第9話 深夜のオフィス
一
午後十時三十分。
寺内は自分のデスクで、ノートパソコンの液晶画面をじっと見つめていた。
雑居ビルの八階に入る、社員数二十人ほどの小さなITサービス会社「クロスネット」。
フロアの大部分の天井蛍光灯はすでに消され、寺内のデスクの真上にある一本の蛍光灯だけが、青白く頼りない光を放っていた。
明かりの届かないオフィスの奥や通路の陰は、底の知れない深い暗闇の中に埋もれていた。
キーボードを叩く打鍵音が、しんと静まり返ったフロアに響く。
カタカタ、ターン。
エンターキーを強く押す甲高い音が、誰もいない空間の壁に小さく跳ね返った。
周囲のデスクには、人の気配が全くなかった。
同僚や上司たちは、二時間以上前に全員仕事を切り上げて帰宅していた。
無人のオフィスチェアが、整然とデスクの奥に収まっている。
卓上に残された飲みかけのペットボトルや、メモ用紙が貼られたモニター。
人がつい先ほどまで居たはずの生ぬるい生活感が、部屋の隅々に重く滞留していた。
寺内は軽く腕を伸ばし、背もたれに体を預けた。
首の関節がコキリと乾いた音を立てる。
目の奥に、刺すような重い疲労感がじわじわと溜まっていた。
明日の一番の会議で提出するシステム仕様書の作成が、まだ半分近く残されていた。
ビルの中央エアコンは、午後九時にすでに自動停止していた。
室内の空気は完全に静止し、冬特有の冷気が足元から這い上がってくる。
ノートパソコンの冷却ファンが吐き出す、低い排気音だけが寺内の耳元で連続して鳴り続けていた。
寺内はパイプ椅子から立ち上がり、フロアの隅の給湯室へ向かった。
暗い通路を歩く革靴の足音が、リノリウムの床を虚しく鳴らす。
自動販売機のボタンを押し、温かい缶コーヒーを買ってデスクへ戻った。
缶の熱が、かじかんだ指先と掌にじわじわとしみ込んでいく。
いつもの、静かすぎる残業の夜だった。
二
午後十一時ちょうど。
静まり返ったフロアの突き当りから、突如として激しい機械音が響き渡った。
ブーン。
重いモーターの回転音と、冷却ファンの駆動音。
フロアの壁際に設置された、大型の業務用複合機(コピー・プリンター複合機)が勝手に作動を始めたのだった。
寺内はキーボードから手を離し、音のする暗がりへ視線を向けた。
誰もいないフロアの隅。
薄暗がりの中に佇む、大きな白い複合機。
液晶タッチパネルが、青白い光を眩しく放って点灯していた。
ウィーン、ウィーン。
電熱ヒーターユニットが温まる、独特の焦げた匂い。
熱気を帯びた排気風が、複合機の側面のファンから吹き出してくる。
内部のローラーが紙を送り出す、シュッ、シュッという規則的な音が静かなフロアに聞こえ始めた。
寺内は首を小さく傾げた。
パソコンから何の印刷指示も出していなかった。
画面上のプリントジョブ管理ウィンドウを見ても、送信履歴は空っぽだった。
他部署の社員が、自宅から社内ネットワーク経由で誤ってデータをリモート送信したのだろうか。
排紙トレイに、白いA4サイズの紙が次々と吐き出されていく。
シュッ、シュッ、シュッ。
紙が重なって落ちる音が、静かなフロアに連続して響く。
一枚や二枚の枚数ではなかった。
印刷音は止まることなく、一定の早いテンポで刻まれ続けていた。
寺内はデスクからゆっくり立ち上がり、足音を殺しながら複合機へ近づいていった。
三
複合機の真正面に立った。
操作パネルの液晶画面を覗き込む。
青い画面の中に、実行中のプリントジョブの詳細が表示されていた。
「ジョブ名:履歴書_最新.pdf」
「印刷部数:1 / 100」
百枚の連続印刷が、何者かによって実行されていた。
送信元のPC名やアカウント名は、完全な空欄になっていた。
寺内は排紙トレイの上に溜まり始めた、温かい印刷用紙を一枚手にとった。
トナーが焼き付けられた直後の、独特の焦げた臭気が鼻をつく。
用紙の表面に印字された文字に目を通した。
印刷されていたのは、市販の履歴書のフォーマット。
氏名欄:「寺内 賢一」
生年月日:「1992年8月14日」
住所欄:現在自分が一人暮らしをしているマンションの住所と部屋番号。
学歴欄、過去の職歴欄、保有資格の項目。
すべて、寺内自身の経歴が寸分違わず完璧に印字されていた。
さらに、志望動機欄の大きな枠。
そこには、黒い太字でこう印字されていた。
「貴方の代わりに、この場所で永遠に働きます」
寺内は強い恐怖とともに眉をひそめた。
自分の履歴書データ。
転職活動など、現在一切行っていない。
パソコンのローカルフォルダにも、このような履歴書のPDFファイルは保存していなかった。
なぜ、自分のプライベートな個人情報が満載された不気味な書類が、深夜の無人オフィスで大量印刷されているのか。
手の中の用紙が、トナーの余熱で生暖かかった。
四
寺内は履歴書の右上、証明写真を貼り付ける枠に視線を滑らせた。
カラーで鮮明に印刷された、四角い顔写真。
そこに映っていたのは、間違いなく寺内自身の顔だった。
スーツを着た自分の姿。
髪型も、顔の輪郭も、自分そのものだった。
寺内は目を見開いた。
写真の中の自分の表情。
口元が、不自然なほど左右に大きく引き裂かれていた。
白い歯を剥き出しにし、狂気じみた薄笑いを浮かべている。
目は見開かれ、カメラのレンズを歪んだ歓喜で見つめていた。
こんな表情で写真を撮影した記憶は、これまでの人生で一度もなかった。
証明写真機に入った覚えも、デジタル写真をアップロードした覚えもない。
寺内は写真の背景の光景に目を凝らした。
通常の証明写真のような、青や灰色の無地の背景ではなかった。
写真の背景に映し出されていたのは、薄暗いオフィス空間だった。
パーテーションの陰。
壁の避難経路図。
そして、蛍光灯の下で青白く光る、ノートパソコン。
写真の背景に写っていたのは、まさに「今、自分が作業していたデスク」そのものだった。
寺内は呼吸を止めた。
写真の中の自分が座っているのではない。
この写真の撮影者は、寺内のデスクを、斜め後ろの暗がりから隠れて撮影していた。
五
シュッ、シュッ、シュッ。
複合機は無情にも、同じ履歴書を吐き出し続けていた。
トレイから溢れ落ちた用紙が、床のリノリウムの上に白く散らばっていく。
寺内は床に落ちた十枚目、二十枚目の履歴書を拾い上げた。
写真の背景の構図が、一枚ごとに僅かに変化していた。
一枚目:遠くに見える寺内のデスク。
十枚目:デスクへ近づく通路の途中。
二十枚目:複合機が置かれているフロアの角の手前。
三十枚目:今、自分が立っている複合機の真後ろの暗がり。
撮影者の位置が、一枚印刷されるごとに、じわりじわりと寺内へ近づいていた。
連続写真のように、何者かが暗闇の中からカメラを構え、歩み寄ってくる光景が記録されていた。
現在印刷されている、五十枚目の履歴書。
写真の背景。
複合機の前に立っている、寺内の後ろ姿が、首から下まで大きく写り込んでいた。
撮影者は、今、自分のすぐ後ろに立っている。
寺内の全身の毛穴が開き、冷や汗が噴き出した。
首筋に、生ぬるい人の呼吸のような湿った空気が吹きかかってくる。
振り返ることができなかった。
首を動かそうとしても、恐怖で筋肉が金縛りに遭ったように固まっていた。
シュッ、シュッ。
印刷音は止まらない。
トナーの焦げた匂いが、部屋全体を充満していく。
その時。
複合機の原稿台(スキャナーのガラス面)が、突如としてパッと青白く強く発光した。
ウィーン、コン。
ガラスの裏側で、スキャナーの光の棒がゆっくりと往復運動を始めた。
原稿台の自動読み取りが始まっていた。
寺内は視線だけを、自分の真横にある原稿台のガラス面へ向けた。
圧着カバーが開いたままの、裸のガラス面。
強い白い光が、下から上へと通り抜けていく。
ガラスの上。
そこに、何かが上からピタリと押し当てられていた。
湿った人間の顔面。
そして、二本の細く長い腕。
ガラスの表面に、強く押し潰された皮膚と鼻筋、そして見開かれた血走った眼球が、下からの光に鮮明に照らし出されていた。
スキャナーの光が、ガラスに押し付けられた「ナニカ」の顔を、ゆっくりとスキャンしていく。
ウィーン。
操作パネルの画面が切り替わった。
「新しい原稿を読み込みました。印刷を開始します」
排紙トレイから、出来立ての温かい用紙がシュッと吐き出された。
寺内の足元に落ちた、新しい一枚。
その履歴書の写真枠には、今、原稿台でスキャンされたばかりの「顔」が、寺内の名前の上に鮮明に印刷されていた。
複合機の連続印刷音が、誰もいないオフィスに高らかに響き続けていた。




