08
「あ」
まあ、生きていればこういうことってあるよな。
そしてこういうときはスローモーションに見えることなんてこともなく、転ぶまでは一瞬だった。
運動を全くしていないことによる弊害が出てきたのかもしれない。
「あっ、千春君いた! って、床に座ってどうしたの?」
「運動をしていないからすぐに疲れてしまうだけだから気にしなくていい」
「そっか、転んだとかじゃないならよかったよ。あ、あとさ、少しそこの空き教室で……いい?」
付いていくとすぐに「はいこれあげる!」と約束通りチョコをくれた。
なんかやたらと洒落た物を買いたがるから板チョコでいいと何度も重ねた結果、言うことを聞いてもらえた形になる。
「ふぅ、なんとか当日中に渡せてよかったよー」
「楓にも渡せたみたいだな」
「うん、楓君のときはなんにも緊張しなかったんだけどねえ……」
俺が坊主で怖い顔でいるからか。
とにかくありがとうとお礼を言って椅子に座る。
先程のが地味にダメージとして残っていたから休ませたかったのだ。
彼女はそうしている間に出て――いきはしなかった、前みたいに隣に座って「もう二月も半分終わるね」なんて言っていた。
「一応聞いておくけど他の女の子からも貰えたとか――あ、ないんだ」
「全く関わったことがない女子からも貰えることはイケメンぐらいなものだ」
「あー私のクラスの人気な子はすごかったな」
「蒼依は渡したのか」
「え、私は男の子に対しては千春君と楓君にしか渡していないよ、泰葉ちゃんにはもう渡してあるけどね」
そこは本人の自由だから誰に渡していたっていい。
あとはなにをするにも兄の名前が出てくるところに安心できる。
「とにかくホワイトデーになったらちゃんと返すから安心してくれていい」
「お返しを求めて渡したわけじゃないけどそういうことなら、だけど高いのは駄目だからね?」
「千五百円ぐらいの物を返すつもりだ」
「そ、それだとオーバーすぎるよ」
この件に関してはこれ以上は黙っていた方がいいか。
「まだ帰る気はない?」
「なにもないならもう帰った方がいい、もうすぐに暗くなってしまう女子は危ない」
「千春君と一緒がいいなー……?」
「分かった」
俺はもう荷物を持っている状態で転んだわけだからそう考えると転んでいなければこれもなかったということか。
別にバレンタインデーだからと朝から彼女のことを避けていたわけではないのだが……まあ彼女だってなにもかもをすぐに終わらせられるわけではないよなと片付ける。
「あ、今日私のお家には上げないからね、千春君はこそこそお母さんと仲良くするからそれを避けたいんだよ」
「それならどこにいく」
「んーカラオケ屋さん……とか?」
「そこまでいきたくない状態ならやめておいた方がいい」
また兄に泣かれても嫌だからその場合は誘いたかった。
そもそもこの時点で自分の決めたことを守れていない、前みたいに露骨に避けたりはしないが二人きりもなるべくなしにしたいのだ。
「楓を――そんなに引っ張らなくても一人で帰ったりはしない」
「……二人きりがいいの」
「それなら咲さんが帰ってくるまで蒼依の家の前で話そう」
「それも嫌だ!」
どうしたものか。
ふざけているわけではなくて本当に嫌そうな顔をしているから困ってしまう。
少し考えた結果、どうせ兄を呼べないならと彼女がいきたがっていたカラオケ屋にいくことにした。
解散にもしてくれないだろうからある程度は言うことを聞かなければならない。
俺としては普通に帰って先程くれたチョコを食べたかったのだがまあ……まだ二月で暖かいわけではないから溶けたりはしないだろう。
「先に歌ってほしい」
「うん」
でも、こういう場所は誘われても付いていっていなかったから落ち着かない。
あとソファに余裕があるのにどうして真隣に座るのか、これを見れば普段の教室の机はしっかり考えて配置されていることが分かる。
彼女だからいいような悪いような、人によっては許容できない近さだった。
「……千春君相手に緊張したのは怖い顔だからとかじゃないよ」
きゅ、急だな。
一緒にいれば俺が怖がられていることぐらいはすぐに分かるから違和感のある発言ではないが。
「意識しなくても勝手にそうなっちゃうんだよ、もう自然と差ができてしまっているんだよ」
なんかこんな感じの歌詞もありそうだ、なんて逃避している場合ではないか。
「蒼依、後でちゃんと話を聞くからいまは歌った方がいい」
「……分かった」
歌声が荒々しいなんてこともなくていつもの喋り声とほとんど変わらなかった。
そわそわしていた心も落ち着いて、もうこのまま全て任せておきたくなる。
だからそのまま言ってみると「千春君がいいなら」とここでは抵抗されなかった。
ただ問題だったのは眠くなってしまうことで、なんとか寝ないように気を付けていた。
「ふぅ、一時間なんてあっという間だね」
「会計を済ませて帰ろう、あと俺の家に来てほしい」
「……楓君のことを考えてだろうけど私のお家に来られても困るからそうするよ」
というか放課後になったらすぐに兄も来てくれたらよかったのに。
一緒にいたくないのかいたいのかよく分からない、あれはあのときだけ俺と一緒にいたい気持ちが強くなっただけなのだろうか。
他所の人間と違って家で嫌でも会えてしまうから一緒にいたいゲージが溜まりにくいというのはあるのかもしれない。
「ただいま」
「千春おかえり、もうご飯できるよ」
いやそれよりなんで蒼依は入ってこない……?
玄関に戻って扉を開けると「や、やあ」と変な彼女がいた。
誰かになにかを突き付けられているわけではないし、誰かに捕まっているとかでもないから謎すぎる。
「ああ、蒼依ちゃんも連れてきたんだ。はは、蒼依ちゃんが変なのは僕が関係しているんだよ。それはね――」
「あー! あー! さっ、入らせてもらうからね!」
やっぱりこの二人はなにかあるんだな。
これも自由だから不満とかはないがそんなに兄に興味があるのなら兄と二人きりになればいいと思う。
「蒼依ちゃんが僕に千春に近づかないように言ってきたからだよ」
兄も兄だ、そういう情報をペラペラ喋ってしまうのは駄目だ。
放課後からのことでなにか損をするようなことがあったわけではないのだから二人だけの話にしておけばいい。
「楓君……」
「はは、だから放課後すぐに千春のところにいけなかったんだよ、怒らせると怖いから大人しくお家に帰ってご飯を作っていたんだよ」
教室でつぶした時間とカラオケ屋の一時間の合計で約一時間半ぐらいの時間が経過しているから嘘をつかれている気がする。
「もしかして楓君、女の子からチョコを貰えたとか?」
「ああ、そういえば酷い女の子の強制力を前にどうすることもできなくなった僕が一人で歩いていたときに女の子がチョコをくれたなあ」
「誰? あ。あの女の子とか?」
「うん? 蒼依ちゃんとは違って優しい泰葉ちゃんだけど」
し、白鳥妹も気にいるのが早い。
「おおっ――待って、酷い女の子って私のこと!?」
「うん、だけど蒼依ちゃんのおかげで泰葉ちゃんに会えてチョコを貰えたから酷い女の子と言ってしまったことは謝罪をするよ、ごめんね?」
なんか変わったな、今日の数時間で大人びた感じがする。
とりあえずライバルが出現して固まっている彼女は兄に任せて家の中に戻った。
手洗いうがいをして部屋へ、腹が空いていていまはここでゆっくりしたい気分ではないからすぐにリビングにまで戻ってきた。
「泰葉ちゃんはすごいなあ」
「蒼依ちゃんだって僕にくれたし、千春にだってあげたんでしょ?」
「そうだけどさ、私は出会ってすぐじゃないからね」
「はは、それなのに千春に渡すときに緊張してしまうんだ?」
こういうのを日頃からしていてそれを目撃されていたら夫婦漫才とかなんとかからかわれていそうだ、とはいえ学校では静かに二人で話しているだけだから他の人間がそういうところを見ることはないが。
学校よりも自分を出していける場所に帰ってきて緩くなっていた。
「ねえ千春君、今日の楓君はなんか私に意地悪じゃない?」
「全くそんなことはないよ。まあ、千春はもう返してもらうけどね」
「え、嫌だよ!」
「なっ!?」
俺も同じような反応をしそうになった。
なんかこのままだと「お家まで連れていくんだから!」とか言い出して俺がなにかを発する前に家をあとにすることになりそうだから兄には頑張ってもらいたい。
これ以上一緒にいたところでなにも満たされない――それともあれか? 本当は俺のことなんかはどうでもいいが兄といたいとは直接言うことができなくて、みたいな感じか?
前までならできていたことができなくなるというのは恋をしたときによくあることらしい、この前の咲さんではないが全てが間違った勝手な想像ということもないだろう。
「ご、ごほんごほん、蒼依ちゃんはそろそろ帰らないと危ないでしょ? 僕が送っていってあげるからほら帰ろうよ?」
「今日はずっと千春君と一緒にいるんだから!」
意地になると悪いことしか起きないことを知った方がいい。
「な、なに千春を抱きしめているの!」
「千春君は私のなの! お兄ちゃんである楓君でも駄目なことはあるの!」
兄は体から力を抜くと止めることもしないで同じようにしてきた。
なんだこの状態、サンドイッチならコンビニにもスーパーにも売っているから買って食べればいい。
「二人とも落ち着いてくれ」
「「うん……」」
「俺なら後でちゃんと付き合うから仲良く会話をしてほしい」
だから俺はご飯を食べたい。
腹が減っているからこうなるのだ、どちらにしてもなにか入れておくべきだった。
「楓君寝ちゃったんだね」
「ああ、ここで気持ちよさそうに寝ている」
「くっついているから離れることは不可能か……」
「放っておかれて寂しいだけだ、蒼依が側にいればまたいつもの楓に戻るはずだ」
リビングに布団だけ持ってきて寝転んでいるからこのまま寝ることになりそうだ。
動けない状態だから彼女には自分で客間的な場所に布団を敷いてもらうしかない、ここで寝たいなら止めたりはしないが布団がないからやはり動いてもらわなければならないことは変わらなかった。
「ある意味、私のせいなのはそうだね、だって千春君を楓君から取っちゃっているもんね」
「だから――」
「だけどもう楓君のことを出して自分に向けられていないように振る舞うのはやめてよ……」
え……泣きそうになるのではなくて泣くのか。
涙ってそんなに簡単に出るものなのか、テレビに出てくるような男優や女優ではないのだからと慌ててしまった。
「ごめん蒼依ちゃん」
「……なんで楓君が謝るの?」
「ううん、千春もありがと、だけどもうお部屋に戻るね」
この場合なら俺だって同じようにするからそのまま見送った。
もう結構いい時間だから隣に移動して布団を敷く。
「っと、ちゃんと付き合うから安心してほしい」
「わばままばかり言ってごめん!」
「座ろう」
ここに住んでいてもこの部屋にはあまり入らないから新鮮だった。
なるべく入口近くに座って彼女は布団の上に座らせる、あっちと違ってエアコンがないから足だけでも暖かい物に触れていた方がいいと判断してのことだ。
「完全に空気を読まれちゃったよね……明日どんな顔をして楓君に挨拶をすればいいのか……」
「泣かせてしまって悪かった、今度ちゃんと咲さんに怒られておくから許してほしい」
「い、いやっ、それだって私が勝手すぎただけだからいいよ! ……あとお母さんと仲良くしてほしくないし……」
前のスタンスに戻して彼女が自分から話してくれるのを待った方がいいか。
「今日はずっと一緒がいい」
「分かった、だけどその前に蒼依から貰ったチョコを食べたい」
「そっか、私が邪魔をしたせいで食べられていなかったよね――あ、じゃ、じゃあ楓君に今日中に謝っておいた方がいい気がするから離れている間に食べてもらえれば……」
「分かった」
彼女が出ていって一人になった。
何度も頼んだことで約百円で買える板チョコにしてもらったからこれについては食べ慣れた味ですぐに終わってしまった。
そこまで頻繁に食べていたわけではなくてもこういう物を食べるともっと欲しくなる、中毒になると困るので抑えようとするのだが中々に厳しい。
「ただいま」
「おかえり」
でも、こうして誰かといられれば違うことで悩んでいる時間もないから助かるというものだ。
「千春君のお部屋で楓君が寝ていて少し時間がかかっちゃったよ」
「すぐだった」
「え、そう? それなら待たせることにならなくてよかったけど」
それでもまた咲さんに言葉で刺されてしまいわないように深く求めずに歯を磨いて寝ることにした。
「……やっぱり戻っちゃう?」
「蒼依がいいなら残る」
「そ、それなら……一緒に寝たい」
寝るか。
最近は後回しにしてばかりではあるが夜更かしをしても大してメリットはない。
「えへへ」
「おやすみ」
「うん、おやすみ」
もう泣かせるようなことにはならないといいが。
そこも起きてからでいいかと片付けて寝ることに集中したのだった。




