表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
あなたが毎日過ごしているその日常は、誰かが静かにすり替えた偽物かもしれない 〜都会の隙間に潜む二十の違和感〜  作者: かーすけ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
9/15

第9話 深夜のオフィス

 一


 午後十時三十分。

 寺内は自分のデスクで、ノートパソコンの液晶画面をじっと見つめていた。

 雑居ビルの八階に入る、社員数二十人ほどの小さなITサービス会社「クロスネット」。

 フロアの大部分の天井蛍光灯はすでに消され、寺内のデスクの真上にある一本の蛍光灯だけが、青白く頼りない光を放っていた。


 明かりの届かないオフィスの奥や通路の陰は、底の知れない深い暗闇の中に埋もれていた。

 キーボードを叩く打鍵音が、しんと静まり返ったフロアに響く。

 カタカタ、ターン。

 エンターキーを強く押す甲高い音が、誰もいない空間の壁に小さく跳ね返った。

 周囲のデスクには、人の気配が全くなかった。

 同僚や上司たちは、二時間以上前に全員仕事を切り上げて帰宅していた。

 無人のオフィスチェアが、整然とデスクの奥に収まっている。

 卓上に残された飲みかけのペットボトルや、メモ用紙が貼られたモニター。

 人がつい先ほどまで居たはずの生ぬるい生活感が、部屋の隅々に重く滞留していた。


 寺内は軽く腕を伸ばし、背もたれに体を預けた。

 首の関節がコキリと乾いた音を立てる。

 目の奥に、刺すような重い疲労感がじわじわと溜まっていた。

 明日の一番の会議で提出するシステム仕様書の作成が、まだ半分近く残されていた。

 ビルの中央エアコンは、午後九時にすでに自動停止していた。

 室内の空気は完全に静止し、冬特有の冷気が足元から這い上がってくる。

 ノートパソコンの冷却ファンが吐き出す、低い排気音だけが寺内の耳元で連続して鳴り続けていた。


 寺内はパイプ椅子から立ち上がり、フロアの隅の給湯室へ向かった。

 暗い通路を歩く革靴の足音が、リノリウムの床を虚しく鳴らす。

 自動販売機のボタンを押し、温かい缶コーヒーを買ってデスクへ戻った。

 缶の熱が、かじかんだ指先と掌にじわじわとしみ込んでいく。

 いつもの、静かすぎる残業の夜だった。


 二


 午後十一時ちょうど。

 静まり返ったフロアの突き当りから、突如として激しい機械音が響き渡った。

 ブーン。

 重いモーターの回転音と、冷却ファンの駆動音。

 フロアの壁際に設置された、大型の業務用複合機(コピー・プリンター複合機)が勝手に作動を始めたのだった。

 寺内はキーボードから手を離し、音のする暗がりへ視線を向けた。

 誰もいないフロアの隅。

 薄暗がりの中に佇む、大きな白い複合機。

 液晶タッチパネルが、青白い光を眩しく放って点灯していた。

 ウィーン、ウィーン。

 電熱ヒーターユニットが温まる、独特の焦げた匂い。

 熱気を帯びた排気風が、複合機の側面のファンから吹き出してくる。

 内部のローラーが紙を送り出す、シュッ、シュッという規則的な音が静かなフロアに聞こえ始めた。


 寺内は首を小さく傾げた。

 パソコンから何の印刷指示も出していなかった。

 画面上のプリントジョブ管理ウィンドウを見ても、送信履歴は空っぽだった。

 他部署の社員が、自宅から社内ネットワーク経由で誤ってデータをリモート送信したのだろうか。

 排紙トレイに、白いA4サイズの紙が次々と吐き出されていく。

 シュッ、シュッ、シュッ。

 紙が重なって落ちる音が、静かなフロアに連続して響く。

 一枚や二枚の枚数ではなかった。

 印刷音は止まることなく、一定の早いテンポで刻まれ続けていた。

 寺内はデスクからゆっくり立ち上がり、足音を殺しながら複合機へ近づいていった。


 三


 複合機の真正面に立った。

 操作パネルの液晶画面を覗き込む。

 青い画面の中に、実行中のプリントジョブの詳細が表示されていた。

「ジョブ名:履歴書_最新.pdf」

「印刷部数:1 / 100」

 百枚の連続印刷が、何者かによって実行されていた。

 送信元のPC名やアカウント名は、完全な空欄になっていた。

 寺内は排紙トレイの上に溜まり始めた、温かい印刷用紙を一枚手にとった。

 トナーが焼き付けられた直後の、独特の焦げた臭気が鼻をつく。

 用紙の表面に印字された文字に目を通した。


 印刷されていたのは、市販の履歴書のフォーマット。

 氏名欄:「寺内 賢一」

 生年月日:「1992年8月14日」

 住所欄:現在自分が一人暮らしをしているマンションの住所と部屋番号。

 学歴欄、過去の職歴欄、保有資格の項目。

 すべて、寺内自身の経歴が寸分違わず完璧に印字されていた。

 さらに、志望動機欄の大きな枠。

 そこには、黒い太字でこう印字されていた。

「貴方の代わりに、この場所で永遠に働きます」

 寺内は強い恐怖とともに眉をひそめた。

 自分の履歴書データ。

 転職活動など、現在一切行っていない。

 パソコンのローカルフォルダにも、このような履歴書のPDFファイルは保存していなかった。

 なぜ、自分のプライベートな個人情報が満載された不気味な書類が、深夜の無人オフィスで大量印刷されているのか。

 手の中の用紙が、トナーの余熱で生暖かかった。


 四


 寺内は履歴書の右上、証明写真を貼り付ける枠に視線を滑らせた。

 カラーで鮮明に印刷された、四角い顔写真。

 そこに映っていたのは、間違いなく寺内自身の顔だった。

 スーツを着た自分の姿。

 髪型も、顔の輪郭も、自分そのものだった。

 寺内は目を見開いた。

 写真の中の自分の表情。

 口元が、不自然なほど左右に大きく引き裂かれていた。

 白い歯を剥き出しにし、狂気じみた薄笑いを浮かべている。

 目は見開かれ、カメラのレンズを歪んだ歓喜で見つめていた。

 こんな表情で写真を撮影した記憶は、これまでの人生で一度もなかった。

 証明写真機に入った覚えも、デジタル写真をアップロードした覚えもない。


 寺内は写真の背景の光景に目を凝らした。

 通常の証明写真のような、青や灰色の無地の背景ではなかった。

 写真の背景に映し出されていたのは、薄暗いオフィス空間だった。

 パーテーションの陰。

 壁の避難経路図。

 そして、蛍光灯の下で青白く光る、ノートパソコン。

 写真の背景に写っていたのは、まさに「今、自分が作業していたデスク」そのものだった。

 寺内は呼吸を止めた。

 写真の中の自分が座っているのではない。

 この写真の撮影者は、寺内のデスクを、斜め後ろの暗がりから隠れて撮影していた。


 五


 シュッ、シュッ、シュッ。

 複合機は無情にも、同じ履歴書を吐き出し続けていた。

 トレイから溢れ落ちた用紙が、床のリノリウムの上に白く散らばっていく。

 寺内は床に落ちた十枚目、二十枚目の履歴書を拾い上げた。

 写真の背景の構図が、一枚ごとに僅かに変化していた。

 一枚目:遠くに見える寺内のデスク。

 十枚目:デスクへ近づく通路の途中。

 二十枚目:複合機が置かれているフロアの角の手前。

 三十枚目:今、自分が立っている複合機の真後ろの暗がり。

 撮影者の位置が、一枚印刷されるごとに、じわりじわりと寺内へ近づいていた。

 連続写真のように、何者かが暗闇の中からカメラを構え、歩み寄ってくる光景が記録されていた。

 現在印刷されている、五十枚目の履歴書。

 写真の背景。

 複合機の前に立っている、寺内の後ろ姿が、首から下まで大きく写り込んでいた。


 撮影者は、今、自分のすぐ後ろに立っている。

 寺内の全身の毛穴が開き、冷や汗が噴き出した。

 首筋に、生ぬるい人の呼吸のような湿った空気が吹きかかってくる。

 振り返ることができなかった。

 首を動かそうとしても、恐怖で筋肉が金縛りに遭ったように固まっていた。

 シュッ、シュッ。

 印刷音は止まらない。

 トナーの焦げた匂いが、部屋全体を充満していく。

 その時。


 複合機の原稿台(スキャナーのガラス面)が、突如としてパッと青白く強く発光した。

 ウィーン、コン。

 ガラスの裏側で、スキャナーの光の棒がゆっくりと往復運動を始めた。

 原稿台の自動読み取りが始まっていた。

 寺内は視線だけを、自分の真横にある原稿台のガラス面へ向けた。

 圧着カバーが開いたままの、裸のガラス面。

 強い白い光が、下から上へと通り抜けていく。

 ガラスの上。

 そこに、何かが上からピタリと押し当てられていた。

 湿った人間の顔面。

 そして、二本の細く長い腕。

 ガラスの表面に、強く押し潰された皮膚と鼻筋、そして見開かれた血走った眼球が、下からの光に鮮明に照らし出されていた。

 スキャナーの光が、ガラスに押し付けられた「ナニカ」の顔を、ゆっくりとスキャンしていく。


 ウィーン。

 操作パネルの画面が切り替わった。

「新しい原稿を読み込みました。印刷を開始します」

 排紙トレイから、出来立ての温かい用紙がシュッと吐き出された。

 寺内の足元に落ちた、新しい一枚。

 その履歴書の写真枠には、今、原稿台でスキャンされたばかりの「顔」が、寺内の名前の上に鮮明に印刷されていた。

 複合機の連続印刷音が、誰もいないオフィスに高らかに響き続けていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ