執着の果て編7(逆転の一手)
人気の少ないビルの非常階段で、蓮は一人のホストと向かい合っていた。
煙草の火が、夜の闇の中で小さく光る。
「茉利のクラブにいたって、ずっと安泰ってわけじゃねえだろ。」
ホストは唇を噛んだ。
「……でも、移籍なんて簡単じゃないっすよ。茉利さんの手が回ってたら……」
「抜けられねぇ、か?」
「……正直、怖いっす。」
蓮はゆっくりと煙を吐き出し、肩をすくめた。
「俺が受け入れ先を用意した。お前らが逃げる準備もできてる。」
「……え?」
「後は、お前が選ぶだけだ。」
ホストは驚いたように目を見開いた。
そして、長い沈黙の後——小さく息をついた。
「……行きます。」
「……そうか。」
蓮は満足そうに笑った。
ーーまた、別の夜。
ホストクラブ「paraiso」。
蓮ともう一人のホストが向かい合う。
もう一人のホストは「paraiso」を辞めて新しい店に移転した男だった。
その声には、疲れが滲んでいた。
「最初は良かったんです。給料も待遇も破格だったし、接客さえしてれば問題なかった。でも……」
男はそこで言葉を切り、唇を噛んだ。
「茉利さんの言うことを聞かなきゃ、あっという間に切り捨てられる。逆らったら最後、もう業界で生きていけなくなる……そんなプレッシャーに耐えられません。」
蓮は静かに彼の話を聞いていた。
「それだけじゃない。辞めようとした奴がいたんです。でも、すぐに茉利さんにバレて……そいつ、消えました。」
「……消えた?」
蓮が聞き返すと、男はうなずいた。
「どこかの店に行ったわけじゃない。まるで、業界から完全に消されたみたいに……。連絡もつかないし、誰もそいつの行方を知らない。」
蓮は無言のまま、氷が溶けかけたグラスを指先で回した。
茉利がやりかねないことではあった。
「……俺も、そうなりたくない。」
男は震える声で続けた。
「でも、辞めるには手助けが必要です。俺一人じゃ逃げられない……蓮さん、助けてくれませんか?」
蓮は短く息を吐き、グラスを置いた。
「ああ。用意はできてる。」
男は驚いたように顔を上げる。
「お前と同じように、逃げ道を探してる奴は他にもいる。もう受け入れ先も決めてある。」
「本当ですか……?」
「ウソついてどうする。茉利の影響が及ばない店だ。」
男は安堵したように息をついた。
「ありがとう……本当に、ありがとうございます。」
蓮はふっと笑い、ポケットからメモを取り出して差し出した。
「この店に行け。今夜なら、オーナーが直接話を聞いてくれる。」
男は震える手でそれを受け取り、しっかりと握りしめた。
「わかりました……!」
「誰にも悟られるな。茉利にバレたら、簡単には抜けられなくなる。」
「はい……!」
男が席を立ち、バーの出口へと向かうのを見届けると、蓮はまたグラスを手に取った。
氷はほとんど溶けていた。
「……さて。」
静かに呟きながら、蓮は薄く笑った。
茉利の狙いは、ホストクラブを足掛かりに業界を牛耳ることだった。
店を成功させ、業界に影響力を持つことでさらに支配を強める。
蓮が取った手は「個別の引き抜き」だった。
ホストたちに直接接触し、茉利の店を抜け出せる安全な道を用意する。
彼らにとって「今よりいい条件」を提示し、「茉利の手が及ばない場所」を確保することで、少しずつ彼女の支配を崩していく。
茉利はホストクラブの運営など門外漢だった。
彼女の頭にあるのは「支配」だけで、店の経営や、ホスト一人ひとりの事情など考えたこともなかった。
ホストにとって何が必要で、何を求めているのか——そんな基本すら知らない。
だからこそ、蓮はそこを突いた。
ホスト一人ひとりを見て、彼らが本当に望むものを提供する。
それは単なる金ではなく、「居場所」や「安心」、そして「未来」だった。
蓮は静かにグラスを回した。
「支配するつもりだった人間に、支配される気分はどうだ?」
仄暗い笑みが、グラスに映る氷の中で揺らいでいた。
茉利のクラブから、ホストたちが一人、また一人と消えていく。
桐生、蓮、涼介の3人が水面下で進めた計画は、確実に実を結び始めていた。
⭐︎⭐︎⭐︎
都心の一等地にそびえる高級マンション。
ホストクラブ時代に借りていたこのマンションを、涼介は芸能界に復帰してからも借りて使っていた。
涼介は、茉莉の妨害に気づき、その都度対抗策を打ってきた。
しかし、後手に回ることが増えてきた。
どれだけ手を打っても、次々と新たな攻撃が仕掛けられる。
「……まるで、息をするたびに絡みついてくる毒みたいだな。」
静かに呟きながら、涼介は次の一手を考えていた。
このまま守るだけではいずれ潰される。
彼は目を閉じ、これまでの戦いを改めて思い返した。
これは、王同士のチェスだ。
涼介と茉利、二人が王。
本来なら、王は最後まで守られる存在。
しかし、このゲームは違う。
涼介の方は、手番が極端に少ない。
茉利は、まるで無限の手番を持っているかのように、次から次へと打ち手を繰り出してくる。
基本的に、彼は防戦するしかない——最初から不利なゲームだった。
だが、チェスにおいて「防戦一方」は敗北を意味する。
守り続けていても、相手にじわじわと追い詰められ、やがて逃げ道を塞がれる。
だからこそ、涼介は考えた。
——圧倒的に少ない手番で茉利にチェックメイトをかけるにはどうしたらいいか。
限られた駒、限られた手数。
この一手で、確実に彼女の王を詰めなければならない。
茉利を追い詰めるには、彼女の「弱点」を突く必要がある。
——茉利の本当の目的は何なのか?
単なる支配欲だけではない。彼女は涼介を「自分だけのもの」にしたいと渇望している。
だが、それは愛ではなく、歪んだ執着だ。
茉利の弱点は、彼女自身の「完璧な世界」が崩れること。
財力、権力、そして自分が思い描く「理想の涼介」が手に入らないと知ったとき、彼女の均衡は崩れるはずだ。
涼介はふと、ホスト時代の茉利との会話を思い出した。
ーーアルコールの香りが漂うVIPルーム。
高級なソファに深く腰を下ろし、ワイングラスを傾ける茉利が、涼介を見つめて笑った。
「ねぇ、涼介。あなた、どこまで“本当の世界”を知ってる?」
涼介はグラスを回しながら、軽く肩をすくめた。
「さあ。俺はただのホストだから。」
「ふふ、そうね。でも、ホストって案外“いい情報”を手に入れられる職業なのよ?」
茉利の指が、そっとスマホの画面をなぞる。
そして、次の瞬間、画面を涼介の方に向けた。
そこに映し出されたのは、政治家の名前が並ぶリスト——それに付随する、莫大な金額の送金記録。
「……何のつもりだ?」
涼介は表情を変えずに聞いた。
「こんなの普通の人は一生見ることないでしょう?」
茉利は得意げに笑いながら、グラスを軽く揺らす。
「これが“本物の力”よ。世の中を動かすのはね、綺麗事じゃないの。金とコネ。それが全て。」
涼介は、そのとき特に気に留めなかった。
金持ちの道楽——酔った勢いで見せた、虚栄心の誇示だと思っていたから。
けれど——
(……そういえば)
頭の奥で、過去の記憶がよみがえる。
VIPルームで見せられた、政治家への送金記録。
当時は酔った冗談かと思っていたが、もし本物だったとしたら?
(いや、違う。あれは本物だった。)
茉利の立場を考えれば、虚勢でそんなものを見せる必要はない。
彼女は、自分の“支配する力”を誇示するために、それを涼介に見せた。
そして今、茉利は再び涼介を手に入れようとしている。
——なら、利用させてもらう。
涼介の目が、静かに鋭さを増した。




