002_伝承の糸
翌朝、私は町の図書館へ向かった。
梅雨の晴れ間で、アスファルトから立ち上る熱気が陽炎を作っている。図書館は町の中心部、樹齢三百年の楠の木の隣に建っていた。煉瓦造りの建物は大正時代のもので、蔦が西側の壁を覆い尽くしている。
重い木製の扉を押し開けると、ひんやりとした空気が頬を撫でた。高い天井、大きな窓から差し込む柔らかな光、そして本特有の、安心感を与える匂い。受付の女性に会釈をして、私は郷土資料室へと向かった。
資料室は建物の最奥、半地下になっている。階段を降りるごとに気温が下がり、湿度が上がっていく。壁には過去の町長たちの肖像画が並び、その眼差しが訪問者を見下ろしている。
部屋に入ると、予想通り誰もいなかった。六つある閲覧机のうち、窓際の一つに陣取る。机の表面には無数の傷があり、誰かが彫った「1967」という数字が残っている。
書架から『雲峰山郷土史』という背表紙の本を見つけ出した。革装の表紙は手の脂で黒光りし、ページの端は茶色く変色している。明治三十年の刊行とある。
目次をめくっていくと、「第七章 口承伝説」という項目が目に留まった。その中に『雲梯伝説』という一節があった。
窓の外で蝉が鳴き始めた。まだ梅雨明け前だというのに、気の早い蝉だ。私はページを開いた。
『雲梯伝説—— 当地に千年前より伝わる物語である。雲峰山の中腹に、天と地を結ぶ石の階段ありて、清き心を持つ者のみ、その段を昇ることを許される。階段の各段には小石が一つずつ置かれ、それぞれが人の可能性を映す鏡なりという』
文章は文語体で書かれ、ところどころに読み仮名が振られている。私は指で文字をなぞりながら、続きを読んだ。
『昇る者、各段にて己の異なる姿を見る。画を描く己、歌を詠む己、剣を振るう己。無限の可能性、そこに現れん。されど、多くの者は恐れをなして引き返す。己の真の姿を見ることの恐ろしさゆえに』
ページの余白に、誰かが鉛筆で書き込みをしていた。『昭和十二年、M子失踪』『昭和二十八年、T男失踪』という具合に、年号と名前のイニシャルが並んでいる。
興味深いことに、過去三百年の間に、七人の若者が同じように消えていた。私は手帳を取り出し、それらを書き写した。全員が十五歳。全員が、特別な才能を持っていたという注釈がある。絵描き、楽師、舞い手、語り部、細工師、薬師、そして詩人。
「おや、その本を読まれているのですか」
突然の声に、私は飛び上がりそうになった。振り向くと、三十代半ばと思われる青年が立っていた。茶色のツイードのジャケットに、首には絹のスカーフ。丸い眼鏡の奥で、知的な瞳が光っている。
「失礼、驚かせてしまいましたね。私は佐藤といいます。郷土史研究家をしております」
差し出された名刺には、大学の非常勤講師という肩書きも記されていた。佐藤は私の向かいの席に腰を下ろし、革のカバンから分厚いノートを取り出した。
「実は私も、この伝説を追っているんです。もう五年になりますか」
ノートのページをめくる音が、静かな部屋に響く。そこには新聞の切り抜き、古い地図、写真などが丁寧に貼り付けられていた。
「消えた人々には、ある共通点があることに気づきました」
佐藤が指差したページには、驚くべき発見が記されていた。消えた七人全員が、後に違う土地で、違う名前で生きていたのだ。
「これを見てください」
一枚の写真が貼られている。明治時代の集合写真で、ある画塾の門下生たちが写っている。その中の一人に赤い丸がつけられていた。
「この人物、江戸末期に消えた絵描きの少年と、骨格が完全に一致するんです。年齢も計算が合う。そして」
佐藤は別のページを開いた。そこには、その画家が描いた作品の写真が並んでいる。すべて、雲と階段をモチーフにした作品だった。
「偶然とは思えません。他の六人も同様です。全員が、その才能を開花させ、時代を超えて人々に影響を与える作品を残している」
部屋の気温が、さらに下がったような気がした。




