手に処理をするし、お金や権利に関わるあれやこれやも、あの人たちが全部好きなようにやっている。
依頼の報酬はちゃんと入ってきているらしいが、興味もないので通帳はろくに見ていない。天才という名声だってどうでもいい。
だってそんなの、あるのが当たり前だから。
できるのが自分にとっての普通。
あらゆる面において頂きに立っているのがあるべき姿。
だから、できることを認められなどしない。
そして、できないことはひどく責められる。少しの失敗も許されはしない。
あの人たちは、平然とそれを押しつけてくる。
仕方ない。
自分はそういう存在だから。
それが普通だったのに。
―――ユキに出会ってから、全てが変わってしまった。
初めはほんの興味。唯一自分を毛嫌いするユキが気になって仕方なかっただけ。
でも接すれば接するほど、ユキにどんどんのめり込んでいってしまった。
天才と囃し立てるどころか、逆に馬鹿と貶してくるユキと話すのが楽しくて仕方なくて。全力で嫌がるくせに、全力で逃げはしても決して無視はしないユキの反応がとても嬉しかった。
『オレは別にお前に成功なんて求めねぇし、頑張った上で転んだんだったら責めない。』
楽しい生活を一変させたのは、何気ないユキの一言だった。
本当にこの人は自分のことを天才として見ていないんだな、と。
そう実感するには十分な一言だった。
そこからはきっと、どこかユキにすがるようになっていた自分がいたんだと思う。
その頃の自分は、ユキに言われて周りを見ては、ユキと比べて落胆を繰り返していた時。周りを見るほどに、ユキという存在がいかに稀有かを思い知っていた時だった。
そんな時にあの言葉はずるいと思った。
ああ、どうせならユキの隣にずっといたい。
怒られるのも殴られるのも、それだけユキが自分個人を見てくれているんだと思えて心地よかった。
ちょっと我が儘を言ってみると、嫌な顔をしながらもなんだかんだと要望を叶えてくれて、仕方ないなと困るユキを見るのがなんだか好きだった。
どんどんユキに依存している自分をどこかで自覚はしていたけど、だからといって気持ちを止めることはできなかった。
気持ちを止められたとしたら、ルズたちがユキと話していたあの時。
自分は違う世界の人間だから最初から理解できないし、頑張ったところでどうせ同じ場所には並び立てない。
ルズがユキに言ったことは、今まで散々裏で言われてきたこと。
別に今さらどうこうは思わなかったけど、ユキがルズの言葉を認めた時はちょっとショックだった。
『―――でも、あいつの心と体はオレらと同じ世界にしかないよ。』
ユキの口から当然のように紡がれたあの言葉。
ショックを受けた後だったからこそ余計に、あの言葉はとてつもない衝撃を自分に与えた。
人間は大体、本人がいない所で語ることこそが本心。
そんなこと、さすがに自分でも分かる。
ならばユキのあの言葉は、嘘も見栄もない根っからの本心ということで…。
惚れるな、なんていうのが無茶だと思う。
大好きになってしまった。
手放したくなくなってしまった。
あの時から自分の世界はユキ一色で、もうユキ以外のことなんて考えられなくて。
だからこそユキに拒絶された時は本当にショックだったし、その後トモからユキが死にかけていたことを聞いた時は目の前が真っ暗になった。
こんな才能なんて要らない。
生まれて初めて自分の能力を恨んだ。
そして理事長すらも巻き込んだ大事件があって、それが自分との関係を切らないためにユキが仕組んだ策略だったと知った時―――
もう自分にはユキしかいない。
そう思った。
今日は昨日よりもっと。
明日は今日よりもっと。
一日過ぎれば好きが募る。
一日過ぎればもっと欲しくなる。
自分でもコントロールが効かないこんな気持ち、今まで持ったことなんてない。
(どうすればいいのか…分かんないよ……)
ナギはベッドの上で丸くなって膝を抱える。
そんな時間がどれくらい過ぎた頃だろう。
ふいに、インターホンの音が室内に鳴り響いた。
「………?」
誰だろう?
ナギは気だるげに体を起こし、のろのろと玄関へと向かった。
「え…」
ドアと開け、ナギは目を真ん丸にする。
「よかった。誰に聞いても知らないって言われたから、どこ行ったのかと心配したじゃねぇか。」
廊下に立っていたユキは、ナギの姿を見るとほっと安心したように表情を和ませた。
「ユキ、どうして…バイト、七時までだよね?」
慌てて携帯電話の画面に目を向ける。
時刻は六時半。本来ならユキはまだバイト中なはずだ。
「早く上がらせてもらったんだよ。ちょっと買い物に行きたかったから。」
手に持っていたビニール袋を掲げたユキは、くいっと廊下の向こうを指差した。
「部屋にいるってことは暇なんだろ。ちょっと付き合えよ。」
「え…」
「夕飯、食うだろ? 確かお前、この前ハンバーグ食いたいとか言ってたよな?」
「う、うん……え、もしかして、作ってくれるの?」
「そうじゃなきゃ、お前を呼びに来る意味ないだろ。」
何を言っているんだ、と言いたげに首を傾げるユキ。
「なんで…」
ナギはぱちくりと瞼を叩く。
ユキが自分から夕食に誘ってくるなんて、明日は季節外れの台風だろうか。
「あー…まあ、あれだよ。」
ユキが少し気まずそうに頬を掻く。
「この間言い過ぎたから、その詫びってのが半分。」
「……もう半分は?」
「お前の様子が変だったから、気になって。」
「………っ!」
心当たりがあるナギは大きく目を見開く。そんなナギの頭をユキがそっとなでた。
「まあ、最近ろくに話も聞いてやれてなかったしな。今日はちゃんと時間作るから、吐き出したいことがあるなら、今の内に吐き出しとけ。」
先ほどの気まずげなユキはどこへいったのか。
今こうやって気遣わしげな言葉をかけてくれるユキは、素直に心配そうな顔をしていた。
(気づいて…くれてたんだ……)
頬に熱が集まるのが分かる。
ユキはずるい。
こういう時、本気で思う。
いつもいつも怒ってばかりで厳しくて。
優しくなんてしてくれないし、笑ってもくれないのに。
こんな時になって、ぶっきらぼうでも直球で向かい合ってくれるなんて。
天然の飴と鞭使い。
トモが端的にユキをそう表現した気持ちが痛いほど分かる。
「ほら、早く行こうぜ。」
「あ、うん…!」
先を歩いていくユキに頷き、ナギは部屋の鍵を取ってからその後ろについていく。
珍しいことに、キッチンルームに行くと、こういう時は必ず張りついているトモがいなかった。
訊いてみたら、後で差し入れを持っていくことを条件に今日は遠慮してもらったとのことらしい。
「あいつ、最近いつもオレたちの間に入ってばっかで立場も複雑だろうし、少しは休ませてやった方がいいだろう。オレたちの問題は、ちゃんとオレたちで解決するべきだと思うしな。」
手際よく食事の支度をしながら、ユキはそう語った。
相変わらず、他人のことをよく見ているユキだ。今は自分のことで大変だろうに、こちらのこともトモのこともしっかり見ていて、ささやかな変化を丁寧に拾ってくれる。
こんな彼に救われた人は自分だけじゃないのだろう。複雑だが、彼に人が集まる理由はよく分かる。
お前の気持ちは無下にしないよ、と。
表情や言葉以上に、目と態度がいつも語っている。
だからいつもそれに甘えてしまって…。
だからこそ、今は彼と何をどう話せばいいのか分からない。
よく見て、よく考えて。
それが人を気遣うってこと。
ユキが普段から当然のようにやっていること。
それが自分にはこんなにも難しい。
(俺にも…できないことって、あるんだな……)
生まれて初めて感じる壁。
こんなこと、あの人たちが知ったらどう言うだろう。
有象無象のことなんて、そんな無駄なことは考えなくていい。
そう言われそうだ。
でも今の自分にとって、これは無駄なことなんかじゃなくて。
「ねぇ、ユキ……俺って、ユキの負担になってる?」
気づけば、苦しさから逃れたいあまりにそう口走っていた。
「え…?」
ユキが目を丸くする。
「何、お前…そんなこと考えてたの?」
本気の本気で驚いている顔だ。野菜を切る手が完全に止まっている。
「だって…」
言ってしまったが最後だ。
発言を選ぶなんてことは諦め、ナギは思っていることをそのままユキにぶつけた。
「俺、気遣いとか、そういうの全然分かんないし、できないんだもん。もうちょっとユキのこと考えてあげてって言われても……ユキが疲れてるの知ってたところで、俺が何をすればいいのかなんて分からないし…もし俺自体が邪魔だって言われたらどうしようとか……色々考えてたらもうよく分かんなくなって…」
言いながら気づいた。
あんなにもユキに対する発言や行動に心が怯えていたのは、ユキにまた拒絶されたくなかったからだ。
オレはお前のもんじゃない。
ああ言われた時と同じ顔で「お前なんか要らない。」なんて言われたら、もう立ち直れる自信がない。
「………」
ユキは黙って自分の手元に視線を落としている。
長い沈黙。
それに不安が煽られて言葉を連ねようとした瞬間、ユキの体が微かに震えていることに気づいた。
「……ユキ、もしかして笑ってない?」
おそるおそる訊ねると。
「ご、ごめん……その…い、意外すぎて……」
ユキは途切れ途切れにそう返した。
そして一言でも発したのが引き金だったのか…
「わり、無理……ふふっ…あははははっ!」
包丁をまな板の奥に置き、ユキは腹を抱えて大笑いし始めた。
「なっ…なんで笑うの⁉ 俺、変なこと言った⁉」
「い、いや…だって……」
一体何がそんなにおかしいのだろう。
ユキは全然笑いを収めてくれない。
「色々考えてたって…考えてた上であんな行動になってたのかと思うと、もう……やっぱお前、馬鹿だなって…コミュニケーション下手くそすぎんだろ……くくっ…」
「………っ‼」
あまりにもユキが笑うので、ナギは顔を真っ赤にしてしまう。
「んなこと言ったって、できないものはできないんだもん!」
「そう、だな……そうだったな。まったくもう!」
「わっ」
ユキの手が伸びてきて、力強く頭を掻き回していく。
「―――成長。」
柔らかい微笑みで、ユキはナギにそう告げた。
「前も言ったろ? どんな悪いことでも、まずはそれに気づけたことが大きな成功だって。できないって気づいて、それでもどうにかしようと頑張ったんだろ? 今はそれで十分だ。」
「ユキ…」
ナギは眉を下げる。
「……怒らないの?」
「なんで?」
ユキは心底不思議そうにそう返してきた。
「これも言わなかったっけ? 頑張った上で転んだんだったら責めないって。」
「そりゃ、確かにそう言ったけど…」
「オレは自分の発言にくらい、ちゃんと責任は持つよ。」
軽く首を傾げ、ユキはナギと目線を合わせる。
「こればっかりは場数を踏むしかないからな。今の内に、散々オレで失敗しとけ? そんでオレで失敗した分、トモや他の奴らに優しくできるようになればいい。悪いけど、お前の全部が負担じゃないとは言ってやれない。でもな、お前の存在自体が邪魔だって思ってはいないよ。」
「―――っ‼」
息が詰まった。
ユキは続ける。
「初めは思ったように動けばいい。嫌だったら嫌だってはっきり言うし、時と場合によっては殴る。安心してぶつかってこい。ここまで来たら、相当なことがない限り見捨てはしないから。」
ああもう、どうして…
ナギは目元を歪める。
ユキの一言一言が、自分の中に今までなかった温かさを落としていく。
ユキはどうして、こんなにたくさんの宝物を自分にくれるのだろう。
どうして自分が欲しいと思っている言葉を、こんなにも迷わずにくれるのだろう。
自分は何もまだ言ってない。
まだ何も求めていないのに…。
ユキはいつだって自分のことをよく見て、そして自分の気持ちに寄り添おうとしてくれている。
トモの言葉の正しさを実感する。
そして、実感すると同時に胸が苦しくてたまらなくなった。
(ユキは俺のことを見てくれるのに、俺は…?)
脳裏にひらめくのはエヴィンとのやり取り。
あの時、自分から見たユキがどんな人か澱みなく言えるかと問われて、何も言えなかった。
ユキは自分にとって唯一で特別な存在。
自分が初めて心から欲しいと、独り占めしたいと思った存在。
そういうことはすぐに言える。
だけど…。
『でもその気持ちは、一方的にユキに押しつけていいものじゃない。』
『自分を押しつけるだけなら、子供にだってできます。』
トモとエヴィンの言葉が自分を縛る。
どこからが押しつけになるのか分からない。
ユキはどこまで受け止めてくれる?
この気持ちを伝えてはだめ?
好きだって。
欲しくてたまらないって。
そう伝えたら、ユキは困る?
「……どうした?」
ユキがふと微笑みを引っ込める。
それは紛れもなく、自分の異変を感じ取っての変化だった。
「ユキ…」
ナギはそろそろと手を伸ばす。
助けてほしい。
この苦しみから、救い出してほしい。
だから―――
「おっじゃましまーっす‼」
底抜けに明るい声が飛び込んだのはその時。
「はぁ…」
ユキが思い切り溜め息をついた。
「何しにきた。」
「ユキ先輩、相変わらず塩対応っすねー。」
キッチンルームに入ってきたエヴィンが、ナギを通りすぎてユキの隣に並ぶ。
「いい匂いがしたから、きっとユキ先輩が料理してるんだろうなーって! ……おお、ハンバーグっすか‼」
「ああ、開けるなアホ! せっかくじっくりと火を通してるとこだったのに‼」
フライパンの蓋を開かれたことに気を取られたユキは、あっという間にそちらへと向かってしまう。
「うわぁ、いい匂いっすねー。これ、全部ユキ先輩のお手製っすか⁉ ソースとかも⁉」
「さすがに平日にそんな時間ねぇよ。市販のやつにちょっと味足しただけ。」
「時間がなくともアレンジは加えるんすね! ユキ先輩って結構懲り性っすよね。好きになったら極めたいタイプっすか?」
「ああ? ああ…どうなんだろ。もしかしたらそうかもな。」
「ん…でふよねー。」
「ああっ‼ お前、何しれっと食ってんだよ⁉」
「ええー、たくさん焼くからいいじゃないっふかー。」
作業台の皿に乗ったハンバーグを指差したエヴィンは、次にユキに向けて親指を立てた。
「超うまいっす!」
「そりゃどうも! そういう問題じゃねぇけどな!」
ユキは慌ててフライパンの中を見る。
「火は……通ってる、な? まったくもう、まだ火が通ってるか見てなかったんだぞ⁉ 生焼けで腹でも壊したらどうする⁉」
「うわぁ、ユキ先輩が心配してくれるなんて!」
「それとこれとは別問題だ!」
「潔い‼ やっぱユキ先輩好きっす‼」
「知るか!」
テンポのいいやり取りを交わす二人。
ナギは何も言えないまま、それをただ見つめるしかなかった。
あっという間にユキを取られてしまった。ごく自然な流れで、ユキに拒絶させる間も、自分が割り込む間もなく。
(ああ、そっか…)
唐突に理解した。
どうしてユキは自分だけにいつもきつく当たってくるんだろう。
何も分からなくて、衝動のままそうユキに問い詰めたけど。
理由なんて、初めから明らかだったじゃないか。
(スタートラインが〝嫌い〟じゃないって、こんなにも違うんだ。)
消したくても消せない事実が心を襲う。
それを拒絶する術なんてなくて……
「――――――ナギ?」
ユキの茫然とした声が耳朶を打つ。
反射的に顔を動かして、その瞬間手の甲に何かが落ちた。
「あ、れ…?」
手に落ちた水滴は、自分の頬を伝ってきたもの。
そこで、初めて自分が泣いていたことに気づいた。
「なんで…」
口元を覆うナギ。
何が起こったのか分からない。
自分が涙を流しているという事実を、今の心は受け止めきれなかった。
「ご、ごめん‼」
ナギはたまらずキッチンルームを飛び出す。
「ナギ‼」
ユキの呼び声ですら、その時は耳に入らなかった。




