執着の果て編2(絡みつく毒)
その日、涼介の芸能事務所に一本の電話が入った。
「申し訳ありませんが、次のドラマのキャスティング、再検討させていただくことになりました。」
担当マネージャーが困惑する。
「どういうことでしょうか? すでに契約も交わし、制作も進んでいるはずですが。」
しかし、相手は決して理由を明かそうとしない。
「諸事情により……としか申し上げられません。」
「諸事情とは?」
「申し訳ありません。」
そう言って、一方的に電話が切れた。
それから立て続けに、CMの契約も打ち切りになった。
既に決定していた映画のオーディションすら、「スケジュールの都合」で白紙に戻された。
ーー何かがおかしい。
事務所の社長は、すぐに業界内の知人に連絡を取る。
「……なあ、最近うちの涼介に何か噂でも立ってるのか?」
だが、相手の反応は妙に慎重だった。
『あんたの耳にも入ってないのか? なら、俺からは何も言えないな。』
「おい、何が起きてる?」
「悪いが、うちもあまり関わりたくないんだ。察してくれ。」
「待て、誰が動いてる?」
しかし、相手はそれ以上何も言わずに電話を切った。
社長は苛立たしげにデスクを叩く。
「クソ……!」
ーー何者かが、水面下で動いている。確実に、涼介を潰すために。
そして、その黒幕の正体を、社長は涼介から聞いてすでに知っていた。
「……仁村茉利か。」
豪腕なやり方。誰にも証拠を握らせず、業界全体にじわじわと影響を及ぼす。
それが彼女のやり口だ。
その頃——
茉利はワインを片手に、満足げに微笑んでいた。
「少しずつ、逃げ道を塞いでいく……。」
涼介を包囲するように、着実に動き続ける。
次に潰すのは——涼介の支えとなる家族や仲間たち。
彼の周囲が崩れ、孤独に追い込まれた時、彼はようやく気づくのだろう。
「自分には、私しかいないのだ」と。
⭐︎⭐︎⭐︎
次なる標的は、涼介の家族だった。
健斗の工場への圧力が進行する中、茉利は次の一手として、涼介の両親と妹・茜に目を向けた。
涼介は茉利が動く事を予想して、芸能界復帰の際、真っ先に家族の安全を確保するよう事務所に依頼していた。
涼介の指示のもと、事務所は家族の周囲に不審な動きがないかを監視し、可能な限り接触を防ぐよう手を回していた。
それは、家族に知られないよう慎重に行われていたが——
茉利は真正面から接触するのではなく、家族の周辺にじわじわと影響を及ぼす手段を選んだ。
父は、大手金融機関の部長を務めていた。
かつては業績が安定していたが、近年は業界全体の変化によって収益が伸び悩み、経営陣はリストラや早期退職の選別に乗り出していた。
父自身、数年前なら盤石な立場にあったはずが、今ではそうとも言えない状況だった。
そんな彼のもとに、ある話が舞い込んだ。
「銀行の成長を支援するための投資案件がある。条件次第では、本部での昇進も視野に入るだろう。」
持ちかけたのは、仁村グループ傘下の投資ファンドの幹部だった。
一見、銀行にとっても悪くない話に思えた。
だが、その案件にはある条件がついていた。
——「篠宮涼介との関係を完全に断つこと」
「……どういう意味でしょう?」
父は慎重に言葉を選んだ。
「銀行の将来を考えたとき、余計な問題は避けるべきです。」
男は淡々と言う。
「特に、芸能界のスキャンダルや、過去の不安定な経歴を持つ者との関わりは、銀行の信用を損なうリスクがある。」
「それが息子でも?」
「企業にとって、個人の事情は重要ではありません。」
静かな圧力だった。
父は息子のことを思い浮かべた。
やっと和解できた息子を、今さら「切り捨てる」など考えられない。
だが——
銀行の立場、家族の生活、部下たちの将来。
それらを天秤にかけたとき、果たして自分に決断ができるのか。
父は、しばらく言葉を失ったーーー。
茉利の次なる標的は、涼介の母だった。
年を重ねるごとに、体調を崩すことが増えた彼女に対し、茉利は最高の医療機関での手厚い支援を持ちかけた。
——定期的な精密検査の無料提供。
——権威ある専門医による診察の優先枠。
——最新の治療法へのアクセス。
どれも、一般の人間では手の届かないような特別待遇だった。
だが、それと同時に、茉利はもう一つの圧力をかけていた。
——母の住む地域の“空気”を変える。
最初は些細な違和感だった。
スーパーで顔を合わせたご近所が、なんとなく会釈だけで済ませる。
井戸端会議に加わろうとすると、誰かが小声で何かを言い、気まずそうに沈黙する。
何かを言いかけて、口をつぐむ者もいる。
「……何か、あったのかしら?」
母は戸惑いながらも、ある日、昔から親しくしていた隣人にそれとなく尋ねた。
だが、その隣人は言葉を濁しながら、ぎこちない笑みを浮かべるだけだった。
「……あのね、篠宮さん。ごめんなさい、ちょっと事情があって……」
それ以上は、何も言わなかった。
少しずつ、確実に——彼女は孤立し始めていた。
原因は、誰も口にしない。
だが、母には分かっていた。
”涼介のせいだ”——誰かが、そう仕向けているのだと。
ーー医療という救いの手を差し出しながら、同時に見えない鎖で締めつける。
茉利のやり方は、あまりにも巧妙だった。
そして涼介の妹・茜に対する茉利の手は、未来を操作する形で伸びていた。
進学や就職の準備を進める中で、彼女はある違和感を覚えていた。
——希望していた大学の推薦が、なぜか通らない。
——優秀な成績を持つにもかかわらず、企業のインターン選考で突然落とされる。
——教授が「推薦状を書いてあげる」と言っていたのに、急に態度が変わる。
「……どうして?」
努力してきたはずなのに、道が塞がれていく。
そんな中、とある大手企業の関係者が彼女に接触してきた。
「篠宮茜さん。あなたの成績と実績を拝見しました。当社としても、ぜひ優秀な人材を迎えたいと思っています。」
突然の話に、茜は戸惑った。
「……私、確かにエントリーしましたけど、もう一次選考で落とされて——」
「ええ、その件は誤解があったようです。ですが、ご安心を。改めて特別枠で採用を検討したいと考えています。」
「えっ……?」
特別枠。
それは、普通なら学閥やコネがないと得られないような優遇措置。
「加えて、もしご希望であれば海外の大学への留学支援も可能です。今後のキャリアを考える上で、大変有意義な機会になると思いますよ。」
信じられないような好待遇だった。
だが——
「……お兄ちゃんのこと、ですよね?」
相手の微笑みが、わずかに深まった。
「あなたの将来のために、最善の道を用意させていただきます。ただし——篠宮涼介さんとの関係を整理していただければ、ですが。」
言葉を選びながらも、その意図は明確だった。
——涼介と縁を切れば、大手企業への道が開かれる。
——涼介と関わり続ければ、すべての可能性が潰される。
「……考えておいてください。」
名刺を手渡され、相手は穏やかに去っていった。
静寂の中、茜はそのカードを見つめたまま、指先に力を込めた。
⭐︎⭐︎⭐︎
涼介の家族への攻撃は、直接的な攻撃ではない。だが、確実に、少しずつ家族を追い詰める方法。
事務所がどれだけ対策をしても、茉利の執着心はそれを上回った。
ーー家族という絆を武器にして、涼介を追い詰める。
涼介の力が「歪みを生む」ものなら、茉利の執着は「静かに絡みつく毒」だった。
「あなたは私のものよ。」
鏡に映る自分に、茉利は言い聞かせるように呟いた。
彼女の目には、すでに正気の色はなかった。
涼介にとって、これは過去に自分が受けてきた“執着”を、凝縮させたようなものだった。
そして、今度こそ――彼は逃げずに、それと向き合わなければならない。




