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第四編 白いキングの少女

1978年・日本 — 佐伯澪

第一章 夢の中の青年




佐伯澪は、親戚から届いたチェス盤を見つけた。木箱の中には、古いノートと白いポーンが入っている。

澪はノートを読み、アレクサンドルという名前を知り、それから毎晩夢の中で青年に会うようになった。

青年は、暗闇の中に座っていた。


「君がアレクサンドル?」


澪が尋ねると、青年は驚いたように顔を上げた。


「どうして、その名前を?」

「ノートに書いてあったの」


青年は俯いた。


「僕は、そんな名前だったのか」


彼は自分の名前さえ、忘れかけていた。澪は、白のキングに話しかけ続けた。


庭の花のこと、雨の音のこと、いつか行ってみたい場所のこと。


青年は少しずつ、自分の記憶を取り戻していった。そしてある夜、彼は妹の名前を思い出した。


「…エミリア」


青年は涙を流した。


「僕には、妹がいたんだ…」


澪は微笑んだ。


「よかったね」


その瞬間、白のキングの底に新しい傷が刻まれた。

それは三本の傷とは別の、小さな線だった。

澪はノートに書き留めた。


『優しい言葉をかけると、駒に傷が増える』



***************


第二章 エドガーの嘘




澪がアレクサンドルと話すようになると、エドガーの声が頻繁に聞こえるようになった。


『その男を信じるな』

『彼は、お前の命を奪う』

『お前が死ねば、次は家族だ』


澪は恐怖した。しかし、アレクサンドルは首を振った。


「僕は、君を傷つけたくない」

「でも、あなたはこの盤から出たいんでしょう?」

「そうだ。でも、君を犠牲にしてまで出たいとは思わない」


澪は気づいた。エドガーは、アレクサンドルが自分を利用していると思わせようとしている。

人と人との間に疑いを生み、孤独にさせることこそ、呪いの力なのだ。


その夜、澪は白のキングを握りしめた。


「あなたは、もう一人じゃないよ」


白のキングが光った。暗闇の中で、エドガーの影が悲鳴を上げた。



******************


第三章 少女が残した鍵




澪は病に倒れた。彼女は、自分の時間が長くないことを感じていたが、それでも最後までチェス盤のことを考え続けた。


ある晩、澪はノートの最後のページに、こう書いた。


『エドガーは、アレクサンドルが忘れられることを望んでいる』

『でも、名前を思い出すたびに、彼の顔が少しずつ戻ってくる』

『呪いは、忘却によって強くなる』

『ならば、覚えていることが、呪いを弱めるのではないだろうか』


その下には、もう一つの文章があった。


『白のキングを盤の外へ出すとき、勝とうとしてはいけない。彼を救うために、彼を所有しようとしてはいけない』


澪は白のキングを胸に抱いた。


「いつか、あなたを助けてくれる人が来るよ」


その翌朝、彼女は息を引き取った。

家族は悲しみに暮れた…けれど白のキングの表面にあった亀裂は、確実に薄くなっていた。

そして澪のノートには、最後の一文が残されていた。


『王を救うには、王を勝者にしてはいけない』


この言葉こそが、最後の対局の核心となる。



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