執着の果て編12(死の淵で)
胸から流れる血が、床を真紅に染める。
「……やっぱり、こうなるのか。」
意識が遠のいていく中、涼介は思った。
(生きてりゃ、何か良いことがあるって……茉利には言ったけど……俺の人生には、そんなものなかったのかもしれないな。ああ……でも…家族や健斗とまた会えて……良かった…)
遠くで誰かが叫んでいる声が聞こえる。
暗闇が、視界を覆っていった。
「涼介!! 目を開けろ!!!」
最後に聞こえたのは、誰かの必死の叫びだった。
☆
涼介の意識は、深い闇の中を彷徨っていた。
どこまでも沈んでいく感覚。
体も心も重く、どこにも辿り着けない。
——涼介は、死の淵でようやく”魅了の力”を完全に理解した。
この力は、人と人を結びつけるものだった。
だけど、それは必ずしも幸福な形とは限らなかった。
これは、人の心を映し出す鏡だった。
涼介のそばにいる人は、皆、何かが欠けていた。
埋まらない空白を涼介に投影し、それを愛だと錯覚した。
けれど、それは決して“愛”ではなかった。
彼らが見ていたのは、涼介ではなく、自分自身の孤独だったのだ。
そして——涼介自身も、同じだった。
空っぽのまま、ただ相手の欠落を映し返し、共鳴し合うだけの存在。
その繰り返しが、人々を惹きつけ、時に狂わせた。
だが、もし——
もし、自分が満たされていたなら?
もし、自分の心がちゃんと誰かに愛され、その愛を知っていたなら?
この力は、誰かを壊すものではなく、本当の意味で人と人とを結びつけるものになっていたのかもしれない。
涼介は、健斗や桐生の妻や裕奈のことを思い出した。
彼らは涼介に影響されなかった。
それは、彼ら自身の心が満ちていたからだ。
「俺の力は……呪いなんかじゃなかった。」
静かに呟いたその言葉は、誰に向けたものでもなかった。
孤独を埋めることはできない。
けれど、自分が満ちていれば、誰かを正しく愛することはできるのかもしれない。
(俺も……心の底から誰かを愛してみたかった…。でも……俺はここで終わりか……)
ぼんやりと思う。
だけど、何の感慨もない。
悲しくもないし、悔しくもない。
ただ、静かに消えていくような感覚だった。
──そのときだった。
「もう、諦めるの?」
涼介は、はっと顔を上げた。
目の前に立っていたのは、一人の少女。
涼介がかつて、芸能界で唯一「心の支え」だった相手──由紀だった。
「……由紀?」
少女は涼介に向かって、優しく微笑んだ。
変わらない。彼女は昔と変わらない。
──いや、違う。
昔と変わらないように見えるけれど、それは涼介の記憶の中の姿だ。
彼女はもう、この世にはいない。
「なんで……君が……」
「ふふっ、なんでだろうね?」
由紀は静かに歩み寄る。
そして、そっと涼介の手を握った。
温かい。
(……ああ、俺、本当に死ぬんだな。)
そんなことを思う。
「涼介さん、私ね、ずっと言いたかったことがあったの。」
由紀の瞳がまっすぐに涼介を見つめる。
「あなたには、生きてほしい。」
「……」
「私の分まで、生きてほしいの。」
「……でも、俺は……」
涼介は言葉に詰まる。
ーー俺が生きたって、何になる?
ーー俺が生きていても、また誰かが傷つくだけなんじゃないか?
そんな想いが、胸の奥から込み上げる。
だけど、由紀はゆっくり首を振った。
「生きてればきっと、良いことあるよ。」
彼女の言葉に、涼介は目を見開いた。
「……」
「私ね、病気だったから、未来を考えることなんてできなかった。でも、それでも最後まで生きていたかった。あなたの演技をもっと見たかった。もっと、色んな景色を見たかった。」
由紀は、少し寂しそうに微笑んだ。
「でも、それが叶わなかったなら……せめて、あなたが生きてくれたら、それだけでいいんだ。」
「……」
「涼介さん。あなたには、まだ“続き”があるんだよ。」
涼介は、ふっと息を呑んだ。
(俺には……続きがある?)
「……由紀……」
「うん?」
「もし、俺がまた生きたら……お前がいた世界より、ちょっとはマシなものになるのかな。」
「なるよ。」
由紀は迷いなく頷いた。
「だって、涼介さんが変わったんだもん。あなたが変われば、世界も変わるよ。」
──その瞬間だった。
涼介の意識が、急速に引き戻されていく。
「……っ」
由紀が涼介の手を離す。
「またね。」
少女は最後に、優しく微笑んだ。
「生きてくださいね、涼介さん。」
──視界が、白く染まった。
☆
涼介は、ゆっくりと瞼を開いた。
「……っ」
光が眩しい。
視界がぼやけて、誰かの影が見える。
「……涼介……?」
最初に聞こえたのは、健斗の声だった。
掠れた声だったが、それでも確かに自分を呼ぶ懐かしい声だ。
「おい、目が覚めたぞ……!!」
その声を聞きつけて、次々と駆け寄ってくる。
麻衣、桐生、蓮──
みんな、心からの安堵した表情を浮かべていた。
「……俺……」
喉が乾いて、声がうまく出ない。
痛む身体をゆっくりと動かそうとしたが、思うように力が入らない。
だが、それでも確かに「生きている」と感じた。
「お前……本当に死ぬかと思ったぞ……!」
そう言ったのは、ベッドの横に座っていた健斗だった。
包帯が巻かれた腕を吊り、額にも絆創膏が貼られている。
その姿を見て、涼介の意識が一気に鮮明になる。
「……お前……」
「俺のことはいいよ。お前ほどじゃねぇしな。」
健斗は苦笑する。
彼もまた、茉利の手の者によって車に轢かれた。
幸いにも命に別状はなかったが、それでも身体中に怪我を負い、決して軽くはない傷だ。
「お前が刺されたって聞いて、俺、頭真っ白になったんだぞ……!」
健斗の言葉に、麻衣がそっと目元を拭う。
桐生も黙って腕を組みながら涼介を見つめ、蓮は不機嫌そうに目を伏せていた。
「……心配、かけたな……」
掠れる声でそう呟くと、健斗はバカヤロウ、と言わんばかりに鼻を鳴らした。
「当たり前だろ。」
ふっと、涼介は目を閉じる。
重たいまぶたの奥で、意識が少しずつ戻っていく。
(俺は……生きるよ、由紀)
それが、涼介が死の淵から戻った瞬間だった。




