芸能界編7(氷解)
ある日、涼介が所属する事務所に一本の電話がかかってきた。
「篠宮涼介のことで、お話がしたいのですが……」
電話の向こうから聞こえたのは、聞き覚えのある女性の声だった。
一瞬、スタッフはいたずらかと思ったが、名乗った名前を聞いて驚いた。
「篠宮涼介の母です」
携帯を変えていたため、涼介の連絡先を知らなかった両親は、彼が所属する事務所へ直接連絡を入れたのだった。
最初は本人に伝えるべきかどうか、マネージャーや幹部たちの間で話し合いが行われた。
しかし、結局「判断は涼介自身に任せるべきだろう」という結論に至り、その話は彼の耳に入った。
涼介はその知らせを聞いたとき、思わず携帯を強く握りしめた。
ーー自分が消えた後、家族がどうしていたのかなど考えないようにしていた。
けれど、彼らはまだ自分を探していたのか……。
涼介は迷ったが、結果的には承諾した。
そして今日、約束された面会の時間が訪れた。
芸能事務所の会議室の扉が静かに閉じられると、そこには長い年月を超えて再会した家族の姿があった。
涼介は、目の前にいる三人──母、父、そして妹の茜を見て、心の奥がざわつくのを感じる。
「……涼介……!」
母が思わず駆け寄り、その腕で涼介を抱きしめた。
「よく無事で……ずっと、ずっと……会いたかったのよ。」
涼介は、母の腕の温もりを感じながらも、体の奥底で警鐘が鳴るのを無視できなかった。
「……久しぶり。」
絞り出すように言葉を発しながら、彼は目の前の家族をじっと見つめる。
母の髪には白いものが混じり、父の背中はかつてよりもずっと小さく見えた。
そして妹の茜──最後に見たときはまだ幼かった彼女も、すっかり大人びていた。
5年という時の流れは、容赦なく家族を変えていた。
だが、それは涼介にとって安堵すべきことなのか、それとも――
「涼介、ちゃんと食べてるの?」
母の手が頬に触れた瞬間、彼は条件反射のように一歩後ずさった。
「……ああ、まあね」
その仕草に母の表情がわずかに曇る。
だが、すぐに優しく微笑み、「よかった……よかったわ」と繰り返した。
涼介はそれを見つめながら、ふと考える。
本当に変わったのか? それとも、見かけだけが変わっただけなのか?
家を出た理由、そして戻ることのなかった年月。
それが一瞬にして埋まるほど、彼の心は単純ではない。
「……涼介。」
低く落ち着いた父の声が聞こえ、涼介は顔を上げた。
そこには、普段決して見せなかった父の涙があった。
「まずは……謝らせてくれ。」
父の声は震えていたが、その眼差しは涼介をまっすぐに捉えていた。
「……謝るって?」
涼介の声がかすれる。
父は一歩前に進み、深く頭を下げた。
「俺たちは……お前が助けを求めたときに、何一つしてやれなかった。」
「……。」
「お前が苦しんでいたのに、俺たちは何も見ようとしなかった……いや、見ようとしなかったんじゃなくて、俺たちが正しいと思い込んで、お前の声を無視していた。」
父は拳を握りしめ、悔しそうに言葉を続ける。
「芸能界に入れたのは、お前が普通に生きられないなら、せめて輝く道を……そう思っていた。でも、それが間違いだった。」
「……父さん……」
涼介は驚きながらも、父の言葉を待った。
「……いや、それも言い訳だな。お前にとって、本当に必要だったのは、ただ普通の家族として、お前のそばにいることだったのに……俺たちはそれすらできなかった。」
父は目を閉じ、深く息を吐いた。
「本当に……申し訳なかった。」
母も静かに涙を流していたが、涼介は二人を見つめたまま、何も言わなかった。
母は、少し迷うように口を開く。
「……私も……ごめんなさい……涼介。」
涼介は、母の言葉をただじっと待っていた。
「私は……あなたの気持ちを、何一つ考えていなかった。」
母の声は震えていた。
「あなたが嫌がっていたのに、それでも『特別な子だから』って、無理にでも続けさせようとして……」
母は拳を握りしめ、目を伏せる。
「私は……あなたが普通の人生を送れないことを、受け入れたくなかったの。だから、無理にでも輝く道を歩ませようとした……。そうすれば、あなたが報われるって……」
「……。」
「でも、それはただの私のエゴだった。あなたを守るどころか、追い詰めて……帰る場所すら奪ってしまった。」
母の涙が静かに頬を伝う。
「涼介……本当に、ごめんなさい……」
涼介は目を伏せた。
母の言葉を聞いて、心が揺れるのを感じる。
「……帰る場所なんて、最初からなかったよ。」
涼介の小さな呟きに、母の顔が歪む。
「あなたにとっては、そうだったのよね……。私は、母親なのに、それすらも気づいてあげられなかった。」
母の涙が床に落ちる音が聞こえた。
「違うの……!」
突然、茜の声が響いた。
涼介は視線を向ける。
茜は、今にも崩れそうな表情で拳を握りしめていた。
「お兄ちゃんがいなくなったのは……私のせい。」
「……茜。」
「私は……お兄ちゃんを傷つけた。」
涙を浮かべた茜の声は、震えていた。
「……あのとき、私はお兄ちゃんに告白して……それで……お兄ちゃんを追い詰めた……。」
涼介は、茜をじっと見つめた。
「……私は、お兄ちゃんが特別だって、ずっとそう思ってた。お兄ちゃんみたいな人は、この世界にいないって……」
茜の肩が小さく震える。
「でも、それが……お兄ちゃんをどれだけ追い詰めたのか、私は何も考えてなかった。」
「……。」
「お兄ちゃんを愛してるって言いながら……お兄ちゃんの気持ちなんて、全然考えてなかった。」
茜は静かに目を伏せた。
「ごめんなさい……私は……最低な妹だった。」
涼介はしばらく言葉を発せずにいた。
だが、やがて小さく息を吐き出し、静かに言った。
「……茜、お前が悪いわけじゃない。」
「でも……!」
「俺だって、お前にちゃんと向き合わなかった。」
茜が驚いたように顔を上げる。
「お前がどうしてそんなふうに俺を求めたのか……俺は、それを知るのが怖くて…ただ怖くて逃げただけだ。」
涼介は、そっと目を閉じた。
「俺は……お前を傷つけたくなかった。でも、結果的にお前を傷つけた。」
「……お兄ちゃん……」
茜の目から涙が溢れる。
涼介は、彼女の頭をそっと撫でた。
「もういいよ、茜。」
その言葉に、茜は嗚咽を漏らしながら涼介にしがみついた。
「……本当に、ごめんなさい……お兄ちゃん……!」
涼介は何も言わず、ただ静かに茜の背を撫で続けた。
父と母もまた、静かに涼介を見つめていた。
和解とは、すぐにすべてが解決することではない。
ただ、ようやく本当の気持ちを伝え合うことができた。
それだけで、涼介の胸にあった氷のような何かが、少しずつ溶けていく気がした。




