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003_小石の記憶

土曜日の早朝、私は登山靴の紐を締め直した。

佐藤も同行することになっていた。待ち合わせの神社の鳥居前に着くと、彼はすでに到着していた。今日はツイードではなく、実用的な登山服に身を包んでいる。

「おはようございます。良い天気になりましたね」

確かに、雲一つない快晴だった。朝露に濡れた蜘蛛の巣が、朝日を受けてプリズムのように輝いている。神社の境内では、老人が箒で落ち葉を掃いていた。規則正しいシュッ、シュッという音が、朝の静寂に溶け込んでいく。

「写真の場所は、恐らくこの先です」

佐藤が古い地図を広げた。等高線が細かく引かれ、要所要所に手書きの注釈がある。写真と地形を照合した結果、場所を特定できたという。


山道に入ると、空気が変わった。土と緑の匂いが濃くなり、鳥のさえずりが頭上から降ってくる。足元では落ち葉がカサカサと音を立て、時折、小枝が折れる音がする。三十分ほど登ったところで、最初の目印を見つけた。苔むした石塔。表面の文字はほとんど読めないが、かろうじて「雲」の字が判別できる。


「ここから先は、昔の参道だったようです」


佐藤が杖で地面を探りながら言った。確かに、よく見ると石畳の跡がある。草に覆われ、ところどころ土に埋もれているが、人工的に敷かれた石であることは間違いない。

さらに一時間半。急な斜面を登り、沢を渡り、倒木を乗り越えた。汗が額から流れ落ち、シャツが背中に張り付く。息が上がり、心臓が早鐘を打つ。


そして、ついに見つけた。


写真に写っていた石段が、目の前にあった。ただし、雲に続く階段ではなく、せいぜい二十段ほどの、さらに上の神社へと続く参道だった。石段の両側には、背の高い杉が立ち並び、その影が階段を斑に染めている。

「これは……」

佐藤が息を呑んだ。彼が見つめている先、各段の端に、小石が置かれている。新しいものも、古いものも。大きさも形も様々だが、どれも人の手で意図的に置かれたものだとわかる。

「まるで、今も誰かが置き続けているかのようですね」

私は最初の段に近づいた。その小石は、手のひらに収まるほどの大きさで、表面は滑らかだった。川原の石のようだが、この高さに川はない。誰かが下から運んできたのだろう。


石を手に取った瞬間、世界が変わった。


周囲の景色が褪せ、別の映像が重なる。目の前に、若い女性が立っていた。老婆の写真で見た顔。六十年前の、あの少女だった。彼女は白いブラウスの襟を直し、深呼吸をした。朝の光が横から差し込み、髪の毛を金色に輝かせている。表情には決意と、かすかな恐れが混じっていた。

少女は最初の段に足をかけた。すると、彼女の姿が一瞬、二重になった。一人は詩を書いている少女、もう一人は畑で働いている少女。二つの可能性が、同時に存在していた。彼女は次の段へと進む。また姿が分かれる。教師として教壇に立つ姿、母として子供を抱く姿、旅人として異国の地を歩く姿。無数の可能性が、階段を昇るごとに現れては消えていく。各段で彼女は立ち止まり、小石を手に取る。その度に表情が変わる。驚き、恐れ、悲しみ、そして最後には、深い理解の色が浮かぶ。


幻影は途切れた。


私は手の中の小石を見下ろした。かすかに温かい。まるで、今も誰かの体温が残っているかのように。

「大丈夫ですか」

佐藤の心配そうな声で、現実に引き戻された。私は瞬きを繰り返し、周囲を見回した。杉の木、石段、苔の匂い。すべてが元に戻っている。

「ええ、大丈夫です。ただ……」

私は体験したことを説明した。佐藤は眼鏡を外し、レンズを拭きながら考え込んでいる。


「記憶が、石に宿っているということでしょうか」


彼も石を手に取ってみたが、何も起きなかった。ただの石のままだった。

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