第3話 退屈な世界
紗良さんが消えてから、一週間以上が経った。
この間、俺は俺なりに足掻いた。
彼女のSNSアカウントを片っ端から検索した。共通の取引先に、それとなく名前を出してみた。人事部のキャビネットに過去の座席表が残っていないか、昼休みにこっそり覗きにも行った。
全部、空振りだった。
一ノ瀬紗良という人間が存在した痕跡は、この世界のどこにも見つからない。まるで最初から、俺の脳が作り上げた幻だったと言わんばかりに。
三日目あたりから、自分の記憶のほうを疑い始めた。陽太に言われた「魔素中毒」という言葉が、仕事中にふっと浮かんでは消える。五日目には、ポケットの中のシルバーピアスに触れて、これが本当に彼女のものだったのかすら分からなくなった。
確かなものが、日に日に溶けていく。
気づけば、時計の針は22時を回っていた。
「はぁ……」
重い足取りで駐車場の愛車に乗り込むと、フロントガラスを叩く雨の音が、車内にバラバラと騒がしく響き渡った。
エンジンをかけ、ワイパーを最速で動かしながら、夜のバイパスへと車を滑らせる。
残業でクタクタになった身体に、エアコンの生温かい風がじっとりとにじむ。スーツのポケットの奥には、あの日なぜか紛れ込んでいた、ただの綺麗な石ころと、紗良さんの『シルバーのピアス』が重なり合っていた。これだけが、俺の妄想じゃないという唯一の拠り所だ。
いつもの見通しの悪い交差点に差し掛かったところで、前方の信号が『赤』に変わった。
ブレーキペダルを踏み込み、車を停止させる。
──キィ、と微かにブレーキが鳴った。
フロントガラスに次々と弾けては流れていく雨粒が、信号機の赤い光をどろりと歪ませていた。
ジャ、ジャ、とガラスを擦るワイパーの規則正しい音だけが、狭い車内に響く。何気なく、そのガラスの向こうを見つめた、その時だった。
激しく往復するブレードが、一瞬だけ雨水を拭い去り、視界をクリアにする。
交差点の角。たった一つだけぽつんと灯る、古い街灯の下。
激しい雨が降り頻るなか、傘もささずに直立している人影が、その一瞬の視界に飛び込んできた。
赤い信号の光と、街灯のスポットライトに照らされていたのは──泥のついた黒いジャージを着た、あの路地裏の少女だった。
フードも被らず、濡れた黒髪を顔に張り付かせたまま、彼女はただじっと、虚空を見つめている。
前回の、あの重力を無視して壁を駆け上がった時の獰猛な勢いは、どこにもない。
ヘッドライトの光に浮かび上がる彼女は、驚くほど小さく、放っておけば今にもそのまま雨の中に溶けて消えてしまいそうなほど、ひどく脆そうに見えた。
──ドクン、と心臓が跳ねる。
俺はハンドルを握ったまま、動けなくなった。
──チッカ、チッカ、チッカ……。
静まり返った車内に、ハザードランプの作動音が規則正しく響き始める。
じりじりとするような焦燥感のなか、俺はただ前方の赤信号を睨みつけていた。今ここで彼女を見失ったら、紗良さんへと繋がる唯一の糸が完全に切れてしまう。
パッと、視界を塞ぐ信号機が『青』に切り替わった。
次の瞬間、俺はブレーキペダルから足を離し、アクセルを踏み込んだ。後ろの車が発進するのを横目に、ステアリングを左に切る。彼女が佇む街灯のすぐ手前──遮るようにその目の前の路肩へと、滑り込ませるように車を寄せた。
ヘッドライトの光が、すぐ目の前に立つ少女の全身を白く照らし出す。
「おい、ちょっと!」
助手席側のパワーウィンドウを下げる。
途端に、激しい雨の音と冷たい夜風が、容赦なく車内へと吹き込んできた。エアコンの生温かい空気が一瞬で吹き飛び、シートが雨粒で濡れていく。
だが、目の前の少女は微動だにしない。
大通りの激しい雨音と風の音にかき消されて、俺の声なんて全く届いていないようだった。
「クソッ……」
このまま無視されたら、なにもかも終わりだ。
俺は意を決してシートベルトを外すと、運転席のドアを押し開け、そのまま土砂降りの雨の中へと片足を一歩踏み出した。
一瞬にして、冷たい雨が頭からまともに降り注ぐ。
おろしたてのスーツがまたたく間に水分を吸って重くなり、肌にじっとりと張り付いた。
俺は車のフロントを回り込み、ヘッドライトの白い光を浴びながら、街灯の下に立つ彼女の元へと駆け寄った。
「おい! 聞こえないのか!?」
至近距離から投げかけた俺の怒鳴り声に、少女の肩がピクリと跳ねた。
ゆっくりと、本当にゆっくりと、彼女の顔がこちらを向く。
濡れて張り付いた黒髪の隙間から覗くその瞳は、前回の獰猛な輝きを完全に失っていた。焦点がどこか合っておらず、ひどく虚ろだ。唇は寒さのせいか、痛々しいほど紫に変色して震えている。
少女は眩しそうにライトの光に目を細め、俺の顔を見ると、かすかに眉をひそめた。おぼろげな記憶を辿るように、小さく唇を動かす。
「……あんた、あの時の、ゴミ袋……?」
「ゴミ袋って言うな! ほら、これに見覚えあるだろ!」
俺はびしょ濡れになったスーツのポケットに手を突っ込み、あの『ただの石ころ』を掴み取ると、彼女の目の前へと突きつけた。
雨の滴る俺の掌の上で、青いガラス細工のような石が街灯の光を反射してひっそりと輝く。
それを見た瞬間、少女の虚ろだった瞳に、弾かれたような驚愕の色が走った。
「なっ……なんで、あんたがそれを……っ」
彼女は一歩、俺の方へ足を踏み出そうとした。
だが、その身体が糸の切れた人形のように、ぐらりと不自然に傾く。
「おいっ!?」
咄嗟に手を伸ばし、倒れ込んできた彼女の細い身体を両腕で受け止める。
ずっしりと、雨水を吸って重くなったジャージの感触。
そして腕の中に伝わってきたのは、人間とは思えないほどに冷え切った、凍りつくような体温だった。
「……っ、つめた……。おい、しっかりしろ!」
少女は俺の胸元に顔を埋めたまま、ピクリとも動かない。完全に意識を失っていた。
雨が、俺たちの背中をなおも叩き続ける。
遠くからこちらへ向かってくる車のヘッドライトの光が、雨のベールの向こうでチラチラと揺れているのが見えた。こんな大雨の街頭で、若い男が倒れた少女を抱き抱えているなんて、いつ通報されてもおかしくない。
迷っている暇なんてなかった。
「クソッ、どうなっても知らねえからな……!」
俺は彼女の華奢な身体を横抱きにすると、自分の車の助手席側へと回り込んだ。濡れた手でドアハンドルを引っ張り、ドアを大きく開け放つ。
びしょ濡れの彼女を助手席シートへと押し込み、続いて外に開きっぱなしになっていたドアを乱暴に引っ張り、バタンッ、と大きな音を立てて閉めた。
急いで車の前を走り抜け、運転席へと戻る。ドアを閉めた瞬間、世界から雨の音が遠ざかった。
エアコンの温度を上げ、風量を最大にする。
ゴーッという重苦しい排気音が車内に響き、冷え切った空間に少しずつ熱風が送り込まれ始めた。
「おい、大丈夫か?」
声をかけても、助手席から返事はない。
濡れた黒髪から滴る水滴がシートを濡らしていくが、今はそんなことを気にしている余裕はなかった。
一刻も早く、温かい場所に連れて行かなければならない。
急いで車を走らせる。さっき倒れる直前、彼女が見せたあの顔が頭から離れなかった。
──なんで、あんたがそれを。
あの驚愕は本物だった。だけど、俺には心当たりがない。
「……ただの、よくある石ころじゃん」
ポツリと呟いた言葉は、嘘でも何でもない、ただの本音だった。部屋であの石を見たときから、ずっと既視感があった。俺は昔から、あんな風に『変な光り方をする石』を道端でよく拾う、妙な体質なのだ。
子供の頃、物珍しさから宝石屋に持ち込んだら『価値なんて一円もない、ただのガラス混じりのクズ石だ』と店主に鼻で笑われ、それ以来、実家の机の引き出しに大量にブチ込んだまま放置されている――その程度の代物。
なのに彼女が命を懸けて、人生を賭けて執着し、こんなにもボロボロになっている。
俺にとっては「価値のない、ありふれた日常の切れ端」でしかない。
その事実が、なんだか無性に可笑しかった。




