第2話 たった一人の矛盾
「──おかしいだろ。なぁ、絶対におかしいって!」
キンキンに冷えた生ビールのジョッキを、俺は居酒屋のテーブルに叩きつけるように置いた。
金曜日の夜。サラリーマンたちの怒号のような喧騒と、焼き鳥の煙が満ちる大衆居酒屋の片隅で、俺は完全にくだを巻いていた。
目の前でトホホな顔をして串を頬張っているのは、同期の陽太だ。
「大輝、声がデカいって。フラれて荒れる気持ちは分かるけどさ……」
「違う! フラれたのはもういいんだよ! よくねぇけど、それは俺の実力不足だから受け入れる! 問題はそこじゃない!」
ぐっと身を乗り出し、声を潜めながらも必死に言葉を絞り出す。
「一ノ瀬先輩だよ。月曜日、会社に行ったら先輩の席がなくなってた。それどころか、人事のデータベースからも、社内の連絡網からも、最初からそんな人間はいなかったみたいに名前が消えてるんだぞ!? 社長に直談判した部長ですら『一ノ瀬? 誰だそれは』って顔してたんだぞ!?」
あの優しくて、お茶目で、甘い香りがした二つ上の先輩。
振られた翌日、俺の「日常」は、彼女という存在そのものを世界から消去される形で、あっけなく崩壊したのだ。
「……まぁ、お前がそこまで言うなら、本当にそういう『一ノ瀬さん』って美人がいたんだろうけどさ」
陽太は困ったように眉を下げて、ジョッキの泡を睨んだ。
「お前の記憶以外に、彼女が存在した証拠が何ひとつないんだよ?悪いこと言わないから、お前、一回ダンジョン専門の病院で【魔素中毒】の検査受けてこいって。初ダンジョンで脳がバグったんだよ、きっと」
「バグってない! 俺の頭はいたって正常だ!」
言い張りながら、俺はズボンのポケットの中で、小さなプラスチックのケースを強く握りしめる。
あの日、エレベーターの前で彼女から手渡された、ミントタブレットの空き殻。
世界中で俺だけが持っている、彼女がここにいたという唯一の証拠。
「――やっぱり私とは、住む世界が違うみたい」
あの拒絶の言葉が、脳裏で不気味にリフレインする。
あれは格差を理由にした言い訳なんかじゃない。文字通り、彼女は俺たちとは『違う世界』の人間だったのだ。
「クソッ……これじゃ、出直してくることも、もう一度振り向かせることもできねぇじゃんか……!」
やり場のない悔しさに唇を噛む俺に、陽太はそれ以上深くは突っ込んでこない。ただ「まぁ、元気出せって」と、新しく届いたウーロン茶のグラスを俺の前に置いてくれた。
その後もひとしきり未練がましい愚痴に付き合ってもらい、夜が更けた頃、ようやくお開きになる。
「じゃあな、大輝。悪いこと言わないから、週末はとにかく泥のように寝ろ。月曜にはすっきりしてるって」
「あぁ……ありがとな、陽太。付き合わせちゃって悪かった」
駅の改札前で陽太と別れ、一人になった途端、居酒屋の喧騒が嘘のように遠ざかっていく。
日付の変わった深夜の街はひどく冷え切っていた。夜風に頭を冷やされながら、俺は一人でトボトボと帰路についた。
少し酔い覚ましがしたくて、俺はいつものルートを外れ、薄暗い雑居ビルの隙間──狭い路地裏へと足を踏み入れた。
室外機が生温かい風を吐き出し、重苦しい空気が淀んでいる。
足元のゴミ箱の陰から、カサリ、と乾いた音が響く。街灯を反射して、目だけを怪しく光らせている黒い野良猫がいた。
「……お前も、一人なのか」
酔いのせいだろう。普段なら絶対に口にしないようなセリフがこぼれる。だけど今夜は、紗良さんの不在がもたらす冷たさと寂しさが、胸の奥で妙に混ざり合って離れなかった。
なんとなく自分に似ている気がして、ゆっくりとしゃがみ込み、手を伸ばした──その時。
「──っ!?」
突如、路地の闇を切り裂いて、凄まじい速さで突っ込んできた影が視界を塗りつぶす。
避ける暇すらない。右脇腹に硬い膝蹴りがクリーンヒットし、強烈な衝撃が身体を突き抜けた。
「がはっ……!」
肺からすべての空気が絞り出され、視界がぐにゃりと歪む。
そのまま背中からコンクリートの地面に叩きつけられ、その上に、どさりと容赦のない重量が降ってきた。
「痛っ……! なんなのよ、もう……。こんなところにゴミ袋なんて──」
すぐ目の前で、荒い息とともに鋭い悪態がこぼれる。
だが、俺の胸元の布地を掴んでいた手が人間の体温を感知した瞬間、少女の身体が驚いたように跳ね上がった。
「──って、人間っ!? 生きてる!?」
「痛たた……生きてますよ……」
「ちょっと! こんな暗がりで紛らわしくしゃがんでんじゃないわよ!」
少女は自分の体勢も気にせず、俺の胸をぐいと突き飛ばす。
暗闇に慣れてきた目に、その姿が映し出された。
泥にまみれた黒いジャージ。激しい運動のせいで襟元が大きく崩れ、そこから驚くほど白く華奢な鎖骨が覗いている。異国風の整った顔立ちの中で、大きな瞳だけが暗がりの中にギラギラと野性的に輝いていた。
「おい! こっちのビルの隙間に逃げ込んだぞ!」
「絶対に逃がすな! ぶち殺せ!」
路地の向こうから響いてきたドスの利いた怒号が、少女の言葉を乱暴にかき消す。
彼女の瞳から驚愕が一瞬で消え去り、鋭い警戒の色に変わった。
「くそっ、邪魔!!」
パニック混じりに俺の胸をもう一度強く突き飛ばし、彼女は勢いをつけて立ち上がる。
右脇腹に走る第二波の激痛に、俺はたまらず身体を丸めて「うぐっ」と喉を鳴らした。
少女はジャージのポケットへ勢いよく手を突っ込むと、そこから何かを掴み出す。
小さな指の隙間から漏れ出したのは、不気味で、けれど息を呑むほど美しい、鮮やかな青い光。親指ほどの大きさの、怪しく明滅する『青い結晶』だった。
少女はその結晶をぎゅっと握りしめ、自分のスニーカーの靴底に、火を熾すように力強く擦りつけた。
パチパチッ、と鮮烈な青い火花が散る。
次の瞬間、彼女はすぐ横にある雑居ビルの垂直なコンクリート壁に向かって、迷わず踏み出した。
──ドンッ!
激しい足音が狭い路地に反響する。だがそれは、地面を蹴った音じゃない。彼女は重力を嘲笑うように、ビルの壁面を次々と蹴り上げていた。
そのまま垂直な壁面を猛スピードで駆け上がっていく。タタタタタと小気味いいステップを踏みながら、ビルの上へ、上へと突き進んでいく。
「……嘘だろ」
俺は痛みを忘れて、ただ唖然と夜空を見上げるしかなかった。
ジャージの裾をなびかせてビルを駆け上がる、少女の細いシルエット。彼女はそのまま雑居ビルの屋上の縁を軽々と飛び越え、吸い込まれるように夜の闇の向こうへ消えていった。
壁の表面には、まるで名残惜しむように、微かな青い光の粒子がゆらゆらと揺らめいている。
「おい! どこ行った!?」
「クソッ、見失ったぞ!」
遅れて路地裏に雪崩れ込んできたのは、一目でカタギではないと分かる強面の男たち。荒い息を吐きながら辺りを見回していたが、地面に転がったままの俺に気づくと、リーダー格の男が据わった視線を落としてきた。
「おい、お前。ここに女が来なかったか」
──心臓が激しく脈を打つ。逆らえばタダでは済まない。
だけど俺は、冷めていた酔いを戻すかのように演技を続けた。
「女? ……あぁ、それならあっちのコンビニの角を曲がって行きましたよ。かなり焦ってる様子でしたけど」
ふらふらとしながら、大通りの方を指差す。
男はじっと睨みつけ、嘘がないかを探るように数秒間沈黙した。
生きた心地がしなかった。だが、俺は負けじと視線を逸らさなかった。
やがて、男は忌々しげに舌打ちする。
「チッ、あっちか! 撒かれた……おい、追うぞ!」
嵐のような連中が去った後、俺はもう一度、彼女が消えた夜空を仰ぎ見た。
あの青い光、そして重力を無視したあの動き。ダンジョンの中で見た、「魔法」に酷似している気がした。だけど、ここはダンジョンじゃない。ただの、路地裏だ。
何が起きているのか、さっぱり分からなかった。
♢
なんとか身体を引きずり、命からがらボロアパートへと帰り着いた。
緊張が解けた途端、脇腹の痛みがどっと押し寄せてくる。
「痛たた……マジでなんなんだよ、今日は……」
愚痴をこぼしながら、泥のついた服を着替えようとズボンに手をかけた、その時だ。
カツン、と衣服の奥で、硬いものがぶつかり合う音がした。
身に覚えのない、ゴツゴツとした違和感がズボンのポケットの底にある。
手を突っ込んで引っ張り出すと、俺の掌の上に、ふたつの物体が転がり出た。
「これ……」
ひとつは凄く既視感のある『青い石ころ』。
そしてもうひとつは──。
間違えるはずがない。
あの高嶺の花がいつも耳元で揺らしていた──『お気に入りのシルバーピアス』だった。




