第四編 白いキングの少女
1978年・日本 — 佐伯澪
第一章 夢の中の青年
佐伯澪は、親戚から届いたチェス盤を見つけた。木箱の中には、古いノートと白いポーンが入っている。
澪はノートを読み、アレクサンドルという名前を知り、それから毎晩夢の中で青年に会うようになった。
青年は、暗闇の中に座っていた。
「君がアレクサンドル?」
澪が尋ねると、青年は驚いたように顔を上げた。
「どうして、その名前を?」
「ノートに書いてあったの」
青年は俯いた。
「僕は、そんな名前だったのか」
彼は自分の名前さえ、忘れかけていた。澪は、白のキングに話しかけ続けた。
庭の花のこと、雨の音のこと、いつか行ってみたい場所のこと。
青年は少しずつ、自分の記憶を取り戻していった。そしてある夜、彼は妹の名前を思い出した。
「…エミリア」
青年は涙を流した。
「僕には、妹がいたんだ…」
澪は微笑んだ。
「よかったね」
その瞬間、白のキングの底に新しい傷が刻まれた。
それは三本の傷とは別の、小さな線だった。
澪はノートに書き留めた。
『優しい言葉をかけると、駒に傷が増える』
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第二章 エドガーの嘘
澪がアレクサンドルと話すようになると、エドガーの声が頻繁に聞こえるようになった。
『その男を信じるな』
『彼は、お前の命を奪う』
『お前が死ねば、次は家族だ』
澪は恐怖した。しかし、アレクサンドルは首を振った。
「僕は、君を傷つけたくない」
「でも、あなたはこの盤から出たいんでしょう?」
「そうだ。でも、君を犠牲にしてまで出たいとは思わない」
澪は気づいた。エドガーは、アレクサンドルが自分を利用していると思わせようとしている。
人と人との間に疑いを生み、孤独にさせることこそ、呪いの力なのだ。
その夜、澪は白のキングを握りしめた。
「あなたは、もう一人じゃないよ」
白のキングが光った。暗闇の中で、エドガーの影が悲鳴を上げた。
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第三章 少女が残した鍵
澪は病に倒れた。彼女は、自分の時間が長くないことを感じていたが、それでも最後までチェス盤のことを考え続けた。
ある晩、澪はノートの最後のページに、こう書いた。
『エドガーは、アレクサンドルが忘れられることを望んでいる』
『でも、名前を思い出すたびに、彼の顔が少しずつ戻ってくる』
『呪いは、忘却によって強くなる』
『ならば、覚えていることが、呪いを弱めるのではないだろうか』
その下には、もう一つの文章があった。
『白のキングを盤の外へ出すとき、勝とうとしてはいけない。彼を救うために、彼を所有しようとしてはいけない』
澪は白のキングを胸に抱いた。
「いつか、あなたを助けてくれる人が来るよ」
その翌朝、彼女は息を引き取った。
家族は悲しみに暮れた…けれど白のキングの表面にあった亀裂は、確実に薄くなっていた。
そして澪のノートには、最後の一文が残されていた。
『王を救うには、王を勝者にしてはいけない』
この言葉こそが、最後の対局の核心となる。




