第4話 夜の時限爆弾
びしょ濡れの少女をソファに横たえ、クローゼットからありったけのタオルを引っ張り出した。
濡れた黒髪を拭い、冷え切った身体にブランケットを掛けてやる。少女の呼吸はまだ浅く、時折、うなされるように小さく眉を寄せていた。
自分も着替えなければ。びしょ濡れのスーツを脱ぎ捨て、適当なスウェットに袖を通す。ポケットの奥で硬いものが鳴った。あの青い石ころとシルバーピアスを取り出し、とりあえずソファの脇に置いた。
壁掛け時計を見上げると、深夜一時を回っていた。
ソファの前にぺたんと座り込み、彼女が目を覚ますのを待つ。
待つ。
……待つ。
エアコンの生温かい風と、雨上がりの静寂が、張り詰めていた緊張をじわじわと溶かしていく。気づけば俺は、ソファの背にもたれるようにして、意識を手放していた。
──カチリ。
小さな、けれど鮮明な金属音が、鼓膜を刺した。
目を開けた瞬間、視界いっぱいに、銀色の刃先が映り込んだ。
「動くな。声出したら刺す」
冷たく、鋭い声が、薄暗い部屋に響いた。
寝起きの霞んだ視界に、さっきまでソファで眠っていたはずの少女が映る。ブランケットを肩に引っ掛けたまま、俺の台所から持ち出したカッターナイフの刃を、真っ直ぐにこちらへ向けていた。
「一ノ瀬紗良を知ってるか」
刃先なんて見えていなかった。
カッターを突きつけられたまま、俺は身を乗り出した。少女の目が驚きに見開かれる。
「一ノ瀬……? 誰よ、それ」
「背が高くて、シルバーのアクセサリーをいっぱいつけてて、笑うと目尻が下がる人だ」
「知らないって言ってるでしょ! それより近づくな、刺すわよ!?」
「じゃあ、これは!」
俺はシルバーピアスを掴み、彼女の目の前に突きつけた。
「あの路地裏でお前にぶつかった後、俺のポケットにこれが入ってた。紗良さんが毎日つけてたピアスだ。お前が持ってたんだろ。なぜ持ってた。紗良さんは今どこにいる」
矢継ぎ早に詰め寄る俺に、少女はカッターの柄を握り直しながら、じりじりと後ずさった。
「だから知らないわよそんな名前……! ちょっと待ちなさいよ、そのピアス──」
少女の視線が、俺の手の中で揺れるシルバーピアスに吸い寄せられた。
そのまま、ほんの一瞬、呼吸が止まったように見えた。
「……どこで、これを」
「だから言ってるだろ。お前にぶつかった後──」
「そうじゃない」
少女の声が、低く、鋭く変わった。カッターの刃先が、さっきより深く俺の方へ向けられる。
「その名前よ。なんであんたみたいな一般人が、あの人の名前を知ってるの」
「あの人って……お前、紗良さんを知ってるのか!?」
「質問してるのは私の方。あんた、本当にただの会社員? まさか裏の人間じゃないでしょうね」
裏の人間。なぜ俺がそう疑われるのか、まるで見当がつかなかった。
「何言ってんだよ。紗良さんは同じオフィスで働いてた、ふたつ上の先輩だ。毎日顔合わせて、ミントタブレットくれて、一緒にダンジョン行って──」
「あり得ない」
少女は断言した。ピアスを凝視したまま、眉間に深い皺を刻んでいる。
「あの人が普通の会社で? ……ありえないわよ。あの人は──」
そこで少女は言葉を切った。何かを飲み込むように唇を強く結び、それからゆっくりと、探るような目を俺に向ける。
「……あんた、あの人のことをどこまで知ってるの」
「どこまでって……。ある日突然、オフィスから消えたんだ。人事データも連絡網も、最初からいなかったみたいに全部消えてた。俺以外の人間は、誰も覚えてすらいない」
少女の表情が、微かに揺れた。
「それ……本当なの」
「嘘ついてどうすんだよ。俺はただ、紗良さんがどこにいるか知りたいだけだ」
沈黙が落ちた。
エアコンの低い唸りだけが、狭い部屋を満たしている。
少女はしばらくピアスを見つめていたが、やがてカッターの刃をゆっくりと引っ込めた。脅迫の姿勢を解いたわけじゃない。ただ、別のことを考え始めたような目だった。
「……今は答えられない。あの人のことは、私もまだ整理がついてないの」
はぐらかされた、と思った。だが、彼女の声にはさっきまでの刺々しさとは違う、押し殺した感情が滲んでいた。
「ただ、ひとつだけ教える。あんたの身体のほうが、今はよっぽど問題なのよ」
「……身体?」
少女の視線が、ソファの脇に転がっていた青い石ころに落ちた。
「その石。あんた、あれからずっと素手で持ち歩いてたの?」
「ポケットに入れっぱなしだったけど」
少女の眉が怪訝に歪んだ。
「ダンジョンから持ち出された魔石は、専用の隔離ケースに入れないと二週間で大気中に揮発して消滅する。ケースなしで一週間も放置すれば、普通は輝きが半分以下に落ちるの」
彼女の目が、石ころの澄んだ青い光を捉えて鋭く細められた。
「なのにあんたのポケットにあったやつは、揮発が完全に止まってた。……あんた、一体何者なの」
「何者って……ただの会社員だけど」
「ただの会社員が、魔石の劣化を止めるわけないでしょ!」
魔石。彼女はさっきから、あの石ころをそう呼んでいる。
「ダンジョンでしか採れない本物のお宝よ。市場に出れば一個百万は下らない。一般への持ち出しは厳しく規制されてるけど……そんなことも知らないの」
一個、百万。
俺の頭の中で、実家の引き出しにジャラジャラと転がっている何百個もの青い石が、急に違う色を帯び始めた。
「……待ってくれ。それ、マジで言ってる?」
「マジもマジ、大マジよ。何億人が血眼になって探してると思ってるの」
俺はしばらく絶句した後、思わず立ち上がり、のろのろとスマホを取り出した。写真フォルダをスクロールして、一枚の画像を開く。
実家の古い学習机。引き出しの仕切りを埋め尽くすように、あの青い結晶が何百個と無造作にブチ込まれている。ガキの頃、裏山で拾い集めた「綺麗なゴミ」のコレクション。
画面を彼女に向けた瞬間、少女の顔から血の気が引いた。
「な……何百個……!?」
「さぁ、数えたことないけど。子供の頃からちょこちょこ拾ってて」
「嘘でしょ……合成でしょ、これ……っ!」
カッターを持つ手が、がたがたと震え始める。
「バカじゃないの……っ! 自分がどれだけヤバい状況か分かってないわ! 魔石は所持してるだけで違法なのよ!? こんな量が裏に流れてみなさい、半グレもヤクザも全員あんたの実家を探し始めるわ!」
声が裏返るほどの剣幕に、俺はたじろいだ。
「国だって魔石の遠隔探知センサーを死ぬ気で開発してるの。実用化されたら衛星一発で特定されて終わり。あんた、今この瞬間から時限爆弾の上に座ってるようなもんなのよ!」
少女はカッターをテーブルに投げ出し、俺の胸ぐらを両手で掴んだ。至近距離で、必死な目が俺を射抜く。
「……私を匿いなさい」
「は?」
「父親がギャンブルで莫大な借金を残して蒸発したの。返済のために命懸けで裏の仕事をしてきた。魔石の流通ルートも、ブローカーの使い分けも、追跡の躱し方も、全部知ってる」
彼女の声は、脅迫とは違う、切実な響きを帯びていた。
「月に二個か三個ずつ、ブローカーを変えながら小出しで売る。そうすれば足がつかない。……あんたの石を安全に捌けるのは、私しかいないわ」
「……それで、お前の借金も返すのか」
「そうよ。月50万、文句ある?」
少女は俺の胸ぐらから手を離すと、糸が切れたようにソファへ腰を落とした。
文句、と言われても。正直、俺にはまだ全体像が見えていない。
だけど、ひとつだけ確かなことがあった。
「条件がある」
「……何よ」
「紗良さんのこと。今は答えられないって言ったな。じゃあ、いつか必ず教えろ。それが条件だ」
少女は一瞬、苦いものを噛み潰したような顔で、小さく頷く。
「……わかったわよ。でも、今じゃない」
「ああ、待つ。それともうひとつ」
俺は腕を組み、ソファの上で小さくなっている彼女を見下ろした。
「これから一緒に爆弾を抱えるんだ。いい加減、『ゴミ袋』ってのやめてくれないか。俺は宮本大輝。……お前は?」
少女は虚を突かれたように目を見張った。
それから、ふいっと不機嫌そうに顔を背ける。俯いた横顔の白い首筋が、見る間に色づいていった。
「……凛。足引っ張ったら、本当に刺すからね」




