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11時間目 募る苛立ち

 さて、今日もいつもと同じなら…。

 駆け足で廊下を抜け、ユキは事務室に素早く入り込んだ。

「お疲れ様です。」

「お疲れー。なんだか最近早いわねぇー。」

 いつものように元気な声で応えてくれるナミ。

「まぁ、色々とありまして…」

 最近の身の回りの状況を鑑みると、あっさりとした彼女の態度がなんと気楽でいいことか。

 ジャンパーに袖を通したユキはノートパソコンを取り上げると、ナミの元へと向かった。

「ナミさん、すみません。時期的に窓口は混まないですし、今日はちょっと奥で仕事させてもらっていいですか?」

「へ?」

「すみません、お願いします。」

 ナミの答えを待たず、ユキはそそくさと隣の備品置き場へと引きこもってしまった。

「あらやだ。あんな強引なユキ君も珍しいわねぇ。」

 閉ざされたドアを見つめ、事務室内の一同は不思議そうに首を捻った。

 その十分後。

「すみません!」

 事務室の窓口に飛び込んでくる生徒が二人。もちろんエヴィンとナギである。

「ユキ先輩って、もう出勤しました⁉」

 エヴィンに必死の形相で詰め寄られ、窓口に座っていたゴンはびくりと肩をすくませた。

「ユキ君ならもう来てるわよー。すぐに呼び出しくらって出ていっちゃったけど。」

 すぐにナミが助け船を出す。

 すると、それを聞いたエヴィンが悔しそうに頭を抱えた。

「あーっ! 今日も逃げられたっすー‼ ユキ先輩、自分がバイト中までは手を出さないからって…。最近、避けるの徹底しすぎっすよー‼ それもこれも…っ」

 エヴィンはキッと隣を睨む。

「何なんすか、ナギ先輩! 先輩が邪魔しなければ、ユキ先輩を捕まえられたかもしれないのに!」

「そりゃ邪魔するよ! ユキ捕まえて何する気だったの⁉」

 突っかかられたナギも負けじとエヴィンに言い返した。

「何って、少しでもお近づきになるに決まってるじゃないっすか! 下僕への道は一日にしてならず、なんすよ⁉」

「それ、この間ユキが却下って言ってたじゃん。もう十分仲良くはなってるんだから、いい加減その辺で自重したら⁉」

「先輩こそ、ユキ先輩と同じクラスで、たたでさえユキ先輩と一緒にいられる時間が長いんすから、こういうささやかな時間くらい可愛い後輩に譲ってくれたっていいじゃないっすか‼」

「エヴィンのことなんか、可愛くないもん!」

「あーあー、またそういう顔する! ナギ先輩って、案外狭量っすよね! そんないじけた顔しても―――うおっ⁉」

 突然窓口の窓が大きく叩かれ、エヴィンとナギの言い争いが止まる。

 窓を叩いたゴンは彫像のようなどっしりとした威圧感で二人を見上げ、そしてスッと小窓から二つに折られた紙を差し出した。

「えっと…」

 戸惑ったエヴィンがぎこちない動きで紙を受け取る。

「ご用がないならお引き取りを。あとユキ君に迷惑はかけないように…?」

 紙に記された小さな文字を読み上げるエヴィン。

「ごめんなさい。」

 即座に頭を下げたのはナギだ。

「行くよ。」

「え、ああ……どうも、お騒がせしましたっす。」

 ナギに腕を引かれて事務室を出る間際、エヴィンは思い出したように詫びの言葉を残していった。

 嘘のように静まり返る事務室。

「ははぁ…なるほどね。」

 ナミは備品置き場を見やる。

「一難去らない内にまた一難……ってところかしら。」

「表現が的確すぎますよ。」

 そこから半身だけ覗かせたユキは辟易としている。

「匿ってくれて、ありがとうございます。ゴンさんも、二人を追っ払ってくれてありがとうございました。……怖かったでしょう?」

 気遣わしげなユキの双眸。

 まさかあのゴンが窓を叩いてまで二人を止めるとは思ってもいなかったので、大丈夫だろうかと内心ひやひやしていたのだ。

「………」

 ゴンは今さらのようにぶるぶると震え始める。

 やはり本当は相当怖かったのだろう。二人から逃げるために奥に引っ込んだとはいえ、こういう時に真っ先に矢面に立たされるのがゴンであることを念頭に置くべきだった。

「……ら…」

 蚊が鳴くような小さな声。

「え…?」

 まさか。

 全員の視線がゴンに集中する。

「……ユ…ユキ君……が、こ、困って…る、なら…」

 顔を真っ赤にするゴン。

 途切れがちで、ともすれば外の喧騒に埋もれてしまいそうな声だったが、それは確かにゴンの口から発せられたものだった。

「おおっ!」

 ユキがぽかんと口を開け、他の人々が笑顔で椅子から立ち上がる。

「ゴンさん、すごい!」

「ちゃんとしゃべれたじゃない! みんな聞いた⁉」

「うんうん!」

「あ……、………‼」

 ゴンが信じられないというように自分の口元に手をやる。

「よくやった! 立派だったわよぉ‼」

 一目散にゴンの隣に立ったナミは、まるで自分のことのように喜んでゴンの背中をばんばんと叩いた。

「それにしても、意外といい声してるわねぇ。自信持ってもっと声出しなさいな。ゴンさんの気持ち、ちゃんとみんなに伝わったわよ。ねえ?」

 ナミが訊ねると、そこにいた皆が深く頷いた。

「………‼」

 ゴンが表情を明るくし、こくこくと何度も首を縦に振る。本当に嬉しそうな表情だ。

「それにしても、ユキ君の人気には困ったもんねぇ…」

「うぅ…す、すみません……」

 がらりと口調を変えたナミの言葉がダイレクトに胸を抉ってきて、ユキは気まずげに視線を逸らした。

「ってか、これってオレが悪いんですかね?」

 反射的に謝った後で思う。

「うーん…中途半端感はあるかもねぇ……」

 ナミは言う。

「ちょっと頑張って手を伸ばしたら届くかもしれないって距離なら、頑張る子は頑張っちゃうわよ。」

「中途半端…」

「いや、別にユキ君の態度がどうこうってわけじゃなくてね。なんて言うのかしら…逆の意味で身分不相応というか、今のユキ君の立場がユキ君には役不足っていうか…。」

「どういう意味ですか…?」

「ん~…」

 いまいちピンときていないユキに問われ、ナミは難しげに唸る。

 そして。

「うん。ユキ君、こうなったら芸能人にでもなってみない?」

 そんなことを提案してきた。

「何故…?」

 ユキは怪訝そうに眉を寄せるしかない。

 ナミの口から飛び出した言葉が突飛すぎていて、驚くことすらできなかったじゃないか。

「だって、ユキ君がただの高校生でいるのって傍から見ててもったいないんだもん。」

「そうですか?」

「そうなの。今のユキ君って、全品百円のワゴンの中にうん万の宝石が混ざってるようなもんよ。そんなお買い得品に気づいたら迷わず買うでしょ⁉ 争ってでも!」

「なんかたとえが絶妙に分かりやすくて複雑です…。」

「でしょ? あたしも上手いこと言ったと思ったわ。」

 別にそこまで褒めてはいないのだが…。

 ともかく、ナミの言いたいことは察せられてしまった。

 つまり…

「宝石は宝石らしく手の届かない宝石箱の上で輝いてた方が、無駄に争いを生まないじゃない。だからユキ君が有名人にでもなって高嶺の花になっちゃえば、ファンがけん制し合うから逆に動きがなくなるってわけよ。」

 要約するまでもなくナミが意見をまとめてしまった。

 それは確かに一つの手なのかもしれないが…。

 ユキは複雑そうな表情をするしかない。

「オレはそんな目立ちたくないんですけど…」

「目立ってるからこんな目に遭ってるんでしょうが。」

 正論が直球で返ってきてしまった。

 口をへの字にするユキに、ナミはさらに言葉を重ねる。

「顔よし、性格よし、頭よし、髪よし。文句のつけどころがないわよ?」

「髪…?」

「ああ、置いといて。」

「ええ…」

「とにかく!」

 ユキの突っ込みを遮り、ナミは大げさな仕草で腕を振ってユキを指差す。

「ユキ君は謙虚が過ぎる! もっと自分の魅力をフルに活用して! 無駄にオーラ放ちまくってるんだから、ここはもっと大胆かつ強引に! お前程度の奴が気安く触れられると思うなよって言うくらい暴君ぶっていいと思う!」

「うええ、何キャラですかそれ…」

 すみません。こっちは根っからの庶民でして、気安く触れるなと言う側よりも言われる側の方がしっくりくるんですけど。

 そんなユキの戸惑いが伝わったのか。

「ユキ君は故意的にそんなこと言えるタイプじゃないでしょ。」

「根が真面目だから、建前でそう言った後に絶対悩んでフォロー入れちゃうよ。」

「……! ………‼」

 他の皆がこぞってナミに意見する。

 これは褒められていると受け取っていいのだろうか…。

 ユキが微妙な顔をしていると。

「じゃが、需要と供給のバランスは大事じゃ。そういう需要があるなら、建前だけの態度が正解ということもあろう。建前も使いこなさなければ、上手く世の中を渡り歩いてはいけんぞい。」

 ふと後ろの窓が開いて、たっぷりと顎ひげを蓄えた老人がそこから顔を出した。

「あらぁ、ウォルトさん。いつから話聞いてたの?」

「ユキがそそくさと奥に引っ込んでいった時からかの。」

「それ最初から!」

 思わず声を大きくし、ユキは嫌そうな顔をしてウォルトを見やった。

「ほんと、噂を聞きつけるスピードは半端じゃないですね。」

 どうせ、自分がナギとエヴィンに挟まれて面倒なことになっていると聞きつけてきたのだろう。いつかは来るだろうとは思っていたが、今このタイミングで来るのはよしてほしかった。

 ほら、だから諦めろと言っただろう?

 こちらを見上げる瞳がそう言いたげに弧を描いている。

「ほ~? そういう可愛げのないこと言っていいんじゃな?」

 意味ありげにユキを見上げたウォルトは手に持っていた袋を掲げる。

「せっかく友人から、お前さんが探していた絶版本を受け取ってきたのにのぉ~?」

「くっ…」

 ユキは顔を歪める。

 ダニーはどうして自分への届け物を彼に渡すのか。というか、今は絶版になっている本を探していたことは、誰にも言っていなかったはず。

 彼らの情報網は一体どうなっているのやら。それとも、そんなに自分の興味関心が向かう先が分かりやすいのだろうか。

「外に引っ張り出すのも可哀想かと思って届けに来てやったのに、どうしようかのぅ~?」

 ふざけた口調で袋を見せびらかすウォルト。

 これが教育者のトップと恐れられる人間のすることか。

 変装中だからといって気を抜き過ぎだ。

「……ああ、そうですか。」

 ユキは一度肺が空になるまで息を吐き出し、次に好戦的な目をしてウォルトを見据えた。

「ちょうどよかったです。いいもの見せてあげますよ。」

 そっちがその気なら、こっちだって。

 ユキはポケットから携帯電話を取り出し、とある画面を表示してウォルトにちらりと見せる。

「………ぬっ⁉」

 途端に目の色を変えたウォルトが手を伸ばすが、ユキはひらりと携帯電話を取り上げた。

「お前さん、それは…っ」

「とってもよく撮れてるでしょう?」

 にやりと口の端を吊り上げるユキ。

「お前さん、話が違う! 一番いいものを送るという約束だったではないか!?」

「送った後にたまたま手に入ったんですよ。別に約束破った訳じゃないですー。」

 やはり、効果はてきめんだ。

 本当はここぞという時の切り札にとっておきたかったのだが、先に喧嘩を吹っかけてきたのはそっちだ。

「あーあ。せっかく無償で送ろうと思ってたんですけどねぇ。……まぁ、よくよく考えたら送る義理もないですよねぇ。」

「ぐぬぅ、お前さん…いい度胸じゃのう?」

「えー? ウォルトさんに遠慮は要らないでしょう? それとも、オレが何か気を遣わなきゃいけない理由がありましたっけ? ねぇ? ウォ・ル・ト・さん?」

 問いかけると、ウォルトはもどかしげに窓枠を掴む手に力を込めた。

 一端の清掃員であるウォルトに容赦など無用。悔しければ、今この場で理事長であるとカミングアウトでもしてみろ。

 いやはや、こんな所でエヴィンから取り上げたルキアの写真が役に立とうとは。

「お前さん、これがどうなってもいいのか?」

「そちらこそ、要らないんです? コレ?」

「ぐっ…わしが本気出せばそのくらい……」

「どうします? 本気出しちゃいます? 出せばいいんじゃないですか? これのためだけに本気出すとか、イメージがた落ちでしょうけどね。」

「余裕じゃのう? わしを焚きつけて、余計な情報が周知になってもいいと?」

「オレ、唯一そこに関してだけは吹っ切ったんで。お好きになさって結構ですよ? その代わり、それだけの責任は取ってくださいね?」

「………」

「………」

 無言で視線を絡め合うユキとウォルト。そんな二人の後ろには、苛烈な炎が舞っているようだった。

「だから、ユキ君には今の立場が役不足だって言ったのよねぇ。仮の姿とはいえあの人にあそこまでの態度取れるって、相当大物よぉ…?」

 おろおろとする周囲の様子を眺めつつ、この中で唯一事情を知っているナミがぽそっと呟いた。

 

 ★

 

「あー、ざんねーん。」

 さして残念そうでもない様子で、エヴィンが手を組んで体の筋を伸ばす。

「ねぇ、本当にそろそろユキに突っかかるのやめたら?」

 ナギはそんな彼の背中に敵意たっぷりの言葉をぶつけた。

「なんでナギ先輩にそんなこと言われなきゃいけないんすか?」

 エヴィンはぷう、と唇を尖らせるだけだ。

「別にナギ先輩に迷惑はかけてないっすよー。」

「十分迷惑かかってるよ!」

 ナギはたまらず声を荒らげる。

「最近、ユキったら(きみ)とセットで俺のことも避けてるんだよ⁉」

 最後にユキとまともに言葉を交わしたのはいつだったか。放課後はこうやってすぐにバイトに逃げられてしまうし、バイト帰りも絶妙に帰る時間や出入口をずらされて会えない。

 さすがに部屋にまで乗り込むのはやめておけ。

 そうトモに言われたから、一応我慢はしている。

 ユキは一人の時間も大切にするタイプだと聞いたし、最近は事あるごとにいがみ合う自分とエヴィンに疲れが溜まってしまっているのも分かるから。

 でも、苦しくてたまらないのだ。

 我慢するのがこんなにも苦しいことなんて、知らなかった。

「………」

 エヴィンは目を丸くしてナギを見つめる。

「―――なんだ。まだつけ入る隙あるんだ?」

 ふと不気味な笑みに彩られるその表情。

「ナギ先輩、何をそんなに焦ってるんですか?」

「なっ…」

「もしかして、自分にユキ先輩が取られるって思ってます?」

「―――っ‼」

 そんなんじゃない。

 とっさにそう言いかけて、その言葉が音にならなかった。

 ここ最近ずっと胸にわだかまっていたもやもや。

 それに、突然答えを与えられた気分だった。

「そりゃ焦りもしますよね。ユキ先輩、明らかに自分には優しいっすもんねー?」

「それは…」

「んで、ナギ先輩はユキ先輩に嫌われてたんでしょう? 一年の間でも有名な話っすよー?」

「そ、そりゃ…今まではそうだったけど……今はっ―――」

「好きになってもらえてるって、そう言い切れる自信がないんでしょう?」

「………っ」

 何も言えなくなる。

 嫌いだ、と。

 何度その言葉をユキから聞いただろう。

 でも、その逆の言葉は全然聞いた記憶がない。

 エヴィンに指摘されて浮き彫りになる事実が、こんなにも不安を煽ってくる。

「言っときますけど、自分は引きませんよ?」

 ブレザーの裾を掴んで固まったナギに、エヴィンははっきりとそう宣言した。

「ユキ先輩は、ナギ先輩のものってわけじゃないんです。選ぶのはユキ先輩っすから。」

「‼」

 ナギはハッと顔を上げる。

 ユキは自分のものじゃない。

 それは、言われれば当たり前のことで。

 でも、今まで見ないようにしていたことでもあって。

「じゃあ、そういうことで。」

 ユキの時とは違い、別人のようにあっさりとした態度でエヴィンが去っていく。

 それを止めることはできなかった。

 踏み締めているはずの地面が崩れていく錯覚が全身を襲う。

 胸の中に渦巻く不安が鎖のように足に絡んで、崩れた地面の奥にある奈落へ心を吸い込んでいくようだ。

(ユキ……今、俺のことどう思ってるの…?)

 ナギは震える手を握り締める。

 知るのが怖いと思った疑問は、これが初めてだった。

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