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芸能界編8(終・動き出す執着)

少しの沈黙が、重く部屋を包み込んだ。


父はふと目を伏せ、スーツの内ポケットに手を入れる。

そして、静かに取り出したのは、一冊の通帳だった。


「……涼介。」

父はその通帳を、まるで宝物のように大切に両手で持ち、涼介の手のひらにそっと差し出した。

「これを、お前に渡すために……俺たちは、ずっとお前を探し続けていた。」


涼介は、ゆっくりと手を伸ばし、その通帳を受け取る。

表紙についたわずかな擦れ跡が、長い時間を物語っていた。

疑うように、戸惑うように、それでも指先が勝手にページをめくる。


そこに刻まれた金額を目にした瞬間、涼介の呼吸が止まった。

「……これ……」

ホストクラブで稼いだ金よりは少ないかもしれない。

しかし、それでも通常の人間が生涯をかけて入手できる以上の大金が、そこには確かに存在していた。


「お前が、芸能界で稼いだ金だ。」

父の低い声が、静かに響く。


「……最初は、何も考えずに使っていた。お前の稼ぎで生活が楽になり、家も変え、身の回りのものも良くなっていった。それが当然のことのようにな……。」


涼介は何も言わず、ただ黙って父の言葉を待った。


「けど——お前がいなくなってから、すべてが変わった。」


父は拳を握りしめ、悔いるように言葉を続ける。


「お前がどこでどうしているのかもわからないのに、お前が命を削って稼いだ金を使うたびに……俺たちは、お前を切り捨てたことを認めるような気がしてな。」

「……。」

「ーーだから、それからは一銭も使えなかった。」

父の声には、深い後悔が滲んでいた。


涼介は通帳に目をやる。

ーー涼介が失踪して数ヶ月後から、通帳の記帳はされていなかった。


数字が並ぶそのページは、ただの金額の記録ではなかった。

そこには、父母が長い時間をかけて抱え続けた後悔と、どうしようもない罪悪感が刻まれていた。


「……探してた、のか?」

涼介の声は、いつになくかすれていた。


父はゆっくりとうなずく。

「……当然だろう。」

まるでそれが当たり前だと言わんばかりの口調だった。


「お前がいなくなったあと、何度もお前の事務所に問い合わせた。だけど、お前の行方は誰にもわからなかった。」

「……。」


「金が尽きれば、戻ってくるんじゃないかと……そんな甘い考えも、最初はあったさ。」

父は苦笑する。

「でも、お前は戻らなかった。それどころか、見つかりそうになるとすぐに姿を消した。」


「……そうしないと、あのままじゃ俺は“俺”になれなかったから。」

涼介の言葉に、父は目を伏せた。

「そうか。」

短く、ただそれだけを返す。


「ーーだから、俺たちは、ただこの通帳を保管しておくことしかできなかった。」


沈黙の中、父はふっと息を吐く。

「お前はきっちりと仕事を調整して引退したから違約金も殆ど発生しなかったからな。」


そこで言葉を切って、少し沈黙した後に続ける。


「だから、これは誰のものでもない。お前自身が、命を削って稼いだ金だ。」


涼介は、通帳を握る手に力を込めた。

「……俺のために……ここまで……」


気づけば、熱いものが頬を伝っていた。


父はそんな涼介の姿を見つめながら、静かに続けた。

「その金はお前の金だ。それを使ってどう生きるのか、それは涼介自身が決めるべきだと思ったからな。」


その言葉に、涼介の胸の奥が強く締めつけられた。

ずっと、自分は捨てられたのだと思っていた。


家族の道具として使われ、最後には壊れて──そして、誰にも必要とされなくなったのだと。


でも、違った。


この通帳は、ただの数字の羅列ではない。

そこには、涼介が生きてきた証があった。


彼がどこにいたのか、どんな想いでいたのか、知ることもできなかった家族が、それでも涼介の「居場所」を守ろうとした証だった。


「……俺のために……ここまで……」


喉の奥が詰まり、言葉にならない。


ふいに、視界がぼやけた。

気づいたときには、頬を伝う涙が、通帳のページに落ちていた。


父はそんな涼介を、静かに見つめていたが、父の手がわずかに震えているのを、涼介は見逃さなかった。


「ただ……お前がどんな道を選んだとしても、これだけは伝えたかった。」

父は目を伏せ、深く息を吐く。

「……お前は、今までもこれからも、俺たちの息子だ。」


家族全員が互いの存在を確認し合うように抱きしめ合い、涙が止まらなかった。


「涼介……戻ってきてくれてありがとう。」

母の声が、泣きながらも安堵に満ちていた。


「お前の未来を……もう一度信じているよ。」

父の言葉が、涼介の胸に響く。


「俺も……もう一度前に進むよ。」


涼介は、溢れる涙を拭いながら、家族の温もりを噛みしめていた。


再びつながった絆。それは、彼の新たな道を照らす光となるのだった。



︎⭐︎⭐︎⭐︎


静寂に包まれた部屋の中、豪奢なシャンデリアがわずかな光を落としていた。


天井まで届く大きな窓には、分厚いベルベットのカーテンが掛かり、外の景色を遮っている。

深い赤のソファはまるで芸術品のように美しく、ガラスのテーブルには高級ブランドの化粧品が無造作に並んでいた。

壁には著名な画家の絵が飾られ、煌びやかな装飾が部屋を満たしている。


誰もが羨むような空間。

それなのに、どこまでも静かで、どこまでも寒々しい。


この部屋には、彼女一人しかいない。


涼介がホストを辞めた後も、茉利は彼を忘れることができなかった。


忘れられるはずがなかった。


——彼の微笑み。

——彼の優しさ。

——彼の何気ない仕草や、時折見せる気まぐれな態度。


すべてが、彼女にとってこの世界の何よりも美しく、愛おしかった。


「涼介……」

薄暗い部屋で、茉利は静かに呟いた。


「逃げ場を奪う」


机の上には、涼介がホスト時代に着ていたスーツのネクタイが置かれている。

その端を指でなぞりながら、茉利はふっと笑った。


「あなたは……私のものなのよ。」


茉利は、巨大財閥の令嬢だった。

何不自由ない生活。豪華な屋敷。周囲の人間はすべて彼女に跪き、逆らう者はいない。


けれど、そこに「愛」はなかった。


家族は彼女に関心を向けず、義務として接するだけ。


誰も彼女の本当の姿を知ろうとせず、「仁村財閥総裁の娘」として扱った。


それが、どれほど孤独だったか。


彼女はずっと、「誰かに心から求められること」に飢えていた。

金ではなく、権力ではなく、純粋な想いで――誰かに「必要だ」と言われたかった。


そんな時、涼介に出会った。


初めて店で顔を合わせた時、その微笑みを見た瞬間、全身を貫くような衝撃が走った。

彼の言葉、仕草、視線――すべてが、彼女の心を震わせた。


この人なら、私を愛してくれるかもしれない。


そう思った瞬間から、涼介は彼女の中で「理想の存在」になった。


だが、彼はどれだけ金を積んでも、彼女のものにはならなかった。

笑顔を向けても、その瞳の奥には彼女が映っていなかった。


――どうして?


いくら注ぎ込んでも、いくら求めても、涼介の心は手に入らない。

まるで手のひらからこぼれ落ちる砂のように、指の間をすり抜けていく。


——彼がホストを辞めたと知ったとき、茉利は激しい怒りと動揺に襲われた。


「どうして?」

「どうして私を置いていくの?」


すぐにでも手を伸ばし、再び彼を手に入れようと考えた。


だが——彼が芸能界に復帰すると言った時、その衝動を一度抑えた。


ホストとしての涼介ではなく、”篠宮涼介”という男を、どうやって手に入れるべきか。


彼をただ囲い込むだけでは、また逃げられる。

無理矢理繋ぎ止めようとすれば、かえって遠ざかる。


彼が自分の意思で、茉利の元へと来なければ駄目だ。


だから——焦らなかった。


涼介が芸能界に戻り、少しずつ地位を取り戻していくのを見届けながら、その瞬間を待っていた。

彼が、今度こそ逃げられなくなるその時を。


——そして、そのために必要なことは一つ。

『彼の「逃げ場」を、すべて奪うこと』


涼介の周りには、まだ彼を支えようとする人間がいる。

彼を守ろうとする者たち、彼が信頼する者たち。


ならば、彼らを一人残らず遠ざければいい。


助けを求める相手がいなければ、どれだけ抗おうと最後には屈する。

どこにも行けないと悟った時、彼は初めて「自ら」茉利の元へと歩いてくるだろう。


——その時こそ、涼介は完全に茉利のものになる。


「もう少し……もう少しよ。」


涼介のネクタイを手に取り、そっと頬に寄せる。


「あなたは、結局私のところに戻ってくるわ。逃がさないわよ、涼介。」


たとえどんな手を使っても――

彼を、自分だけのものにしてみせる。


狂気に染まる微笑を浮かべながら、茉利は静かに目を閉じた。


彼女は、ゆっくりとスマホを手に取った。


「——そろそろ動き出そうかしら。」


指先が、ある番号を押す。

それは、涼介を“取り戻す”ための第一歩だった。

次が最終章です。

最後までお付き合い宜しくお願いします。

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