ホスト編11(破局)
ホストクラブの薄暗いフロアの片隅。
カウンター席で、一人グラスを傾ける男がいた。
四十代半ば、スーツ姿に無精ひげ。
鋭い目つきと、胡散臭い笑み——それが、大手芸能誌の記者・西村だった。
涼介はホストとしての笑顔を浮かべながら、慎重に男へと近づいた。
「いらっしゃいませ、お客様。初めてお見かけしますね。」
「——よぉ。」
西村はニヤリと笑うと、グラスを揺らしながら涼介を見上げた。
「久しぶりだな、篠宮涼介。」
涼介の指がわずかに強張る。
「……人違いじゃないですか?」
「あぁ?」西村はあざけるように肩をすくめた。
「まさか、その程度の芝居で俺を騙せると思ってるのか?」
涼介は静かに息を吐いた。
こういう手合いは、無視すればしつこく食い下がる。
「ーーで、何の用です?」
西村はグラスを置くと、懐からスマホを取り出し、テーブルの上に放った。
画面には、涼介のホスト姿を捉えた写真が映し出されていた。
「元『奇跡の俳優』がホストやってるとはな。」
涼介の眉がわずかに動く。
「驚いたぜ。お前が芸能界から消えた時は、あの話題も一気に立ち消えになったってのに。」
「あの話題?」
「とぼけんなよ。」
西村は口元を歪めた。
「お前が共演者たちをおかしくする“力”を持つっていうネタさ。」
涼介は表情を変えずにいたが、背筋を冷たいものが這うのを感じた。
「ま、お前が芸能界を辞めたおかげで、あの話はパァになった。証拠もねぇし、世間とっくに忘れてる。……だが。」
西村は指でスマホの画面をトントンと叩いた。
「この写真はまた別の話だ。『かつて奇跡の俳優と呼ばれた男が、夜の街で落ちぶれていた』——」
ゆっくりと言葉を区切るように、西村は薄ら笑いを浮かべた。
「これなら、また面白い記事が書けそうだろ?」
涼介は静かに西村の目を見つめた。
「つまり、俺にどうしろと?」
「さすが、話が早いな。」
西村はニヤリと笑った。
「……金だよ、篠宮くん。」
テーブルに指を這わせながら、男は楽しげに囁く。
「このネタを記事にされたくなきゃ、俺にちょっとばかり“口止め料”をくれや。」
涼介は短く息を吐き、テーブルに手をついた。
「悪いが、俺は落ちぶれてるんでね。」
「ほう? でもホストやってるくらいだ。金は稼げるだろ?」
「——俺に金を払わせるつもりなら、悪いが無駄だ。」
「は?」
西村の目が細まる。
「……金のために脅す奴ってのは、大抵、金をもらっても満足しない。払えば払うほど、また要求してくる。」
「……なかなか、話が早いじゃねぇか。」
西村は笑ったが、その目には鋭い光が宿っていた。
「考える時間をやるよ。数日だけな。」
「……」
「お前がどうするかは好きにしろ。ただし、金をはらわねぇなら俺は仕事をするだけだ。」
西村は立ち上がり、スマホをポケットにしまう。
「3日後にまた来るからよ。じゃあな、篠宮くん。」
そう言い残し、西村はホストクラブを後にした。
⭐︎⭐︎⭐︎
次の日、夜のホストクラブ。VIPルームには、涼介と茉利の二人だけがいた。
テーブルには開けたばかりの最高級シャンパンが並び、茉利はグラスを揺らしながら優雅に微笑んでいた。
「ねえ、涼介。」
「……何だい。」
涼介は、いつも通りの軽い調子で応じた。
だが、その胸の奥では、彼女に対する不穏な感情が渦巻いていた。
ーー今日の茉利は、いつも以上におかしい。
そう直感しながらも、涼介は静かに彼女の言葉を待った。
「もういい加減、観念したら?」
「……何の話?」
「決まってるじゃない。」
茉利は涼介の顔をじっと見つめながら、指でグラスの縁をなぞった。
「私のものになるって話よ。」
涼介は苦笑して首を振る。
「何度も言ってるだろ。俺は……」
「売り物じゃない?」
「……そういうことだ。」
「でも、他の人には売れるのよね?」
茉利の口調が僅かに鋭さを増した。
「おかしいわよね。」
「……何が言いたいんだ。」
「あなたの“本当の価値”を、あなた自身が一番理解していないってことよ。」
涼介が訝しげに視線を向けると、茉利はスマホを取り出し、何かを操作すると、それを涼介の目の前に差し出した。
「これを見なさい。」
涼介は画面に目をやり——そして息を呑む。
そこには、健斗の工場の写真、麻衣の職場の情報、さらには涼介の両親の現在の住所までが詳細に記されていた。
「……!」
「あなたは自分をただのホストだと思っている。でも違うのよ。」
茉利はグラスを軽く揺らしながら、涼介を見つめる。
「あなたの存在は、誰かの生活に影響を与える。あなたの選択ひとつで、大勢の人が泣いたり笑ったりするの。」
「……それが、俺の“価値”だって言いたいのか。」
「ええ。だから、くれぐれも間違った選択をしないでね。」
茉利は甘えるような声で続けた。
「あなたがここで私のものになるなら——“余計なこと”はしないわ。」
涼介は拳を握りしめた。
「……まさか、こいつらに何かするつもりか?」
「ふふ、まさか。」
茉利は涼介の顎を軽く持ち上げると、恍惚とした笑みを浮かべた。
「でも、あなたが私を拒み続けるなら……“どうなるかはわからない”わよ?」
その瞬間、涼介の中で何かが弾けた。
——こいつは、本気でやる。
この女は、本当に大切な人たちを巻き込むつもりだ。
一瞬で怒りに駆られた。
だが、ここで感情のままに動いても、茉利の思う壺だ。
涼介は深く息を吸い、冷静に言った。
「……分かった。」
「まあ、聞き分けがいいのね。」
「考える時間がほしい。」
「……?」
茉利は目を細めた。
「今ここで返事をしても、俺の気持ちは変わらない。けど……ちゃんと向き合う時間が必要だ。」
茉利は少し考えるように視線を落としたが、すぐに満足げに微笑んだ。
「……いいわ。あなたが自主的に私を選ぶなら、それに越したことはないもの。」
「……ああ。」
「でも、時間をかけすぎたら……どうなるかはわかるわよね?」
茉利の視線を背に受けながら、涼介は無言で店を出た。
夜の空気が冷たく肌を刺す。
だが、それ以上に涼介の中には別の冷たさが広がっていた。
(……茉利も、西村も、躊躇している時間はないな。)
ーー今すぐにでも動かなければ。
西村が記事を公表するのは別に構わない。また姿をくらますだけだ。
ーー問題は、茉利の方だ。
あの女はやるといったら本当にやる。
涼介は足を速めた。
スマホを取り出し、タクシーを呼びながら、目的地を考える。
健斗か、麻衣か、それとも両親か——
(……まずは健斗だ。)
健斗なら話が通じるし、頼れる。
それに、彼と麻衣は同じ職場だ。
健斗に話せば、麻衣にも状況を伝えやすいはず。
涼介はすぐにタクシーへ乗り込んだ。
⭐︎⭐︎⭐︎
工場の事務所。
健斗の工務店に来ると、ちょうど麻衣も帰る所だったらしく、一緒に話を聞くことになった。
「……そんなことがあったのか。」
健斗が腕を組み、険しい表情で言った。
「涼介さん、大丈夫だった?」
麻衣が心配そうに顔を覗き込む。
「まあな。とりあえず、お前らの情報は全部バレてる。」
涼介は静かにそう告げる。
「それって……私たちに何かするつもりってこと?」
麻衣の顔がこわばる。
「今すぐ何かってわけじゃないだろうが、あの女がどこまでやる気なのか、俺には分かる。」
「つまり、俺らを人質みたいにして、涼介を繋ぎとめようって話か。」
健斗が低く呟いた。
「ああ。」
涼介は短く頷く。
「茉利は本気だ。俺が拒めば、次は確実に健斗や麻衣、そして家族に何かする……そう確信した。」
健斗は静かに考え込むように目を閉じた。
「……クソが。」
低く吐き捨てるように言うと、鋭い目つきで涼介を見た。
「で、どうする?」
涼介は迷っていた。
「俺が……彼女の言うことを聞けば、お前らに危害は及ばない。」
「ふざけんな。」
健斗は即答した。
「それが最善の選択だと思ってるのか?」
「でも、俺にできることなんて——」
「あるじゃない。」
麻衣が真剣な目で涼介を見た。
「戦うのよ。あなたが逃げるのをやめて堂々と立ち向かえば、簡単には手を出せなくなる。」
「戦うって……俺に何ができる?」
「そうか! お前が自分の力を取り戻せばいいんだよ。」
健斗が言った。
「お前、今まで芸能界なんてくだらねえと思ってたかもしれないけど、力は何も”魅力の力”だけじゃない。“影響力”だって一つの力だ。その力はデカい武器になる。お前が表舞台に戻れば、その女もおいそれと手を出せない。」
「……」
「お前が逃げ回るほど、その女は追っかけてきていずれは捕まっちまう。なら、逆にお前が高いところに登ればいい。そうすれば、もう誰も簡単にお前を傷つけられねえ。」
「でも、それじゃ……また周りを巻き込むことになる。」
涼介が低く呟くと、麻衣が首を横に振った。
「違うよ、涼介さん。逃げてる限り、私たちも危険なままなの。」
「……?」
「あなたが力を取り戻せば、私たちも守られる。今のままじゃ、いつ私や健斗さんが狙われてもおかしくない。でも、あなたが影響力を持てば、相手も迂闊に動けなくなる。涼介さんが強くなることは、私たちにとっても大事なことなの。」
「……そういうことだ。」
健斗が頷き、腕を組んだ。
「お前が強くなれば、俺たちも守られるんだよ。だったら、もう腹くくれ。」
涼介は静かに目を閉じ、息を吐いた。
「……なるほどな。」
ーーどのみち、もう限界だった。俺も、周りも。
涼介はゆっくりと目を開けた。
「……分かったよ。」
麻衣が微笑んだ。
涼介は決意を固めた。
「俺は……芸能界に戻る。」




