001_消えた石段
梅雨入り前の湿った午後、古書店の扉についた真鍮の鈴が、からんと乾いた音を立てた。
私は積み上げた初版本の山から顔を上げた。店内に漂う古い紙とインクの匂い、それに微かな黴の香りが、湿気を含んだ外気と混じり合う。
入口に立っていたのは、小柄な老婆だった。藍色の絣の着物に、年季の入った帯。手には竹の持ち手がついた黒い日傘を握っている。
「いらっしゃいませ」
私が声をかけると、老婆はゆっくりと店内を見回した。天井まで届く書架、薄暗い照明の下で背表紙が鈍く光る革装本、窓際に置かれた読書用の籐椅子。その全てを、何かを探すような目で眺めている。
「あの……」老婆が口を開いた。声は思いのほかしっかりしていたが、どこか遠くを見るような響きがあった。「こちらでは、古い写真の謎も、お調べになるのでしょうか」
「写真、ですか」
私は手にしていた羽箒を置いた。確かに店の看板には『古書と古地図 よろず謎解き承ります』と書いてある。半ば冗談のつもりだったが、時折、本当に謎を持ち込む客が現れる。
老婆は店の奥へと進み、カウンター前の丸椅子に腰を下ろした。動作の一つ一つが丁寧で、まるで茶室での所作のようだった。黒い手提げ袋から、慎重に一枚の写真を取り出す。
「あの子の足跡を、探してほしいのです」
セピア色に変色した写真を受け取ると、かすかに樟脳の匂いがした。
写っているのは、山の中腹に立つ少女。白いブラウスに紺の袴姿。髪を二つに結い、その先に白いリボンが揺れている。
顔立ちは目の前の老婆に似ていたが、瞳には若さ特有の、怖いもの知らずの輝きがあった。
しかし、私の目を引いたのは少女ではなく、その足元だった。
苔むした石段が、霧の中へと続いている。いや、霧ではない。それは低く垂れ込めた雲だった。石段は文字通り、雲の中へと消えていた。
「これは、六十年前の写真です」
老婆の声が、静かな店内に染み込んでいく。壁にかけられた振り子時計が、規則正しく時を刻む音だけが響いている。
「私の姉が、十五の時に撮った最後の一枚。翌日、姉は忽然と姿を消しました」
私は写真を光に透かしてみた。合成や細工の跡はない。確かに六十年前の印画紙だ。写真の四隅には、経年劣化による茶色い染みが浮かんでいる。
「村の言い伝えでは」老婆は続けた。「雲の階段を昇った者は、神の国へ召されるのだと。でも、私は信じておりません」
彼女の指が、かすかに震えていることに気がついた。お茶でもお出ししようかと立ち上がりかけた時、老婆が私の袖を掴んだ。
「姉は必ず、何かを残したはずなのです。賢い子でしたから」
その手の温度を通して、六十年という歳月の重さが伝わってきた。私は写真を裏返した。かすれた万年筆の文字で、一行だけ言葉が記されていた。
『始まりの石を、終わりの石に重ねよ』
インクは青から紫に変色し、ところどころ滲んでいる。しかし、文字ははっきりと読み取れた。几帳面な、しかしどこか急いで書いたような筆跡だった。
「この言葉の意味が、おわかりになりますか」
老婆の問いに、私は首を横に振った。しかし、なぜか胸の奥で、小さな扉が開いたような感覚があった。これは、解くべき謎だという直感が。




