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13時間目 そこは、俺の場所なのに…

 扉の向こうでは、楽しくはなさそうだが賑やかにやり取りを交わす三人の姿。

 それを、ナギは一人遠目に見ていた。

(どうしよう、入っていけない…)

 ぎゅっと胸のあたりが苦しくなって、シャツの袖を握る手に力がこもる。

 入っていけばいい。

 今までのように、周りなんて気にしないまま、自分の興味だけで動けばいいじゃないか。

 そう思うのに、体が全然言うことを聞かなかった。

(そこは、俺の場所なのに…)

 エヴィンが笑って立っている位置は、ほんのちょっと前まで自分が当然のようにいたはずの場所。

 取られたくない。

 だってあそこは、自分が唯一心から笑っていられる場所なのだから。

 でも―――


『オレはお前のもんじゃない!』


 ユキの言葉が鋭利なナイフのように心に突き刺さっている。

 言われればそれは当然のこと。ユキはユキ自身のものでしかなくて、本当なら誰の言うことも―――自分の言うことだって聞く必要はない。そんなの、今まで誰の言うことも適当に聞き流して、適当に対応してきた自分が一番よく分かっている。

 分かっているけど…。

 ナギは奥歯を噛み締める。

『不満があるってことは、何か希望があるってことだと思うよ。ユキとやりたいこととか、ユキにしてほしいこととか。』

 あの日のトモの言葉が、残酷に自分の気持ちを露わにしていく。

 ユキには自分しか見てほしくない。

 ずっと自分の隣にいてくれなきゃ嫌だ。

 ユキの怒った顔も笑った顔も、他のどんな顔も、全部独り占めしてしまいたい。

 オレはお前のものじゃないと言われても、彼は自分のものなんだと声を大にして言いたい。

 ああやってユキを欲しがる人がこの先も大勢出てくるというなら、いっそのこと彼をどこかに閉じ込めて、自分以外の人の目になど触れないようにしたい。

 閉じ込めるなんて、やろうと思えば簡単なことだ。

 でもそんなことできるわけがない。

 ユキがそんなことを許すわけがないから。

 ユキには―――ユキにだけは、嫌われたくない。

 普通も嫌。

 好きだって、そう言ってほしい。

 そうじゃなきゃ満足なんてできない。

 今はユキが自分のことを好きじゃなくてもいいだなんて、あんなの真っ赤な嘘だ。

(欲しいって、こんなに苦しいことなんだ…)

 何かを欲しいと思ったことがなかったこれまでの世界。

 ユキにそんな世界から連れ出してもらって、色んなことがあって。

 今はちょっとだけ、これまでの世界がものすごくつまらなかったんだと実感する時がある。

でもこんなにも胸が苦しくなるなら、つまらないあの世界にいた方がよかったかもしれないと、そう思いもする。

 ―――あの世界に戻るなんて、今さらどう足掻いたって無理だけど。

(もう、戻れないよ…)

 胸が引き潰れそうで、泣きたくてたまらなくて、心が苦しいと叫んでいるのに。

 それでもユキといたい。

 ユキといられるなら、そこがどんな地獄でも構わない。

 どんなに考えを巡らせたって、最後にはそう思ってしまうのだ。

「あれぇ、ナギ先輩じゃないっすか。」

 突然声をかけられたのはその時。

 ふと声の方に顔を向けると、屋上から戻ってきて階段を下りかけていたエヴィンが驚いた顔でこちらを見ていた。

「あ…」

 緑色の瞳と目が合って、彼への不満で胸がざわつく。

 かといって、今自分が彼にぶつけられる言葉もなくて。

「どうしたんです? 行かないんですか? まだお二人、いらっしゃいますよ?」

「………」

 不思議そうな顔でそんなことを言ってくるエヴィンが憎たらしい。

 どうして彼はこんなにも余裕でいられるのか。

 自分はこんなにも不安で仕方ないのに。

 そんな気持ちが喉に絡んで、唾を飲み込むことですら許してくれなかった。

「……ふぅーん?」

 ナギの様子を窺っていたエヴィンが不敵に微笑む。

「なるほど。行かないんじゃなくて、行けないんすね?」

「―――っ‼」

 核心を突かれ、ナギはびくりと体をすくませる。そんなナギの反応から確実な手応えを掴んだエヴィンは、謳うように言葉を紡いでいく。

「そんなに自信がないっすか? なんでもできる天才って聞いてたけど、案外大したことないんすね、先輩。」

「………」

「そんなにユキ先輩のことが不安ですか?」

「………っ」

 ナギは思わず目を閉じた。

 言わないでくれ。

 そんなこと、聞きたくない。

 認めたくないのに…。

 しばらく無言でナギを見つめるエヴィン。

「―――……」

 ふと、その目に宿る感情が温度を下げた。

「なんか無性に不愉快なんで言いますけど、ナギ先輩、ユキ先輩の何を見てるんですか?」

「………え…?」

 その問いかけに、ナギは閉じた目を開く。

 そこに立っているエヴィンは、いつになく険しい顔をしていた。

「ずっと様子を見ていましたけど…ナギ先輩、ユキ先輩のこと何も信じてあげてないんですね。」

「そんなこと…」

「ないですか? 自分からは全然そうは見えません。」

 エヴィンはきっぱりと言い切った。

「ユキ先輩ほど実直な人もいないっすよ。あの人は一度受け入れたら、そうそう見捨てはしません。本当に、本気で他人を大事にする人です。そりゃ、初めは嫌われてたかもしれないですよ。でもナギ先輩には、ユキ先輩と友達として過ごしてきた時間がちゃんとあるんでしょう? だったら少なくともナギ先輩は、ユキ先輩にちゃんと受け入れてもらえてるじゃないっすか。自分にはない、圧倒的な優位性っすよ、それ。お聞きしますけど、ナギ先輩から見たユキ先輩はどんな人なんです? 澱みなく言えますか?」

「それは…」

「言えないじゃないっすか。」

「………」

 とうとう何も言えなくなるナギ。

 エヴィンは不快そうに息をついた。

「自分を押しつけるだけなら、子供にだってできます。受け入れてもらえてるんですから、ユキ先輩のことをもう少し考えてあげたらどうです? なんでユキ先輩は自分よりも…」

 何かを言いかけ、エヴィンは「いや…」と言葉を選び直した。

「ま、もういいっすよ。どうせこのままじゃ、その内愛想も尽かされるでしょうし。」

 愛想を尽かされる。

 その言葉にナギが怯えた表情をする。

 エヴィンが最後にナギへと向けたのは、余裕綽々としたずる賢い笑みだった。

「ユキ先輩、何が何でも自分がもらいますから。ユキ先輩押しに弱そうなんで、今は押し一手で攻めてますけどね。ちゃんとした意味でユキ先輩に受け入れてもらえたら―――その時は、ユキ先輩が自分から離れられなくなるよう、べた惚れにさせてやります。あなたになんか、返してあげないっすからね。」

 その宣戦布告は二度目。

 一度目は無理にユキの唇を奪ってまで敵対心を燃やしたけれど。

「………」

 どうしてこんなにも不安で、何も言い返せないのだろう。

 ナギはただ、唇を噛んで眉を下げるしかなかった。



「……おい。」

「………」

「まだ拗ねてんのか?」

「………」

「ナギ」

「………」

 再三のユキの呼びかけにもかかわらず、ナギは席に座ってうつむいたまま。

 しばらく根気強く待っていたユキだったが、ナギが一向にこちらを向く気配がないと知ると早々に息をついた。

 ナギの隣の席に座るユキ。

 そして。

「―――悪かったって。この間はきつく当たりすぎた。」

 特にナギの反応を待たず、ユキはナギの頭にぽんと手を置く。

「言葉が少なすぎて不安にさせたなら謝る。今はそれなりに、認めるところは認めてる。……嫌いとまでは思ってねぇよ。」

「―――えっ…」

 そこでナギが慌てて顔を上げる。

 しかし。

「ユキ、ちょっといいか?」

 その時、教室のドアから担任がひょっこりと顔を出した。

「あ、はい。」

 ユキはすぐに立ち上がり、ナギの頭を二度三度軽く叩いてそこを離れていった。担任の手伝いの後にそのままバイトへ行くつもりなのだろう。一度自席へ戻ったユキは、てきぱきと帰り支度を整える。

「ユキ…っ」

 ナギが手を伸ばすが、ユキはあっという間に担任とともに教室を出ていってしまう。とっさに後を追いかけて教室を出るも、ユキの背中はどんどん雑踏の向こうへと小さくなっていく。

「やだ…ユキ……」

 ナギは大きく顔を歪めた。

「そっち行っちゃ、やだ……」

 どうして?

 いつもは自分が落ち込んでいると、すぐに傍に来てくれるじゃないか。

 どうして今は、逆に離れていってしまうの?

 こんなにも、こんなにもつらくてたまらないのに……

「行かないで…」

 声が届かない。

 届けたいのに、喉も足も動かない。

 ユキはどこまで許してくれる?

 ユキはどこから嫌がってしまう?

 それが分からなくて、怖くてここから動けないのだ。

 周りのくだらない人々のことなら計算で割り切れるのに、どうしてユキのことはこんなにも見えないのだろう。

「ユキ…」


 泣きそうな声は、放課後の喧騒に掻き消されていく――。


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