第三編 戦場のチェス
1945年・日本 — 軍医・佐伯
第一章 死者が指す手
戦場で、佐伯は瀕死状態の兵士からチェス盤を受け取った。
「先生……これを、持っていてください」
「何だ、これは?」
「僕には、もう必要ありません。でも……これを捨ててはいけない気がするんです」
佐伯が木箱を受け取ったその夜、兵士は息を引き取った。
佐伯は眠れなかった。
亡くなった兵士の顔が、目を閉じるたびに浮かんでくる。
そんな夜、彼はチェス盤を広げた。すると黒のポーンが1マス動いた。
白の駒が応じる。一手、また一手。
やがて、盤上の駒は佐伯が過去に救えなかった兵士たちの名前を示すように並び始めた。
その中に、一人だけ見覚えのない名前があった。
ALEXANDRE
佐伯はその名を紙に書き、翌朝病院の記録を調べたが、もちろんそんな名前の兵士はいなかった。
だがチェス盤を手にしたとき、白のキングの底に刻まれた文字が、昨日よりもはっきり見えるようになっていた。
***************
第二章 三つの証言
佐伯は、盤に残された記録を調べ始めた。
ウィリアムの手紙、エドガーの日記…そして、アレクサンドルという名前。
彼は、呪いが誰かの魂を閉じ込めているのではないかと考えた。
ある晩、夢の中に三人の兵士が現れた。
一人は頭から血を流し、一人は腕を失い、もう一人は幼い少年だった。
少年が言った。
「先生、あの人を助けてあげて」
「誰を?」
「ずっと、泣いている人」
佐伯は、少年の手に握られた白い駒を見た。
それはポーンだった。
少年は続けた。
「その人は、悪い人じゃないんだよ」
佐伯はそこで目覚めた。枕元には、白のポーンが置かれていた。盤の中から出てきたはずのない駒だった。
佐伯がそれを白のキングの隣に置いた時、キングの表面に光が走った。
ほんの一瞬、そこに人間の目が浮かんだ。
***************
第三章 記録に残すべきこと
佐伯は、チェス盤のすべてを記録に残すことを決めた。
彼はノートに、呪いを解くための仮説を書いた。
『この盤は、勝利を求める者の欲望を利用する』
『しかし、勝利を拒んだとき、盤の力は弱まる』
『盤の外へキングを出すことができれば、魂を解放できる可能性がある』
そして最後に、こう記した。
『ただし、盤の外へ出すべきなのは、黒のキングではないのかもしれない』
その一文を書いた直後、佐伯は強い頭痛に襲われた。
彼の目の前に、白のキングが浮かんだ。その底に刻まれた三本の傷。
一本目は、アレクサンドルが刻んだ傷。
二本目は、ウィリアムが残した傷。
三本目は、佐伯自身が指先でなぞった傷。
三人の行動が、同じ場所に重なっていたのだ。
佐伯は理解した。白のキングこそが、最初に閉じ込められた魂だった。
そして、呪いを終わらせるためには、白のキングを盤の外へ出さなければならない。
だが、彼がそのことを確信したとき、戦争は終わろうとしていた。
佐伯は盤を託す相手を探した。そして遠い親戚の家へ送ることにした。
箱の中にはノートと一緒に白のポーンを入れ、ポーンの底には佐伯の筆跡でこう書かれていた。
『最初に助けを求めたのは、王ではなく、王を守る者だった』




