肆拾参
普通の生活に戻り始めた頃、高嶺の所に実相の孫の司法書士から訂正印を求める電話が入った。
「なんで自分の名前を間違えるんですか?誠治朗が誠治郎になってましたよ!」
「すまんすまん、つい郎の方が使いやすくて。
親が凝って朗にしたらしいが。ややこしいんじゃ!
しかし、いつもそれで何とかなってたんだが…はて?」高嶺はとぼける。
「それは捨て印をちゃんと押してもらうからです!」と司法書士が言う。
「おおっ、そうか!しかし、今回の先生は捨て印の事
言わなかったので…つい忘れておったわ。ホッホッホッ」
立ち合っていないのだから、捨て印を押していないのだ。普通は、司法書士が書類を重ね契約者双方に捨て印を求める作業があるのだ。
書類に不備があった場合にまた集まるのは大変なので、売買契約者の双方から捨て印を貰って置くのだが、司法書士が立ち合っていなかったので捨て印が無かったのだ。
刑部がわざわざ杏だけ連れ去ったのは、書類に不備があった時の保険だったのだ。
なのに、なかなか書類を確認しなかったせいで…これは実相の孫、ブルードラゴンのトップのミスだ。
そして鉄道会社や大手不動産から三角地帯を守り抜いてきた高嶺の老獪さの勝利だった。
実相も弁護士を立てて争う姿勢だが、高嶺から訂正印を貰うのは至難の技となるだろう。
10年いや20年係争する事になる。
やっと銭湯の捜査権が三茶署まで下りてきた。
まあ、見つからなかった訳だが…
黒田の計らいで大谷も参加させて貰う。立てこもりの場所に気付いたのは大谷の功労だ。
五寸釘も落とし穴も鬱蒼とした雑草も刈り取られ、囲われていたボロボロのトタン板も払われていた。
アクアの前には原っぱと銭湯がビルに囲まれて昭和感をかもしている。
銭湯の浴槽の中も歩く。だが、何も見つからない。
本部が捜査しても見つからなかったのだ。
「ここって水とか出るのかな?水道?」大谷が聞く。
「それは無理だね〜お向かいのアクアで貰って来ないと。」責任者でもある年配の刑事が言う。
若手刑事は拉致事件で負傷し、まだ病院だ。黒田がバケツで水を貰ってきた。
大谷が床に水をぶち撒ける。
「違うな…」と言いながら、また自分で水を貰いに行く。
怒られたようで、ホースを延ばして持って来た。車両が入れないので火事の時のために長いホースを各店で持っているらしい。しばらくすると水が出てきた。
銭湯のタイルの床に水を撒く。排水溝へ流れていくが、
一区画、水が流れない部分がある。流れが止まるタイルがある。
近づくとその部分だけ、タイルの目地に切り込みがあるのだ。
タイルを叩くと空洞ではない。タイルの下にちゃんとコンクリ床はある。
ただ目地にスジが入ってるだけだ。
「なんか…下敷きの薄いみたいなのないかな?」大谷が黒田に聞く。
持って来たカバンを探るがそんなモノは無い。
「これ使うかい?」年配の刑事が金属のものさしを持っていた。
「なんで、こんなの持ってるんですか?」黒田が聞く。
「ワシの魚の目取りだ。ものさしで定期的に削ってやらないと歩くと痛くなるからな。」ちょっと嫌そうに大谷が持つ。
金属のものさしをその目地の切り込みにグイッと差し込む。
それを何箇所かすると、先に何か粘土質なものが付着するように。
「これは…コンクリじゃないかな?」大谷が目を凝らして言う。




