芸能界編1(戻りたい)
涼介はスマホを握りしめ、深く息を吸った。
心臓の鼓動がやけに大きく聞こえる。
指先が震えていた。
——本当に、これでいいのか?
自問しながらも、すでに後戻りはできなかった。
呼び出し音が鳴る。
一回。二回。三回——
「……誰だ?」
電話口から聞こえたのは、かつての所属事務所の社長の声だった。
低く、冷え切った声。
「俺です。篠宮涼介。」
「……ほう?」
一瞬の沈黙。
「……で、今さら何をしに来た?」
社長の声が鋭くなる。
「芸能界に……戻りたい。」
その言葉を口にした瞬間、スマホ越しにため息が漏れた。
「……戻りたい? 何を言い出すかと思えば。」
電話越しに聞こえる社長の声は、呆れと苛立ちを滲ませていた。
「……。」
涼介は黙って、それを受け止める。
「お前、5年前、身を引いたよな。静養しろと言った俺の意見も無視して、去っていっただろ。」
5年前——あの時、涼介はすべてを手放した。
騒がしい芸能界も、スポットライトも、狂ったように彼を求めてくる人々も。
自分が関わることで、また誰かが壊れる。
それを恐れ、逃げるように消えた。
「それなのに、今さら戻りたい? 都合が良すぎるんじゃないか?」
「……それは、分かってます。」
「本当に分かってるのか?」
社長の声音が低くなる。
「お前は、業界を荒らして消えたわけじゃない。むしろ、綺麗に幕を引いた。だからこそ、未だに『篠宮涼介』の名前は”伝説”として残ってるんだ。」
涼介は、その言葉の意味を理解していた。
スキャンダルを出したわけでもなく、不祥事を起こしたわけでもなく、ただーー静かに身を引いた。
だからこそ、ファンも業界関係者も、彼の名前を忘れなかった。
いまだに復帰を望む声もある。
だが、それはあくまで伝説として美化された存在だからだ。
「じゃあ聞くが……お前、『あの力』は、どうなった?」
社長の言葉に、涼介の指が僅かに強張る。
「……変わってません。」
「……っ!」
電話越しに、社長が舌打ちする音が聞こえた。
「お前な……また、周りを狂わせる気か?」
「……。」
「自分のせいで女の共演者やスタッフが異常なほど執着して病み、男の共演者とスタッフは敵意を向ける。そんな地獄みたいな状況を、また繰り返すつもりか?」
社長の語気は強い。
「お前はそれに耐えられるのか?その覚悟があるのか?」
涼介は静かに目を閉じた。
覚悟——その言葉を、何度噛み締めたことか。
「……俺は、変わってません。でも、変える方法を探したい。」
「……。」
「もう逃げたくないんです。」
それは、5年前に捨てたはずのものを取り戻すという宣言だった。
涼介は唇を噛んだ。
「だが、今戻ってきたところで、お前をそのまま受け入れるほど甘い世界じゃないぞ。」
「……。」
「覚悟はあるんだな?」
「はい。」
涼介はまっすぐ前を見据えた。
「俺は、もう逃げない。」
電話の向こうで、社長は何かを飲み込むように短く息をつく。
「……簡単に戻れると思うなよ。お前がどれだけ覚悟を決めようと、現場は地獄だ。共演NGの話をまだ覚えてる奴はいるし、お前に関わることで何かが起こるのを恐れてる奴も多い。」
涼介は黙って聞いていた。
「ただでさえ、今の業界はクリーンなイメージを求める。特にスキャンダルを起こしたわけでもないお前が、危険視されてるんだよ。この意味が分かるか?」
「……はい。」
「だが、それでも……お前を商品として、もう一度売り出す価値があるかどうか。それを決めるのは、俺じゃない。」
「……?」
「市場だよ。」
涼介は一瞬、言葉の意味を考え——そして理解した。
「……つまり?」
「試してやる。お前にまだ価値があるのかどうか。」
社長の声は、まだ冷たかったが、そこにはわずかに興味が混ざっていた。
「まずは、記者会見だ。お前がなぜ引退したのか、なぜ戻るのか、全部説明しろ。」
「……分かりました。」
「その上で、世間が受け入れるかどうかは別の話だ。」
社長はため息をつく。
「……まあ、戻れる保証なんてないがな。」
「それでも構いません。」
「……勝手にしろ。」
通話が切れた。
涼介はスマホを置き、静かに目を閉じた。
——やるしかない。
5年ぶりの戦いが、始まった。
⭐︎
電話を切った後、社長はしばらく無言でスマホを見つめ、それからゆっくりとデスクの上に放り投げた。
乾いた音が静かな室内に響く。
視線を落とせば、そこには契約書の束が無造作に積まれている。
ため息をつきながら、その一枚に手を伸ばし、斜めに眺める。
数字が並ぶ。
涼介がいた頃の売上。
涼介がいなくなった後の売上。
どちらが魅力的か——考えるまでもなかった。
「……全く、洒落にならねぇな。」
苦虫を噛み潰しながら、社長は背もたれに深くもたれかかる。
ーー篠宮涼介。
華々しく登場し、一瞬にしてトップに上り詰めた異端児。
だが、その人気の裏には異常ともいえる執着が渦巻いていた。
共演者、スタッフ、スポンサー、ファン……誰もが彼に魅了され、取り憑かれたように彼を求めた。
そして、その代償として、多くの人間が潰れた。
「……ったく。」
社長はこめかみを押さえ、僅かに目を閉じる。
涼介がいた頃は、確かに売上は今の比ではないほど跳ね上がっていた。
だが、その代わりに、トラブルも山のように押し寄せた。
彼の異常な影響力は、もはや手に負えないレベルに達していた。
そして——限界が来た。
業界内部で、彼との共演を避ける動きが広がり、彼に関わった人間の異常な言動が噂になり始めた。
いくら事務所が裏で手を回しても、すべてを“処理”し続けるのは不可能だった。
結果として、涼介は自ら引退を選び、姿を消した。
ーーそして5年。
事務所の売上は、確実に落ち込んだ。
今でも業界の中堅だが、大手に近い位置ではある。
だが、かつてのような爆発的な勢いは、もうない。
「クソ……。」
胃の奥に鈍い痛みを感じながら、社長は唸るように呟いた。
「また、あのカオスが戻ってくるのか。」
涼介がいれば、間違いなく事務所の売上は再び跳ね上がる。
しかし、それと同時に、また“処理”しなければならない案件が次々と増えるだろう。
売上か、安定か。
どちらを選ぶのが正解なのか——そんなものは、最初から分かりきっていた。
「……あいつは本当に、どこまでいっても爆弾のような男だな。」
呆れたように独りごち、再びデスクに視線を落とす。
そして、ゆっくりと、パソコンを取り出し、キーを叩いて書類を書き始めた。
ーー篠宮涼介・復帰プロジェクト。
そのタイトルを見つめながら、社長は覚悟を決めるように、静かに目を閉じた。




