第5話 チャーハンと洗濯
「……おい。何だ、それは」
翌朝、午前七時。
いつも通りデータ入力の朝シフトへ向かうため、重い身体を起こした俺の視界に飛び込んできたのは、我が家のローテーブルの上で繰り広げられている、薄暗い地獄絵図だった。
「……何って、朝ご飯だけど」
リサイクルショップで買った合皮のボロソファに深く腰掛けたまま、俺をジロリと睨みつける。
その手にあるのは、非常食用としてキッチン下に放り込んでおいたサトウのごはん《生のまま》と、容器ごとベコベコに変形し、煤で真っ黒に汚れたシーチキン缶だった。
彼女はむき出しにされたカッターナイフの刃先で、加熱もしていない冷たく硬い米の塊をガリガリと削り取り、そのまま感情のない目で口に運んでいた。ガリ、と、プラスチックと刃が擦れる嫌な音が六畳間のワンルームに響く。
「あんたの部屋、電子レンジってやつがないじゃない。使えないゴミ部屋ね」
「ないなら鍋で湯を沸かして蒸せ。……大体、缶詰を直火にかけるな。内側のコーティングが溶けて体に悪いぞ」
「うるさいわね! 温かくなりゃ何でも同じよ。火が通りゃ、生きていられるの!」
そう吐き捨てる彼女の顔には、まだ昨夜の逃走劇でついた黒い泥が、皮膚の皺に沿って薄く残っている。
よく見れば、貸してやった俺のTシャツ《XLサイズ》の首元が、彼女の飢えた小動物のような華奢な体型には大きすぎて、だらしなく横に流れ、片方の白すぎる肩が完全に丸出しになっていた。
昨日までヤクザに命を狙われ、国家のセンサーに追われていた人間の食い方じゃない。これは、生きるための「最低限の常識」を誰からも教えてもらえず、ただその日その日を殺されないように生き延びてきた人間の、野生の食事そのものだった。
俺は無言で彼女の手から、冷え切ったカッターナイフとシーチキン缶を取り上げた。
キッチンのガスコンロに火を点ける。
冷蔵庫の卵ポケットから卵を二個、それからネギの青い部分を引っ張り出す。
トントントントン、と、狭いワンルームに規則正しい包丁の音が響く。
冷や飯を中華鍋へ放り込み、強火で煽る。卵の黄色が米粒を包み込み、ネギの青みが混ざり合う。そこへ、凛が焦がしかけたシーチキンを油ごと投入した。
ジャアアッ、と、油の弾ける音がキッチンの壁に跳ね返った。香ばしい匂いが、一瞬で部屋の湿気とカビ臭さを塗り替えていく。
「はい」
皿に盛られた、黄金色のパラパラとしたチャーハン。
それをローテーブルの、凛の目の前に置くと、彼女は一瞬、ぴくりと身を硬くした。
フォークを持ったまま、まるで爆発物でも見るかのように皿を見つめ、それからおそるおそる、一口、口に運ぶ。
「……っ」
「口に合わなかったか」
「……別に。油っぽくて、喉が焼けそう」
そう言ってふいっと横を向いたが、フォークを動かす手は二度と止まらなかった。
噛み締めるたびに、彼女の細い喉が小さく、小気味よく鳴る。俯いた拍子に覗く彼女のうなじが、じんわりと薄紅色に染まっていくのを、俺は黙って見つめていた。
「おい、ゴミ袋」
「名前は?」
「……カタギの男。それ、作り方教えなさいよ。私がこれ作れるようになったら、あんたなんて用済みだから」
「断る。缶詰を直火にかけるような奴には、強火のコントロールはまだ早い」
「……本当に刺すよ?」
彼女はチャーハンを口いっぱいに頬張ったまま、空いた左手でカッターナイフを机に突き立てた。パチリ、と硬い音がして、刃がローテーブルの古いキズに深く突き刺さる。
窓の外からは、梅雨特有の、じっとりとした朝の雨音が聞こえていた。
俺はスーツのネクタイを締めながら、床に脱ぎ散らかされたままの彼女のジャージに目を向けた。昨夜の大雨と路地裏の逃走で、血と泥がべっとりとこびりつき、生臭い匂いを放っている。
それだけじゃない。今、俺のTシャツの下に彼女が穿いているジャージのズボンも、膝のあたりが擦り切れて泥が繊維の奥まで染み込んでいた。
「凛。それも脱げ」
「……は?」
フォークを口に運ぼうとした凛の手が、空中でピタリと止まった。
「ジャージのズボンだ。下もドロドロじゃないか。洗うから今すぐ脱げ」
「な……ッ、バカじゃないの!? 何言ってんのよあんた!!」
凛は飛び跳ねるようにソファの端へ逃げ、両手で自分の太ももを隠すように抱え込んだ。その瞳が、今度は明確な「男に対する警戒」として鋭く尖る。
「変態! 最低! 一般人って、どさくさに紛れて居候の服を剥ぎ取る趣味でもあるわけ!?」
「お前を女として見る気は1ミリもない。……言っておくが、この部屋に女物の予備なんてない。俺の新品のボクサーパンツを貸してやるから、嫌ならそれを穿いてろ」
俺はクローゼットから、まだ袋に入ったままのグレーのボクサーパンツを取り出し、ローテーブルに放り投げた。
凛はそれと俺の顔を交互に見つめ、顔面を首筋まで一気に真っ赤に染め上げた。
「……っ、見るな」
「洗面台で洗ってる。早くしろ。血液の汚れはな、時間が経つと固まって二度と落ちなくなるんだ」
俺は洗面台へ移動し、蛇口をひねって水を流した。
背後で、衣服が擦れる衣擦れの音が、狭いワンルームに妙に生々しく響く。合皮のソファが小さく鳴り、ジッパーが下りる硬い音がして、やがて、小さく丸められたジャージの下が、洗面台の横の床にぽいと放り込まれた。
振り返ると、凛は俺のバカでかいTシャツの裾を限界まで下に引っ張り、太ももを隠すようにしてソファの上で体育座りをしていた。Tシャツの裾から覗く、俺のグレーのボクサーパンツ。そこから伸びる彼女の脚は、驚くほど細く、白く──そして、裏社会の逃走劇でついた、痛々しい青あざがいくつも浮かび上がっていた。
俺は手を動かした。
一個百円もしない青白い固形石鹸を泥まみれの繊維にこすりつけ、古歯ブラシを使ってゴシゴシと叩くように洗い始めた。
洗面台に、赤黒い水が広がって、排水口へと吸い込まれていく。
凛は、その様子をソファから食い入るように見つめていた。
「……バカみたい」
凛が小さく呟いた。
「そんな安い石鹸で、ゴシゴシやったって無駄よ。裏社会の汚れも、私のジャージの血も、そう簡単に消えるわけないじゃない」
「消えるよ。ただの泥と血だ」
俺は手を休めずに、淡々と言った。
「お前らがどんな大金を奪い合ってようが、どんな修羅場をくぐってようが、そんなことは俺には関係ない。……でもな、服が汚れたら洗う。お腹が空いたら温かいものを食べる。一人の人間として、それは当たり前のことだ」
「……当たり前」
「そうだ。だが、その『当たり前』を維持するのが、この生き方で一番難しいところだけどな」
俺はジャージの泥を落としながら、静かに言葉を続けた。
「ヤクザみたいに誰かから奪うわけじゃない。国家みたいに法律で守られてるわけでもない。毎月、安い給料のために死んだ魚の目で頭を下げて、毎日の必要な買い物を真剣に選んで、家賃を払って、服を洗う。……一人の人間として真っ当に生きるってのはな、お前らが命を懸けてる裏社会の博打より、ずっと地味で、ずっとコストがかかるんだよ。お前もこれから、その難しさを知ることになる」
凛は、何も言わなかった。
ただ、安っぽい柔軟剤のシトラスの匂いが洗面台から広がっていくのを、世界の仕組みを初めて知った子供のような、澄んだ瞳で見つめていた。
彼女にとって、百万円の魔石よりも、ヤクザの脅迫よりも、カタギの男が突きつける「生きるためのコスト」のほうが、何倍も重く、そして、温かかったのだろう。
ジャージを固く絞り、ハンガーにかける。
その流れでスーツのバッグを肩にかけ、玄関のドアノブに手をかけた。だが、そこで動きを止め、振り返る。
「おい、居候」
「……何よ」
「飯を食わせてもらって、服を洗ってもらったなら、人間として言うべき言葉があるだろ。……あと、俺の名前、もう知ってるよな」
凛は一瞬、ぴくりと肩を跳ねさせた。
昨夜、俺は自分から名乗った。なのにこいつは一度も呼ぼうとしない。覚えているくせに、ずっと「ゴミ袋」だの「カタギの男」だので逃げている。
みるみるうちに顔が熟したリンゴのように赤くなり、大きすぎるTシャツの首元に顔を半分うずめながら、消え入りそうな声で、だけど、明確に呟いた。
「……ありが、とう。……大輝」
アドレナリンが完全に切れたのか、それとも自分の名前を呼んだ気恥ずかしさからか、彼女の細い肩がかすかに震えている。だが、すぐにカッターナイフを握り直して俺を睨みつけてきた。
「いいから、はやく出てってくれる? 遅刻してクビになっても知らないんだから!」
「……ああ、行ってくる」
俺はフッと口元を緩め、二〇四号室のドアを開けた。
カチャリと鍵を閉めると、窓の外からは、規則正しい、平坦な雨の音が世界を包み込むように響いていた。
昨日までと変わらない、ただの退屈な金曜日の始まり。
なのに、俺の胸の奥は、これまでの人生のどれよりも、静かに、だけど心地よい熱を持って刻まれていた。
2人の非対称な呼吸の音が、あのカビ臭い六畳間の中に、確かに『人間として生きる、生活の匂い』としてこびりつき始めていた。




